第七話 ライラック ~初恋の芽生え~
「よいっしょ…っと」
桜川は、一人で体育館の横の壁に掛けてあった看板を椅子に上って直していた。
彼女が看板を動かすたびにゴトッと音が鳴り、夜の体育館に静かに響きわたる。
看板には書道部の部長によって『新入生おめでとう!』の文字が書かれていた。
彼女はそれを少し動かしては離れて確認し、何度か繰り返したあと、うん、と肯いてからまた次の作業に取り掛かった。
(桜川さん…?…こんな時間まで何を…?もう作業は終わったはずなのに……)
僕は声をかけるのも忘れて、彼女の姿を見てあっけにとられていた。
昼ごろは少しばかり暑く感じたが、まださすがに夜はひんやりとする。
たまに吹く横風が、僕の体と共にドアにも吹きつけて、小さくガタガタと音がなっていた。
しばらく作業をすると、彼女はとりあえずの体育館の状況に満足したのか、全体を見回して「よしっ」とうなずき、ふう、と息を漏らす。
僕も緊張がとかれたように、思わずふうっと大きく息を吐き出した。
すると、その気配に気づいたのか、周りを見まわしていた桜川が、はっと気づいたようにこちらを見る。
「誰っ!?」
その言葉に、一瞬、体がびくっと震えた。
姿を確認された僕は、おそるおそる体育館の中へと入る。
「お…織倉君…?」
「ご、ごめん…忘れ物を取りに……」
本来ならば、謝ることはしていないはずなのに、思わず謝罪の言葉が出てきたのは、黙って見ていたことに対する罪悪感からだろうか。
彼女は、僕の姿を確認すると、ほっと胸をなで下した。
「もう…なんだ……。驚かせないでよ……」
「ど…どうしてこんな時間まで…?っていうか…桜川さん何を…?」
設営は、たっぷりと時間をかけて、準備は万端のはずである。
担当の先生からも、近年まれにみる大作だと、絶賛されたばかりだ。
「うん、ちょっと手直しかな。気になるところがあってね、戻ってきちゃった」
桜川は、そういって、先ほど直したばかりの看板に目をやる。
「本当は…もうちょっといろいろやりたいことがあるんだけど…さすがに時間が時間だし……皆を付き合わせるのは悪いかなって思って先に終わらせたんだけど、どうしても……ね…」
桜川は、そう言いながら、僕の方へ歩いて近づいてきた。
「はい、忘れ物ってこれでしょ?中に名前が書いてあったわ」
と、自分のカバンのところまで歩いて行き、そこから僕の定期券を取り出して差し出した。
どうやら、作業中に拾っておいてくれたようだ。
僕はお礼を言ってそれを受け取りながら、体育館を見回す。
一見、直すところなどないように見える。
少なくとも僕の目からは。
桜川は僕の疑問に気づいたのか、
「…私ってさ…なんていうか…完璧主義者なんだよね…。ちょっとでも自分の考えと違うところがあったら、なんとなく落ち着かないっていうかさ……変だよね。無駄なことしちゃってさ」
と少し困ったように笑いながら言った。
(やっぱり…だ……)
僕はその言葉を聞きながら、思った。
(彼女は…桜川さんは…すごく真面目なんだ。真面目で、まっすぐで……自分が正しいって思ったことをやり遂げられる人なんだ……)
「へ、変…じゃないよ…」
僕はぽつりと言った。
桜川は、まだ顔に困ったような笑みを残しながら、えっ?と僕の方を見る。
「変じゃない。むしろ……すごいっていうかさ……」
うまく言葉を並べられない。
だけど、僕は嘘を言ってるつもりはなかった。
本気でなんでも取りこめる。
冷めた奴から見れば、それはうざいと表現されてしまうのかもしれない。
だけど、少なくとも僕には、それは、「すごい」ことなんだと思った。
「あ……ありがとう……」
桜川は、不意を突かれたような表情をしていたが、クスッと笑って、
「なんか…織倉君って、会うたびに私のことすごいって言ってくれるよね…。あの本屋で会った時もさ……私が勉強するの…すごいって……」
と静かに言った。
(そうだ、そう言えばあのとき会った時も同じことを思ったんだ……)
「…周りの人から…そんなこと言われたことなかったからさ。……ふふっ、織倉君って変な人だね」
彼女は、ふっと息をついて、
「あ~あ、これで集まりをさぼってなかったら、ちゃんと真面目ないい人だったのにな~」
と、彼女は僕に意地悪そうな笑みを浮かべながら僕の方を見た。
「う、うるさいな…あれはそうじゃなくて………」
「そうじゃなくて?」
そうじゃなくて、桜川さんに見とれてて聞いてなかったんだよ
とは、本人を前にして言えるはずもなかった。
「ん~?」
と、黙り込んでしまった僕の顔を、桜川が覗き込む。
僕はあわてて顔をそむけながら、いや…別に……と小さな声で答えると、
「あははっ、何それ~?」
と、笑った。
それは、その表情を見ただけでは彼女ががり勉ちゃんなどと呼ばれているとはだれも想像できないような、満面の笑み。
そして、見ている人をほっと安心させるような笑顔だった。
僕も思わずふふっと笑いがこぼれた。
僕はその笑顔を見ていて、分かったことがある。
この人は普通の女の子なんだということ。
真面目で、自分の信じた道をまっすぐ走って、前しか見えていないこともあるけれど、とっても素直で、純粋で、優しい人なんだということ。
そして、もう一つ、
僕は、そんな彼女に
可愛くて、厳しくて、笑顔が素敵な桜川侑希に
恋をしているということ。