第五話 アイリス 〜和解〜
「やっべ〜遅くなっちゃった」
今日は大事な漫画の発売日で、授業が終わると同時に学校を飛び出し、本屋に直行……
の予定であったが、のっぴきならない用が出来てしまったのである。
「あ〜…あと3点取れてればな〜……」
何のことはない。
授業中に行った歴史のテストの点が足りず、追試を受けさせられていただけのことである。
「ったく…なんで追試なんか……」
僕は大きくため息をつきながら、大通りを歩いていった。
あの桜川の件があってから一週間。
あれから彼女と顔を合わせていない。
もしかすると、意識的に避けられているのかも知れない。
そうなると、逆にこちらが避けていたところが、追いかけたくなるのが心理というものではないか。
いつの間にか、桜川のことを考えている時間が増えているような気がした。
(な、なんで俺はあいつのことなんか考えてるんだろ…あんな怖い女なんか……)
春になったとはいえ、まだまだ日は短い。
学校を出て、本屋についたときには、すでに日は傾いていた。
僕は、目立つところに山積みになっていたお目当ての漫画を手に取り、レジに向かおうとしたところで、ふと
(そうだ、追試にもなったついでに歴史の参考書でも見ていこう)
と思った。
こう思うあたり、自分では何とも真面目だと思うのだが、奥原から言わせれば、どうせ三日坊主で終わる、とのことだ。
(人がやる気を出しているのに失礼な)
と思うのだが、否定できないところがまたもどかしさを感じさせる。
(えっと…参考書…参考書……)
上に表示されている看板を頼りに、参考書コーナーへと向かう。
(ここの角か……)
示されている場所への、本棚を曲がると、人とぶつかりそうになった。
「あっ」
「きゃっ」
危うくぶつかる寸前で、踏み出そうとしていた足を後ろに引き戻す。
相手はどうやら女性のようだ。
「ご、ごめんなさ……あっ!」
「え?…あっ!!」
お互いの声が重なる。
ぶつかりそうになった相手の女性は…まさに、ここ一週間の悩みの種であった、桜川だったのである。
「え…えっと…、ご、ごめん…」
僕は、しばらく状況の整理が追い付かずに戸惑っていたが、はっと気づいて、あわてて言った。
「あ、えっと…うん…」
桜川も、少し下を向いて、言葉だけを返した。
とりあえず謝ったはいいものの、そこから何を話せばいいのか分からず、沈黙が走る。
二人とも、顔を下に向けたまま、ただそこに立っていた。
本屋で向かい合ってただ立っているというのは、なかなかどうして不思議な光景であっただろうか。
(こ…これってもしかしてチャンスなのかも……。この前のこと謝って……それで……それから…えっと……)
あまりにいきなりのことで、考えがまとまらない。
しばらくしてから気まずさに耐えかねて、
「あのっ!」
と、発した言葉が、ちょうど彼女と同時だった。
声が綺麗に重なり、再び、気まずい沈黙状態だ。
「ど、どうぞ……」
桜川が小さな声で言った。
どうぞ…と言われても、とりあえず口を開いたものだから、何を言うべきかも分からない。
ただ、言葉を探しながら、ゆっくりと口を開いた。
「え、えっと……」
とにかく、一週間前のことを謝らなければ。
「この前は…その……ごめんなさい…」
桜川の顔がほんの少し動いたように見えた。
「さ、さぼっちゃってさ……ほんと…不真面目だったから…ごめん」
文にならない言葉を並べる。
桜川は少しの間黙ってから、「うん」と、小さくうなずいた。
「や、やっぱり…ああいうのはやめてもらいたいな。せ、せっかくさ、皆もがんばってるんだから、一人の行動で全体の行動が…めちゃくちゃになっちゃうんだから……って…」
ここまで言って、桜川は口を紡いだ。
そして、しばらくしてから、
「まあ…だけど……あたしもちょっとは言いすぎたかな……だから…ごめん」
とぽつりと言った。
えっ?
僕は、うつむいていた顔を上にあげ、桜川の方を見た。
桜川は急いで顔を少し横にそむける。
そして僕は、もう一つ謝らなければならないことを思い出した。
「あ、あとさ、カバンに入ってた本のことなんだけど……」
桜川は、一瞬何のことか分からずぽかんとしていたが、すぐにその意味を悟ったようだ。
「あ、あれは誤解で……だから…えっと……」
「そ、そのことはもう…いいわ……」
桜川が、僕の言葉をさえぎった。
「も、もうやめてよね……。あと…女の子にあんなもの…見せないでよね…」
それは僕のせいじゃないのに…と思っても、決して口には出せないのだ。
「え…あ…うん…」
まあ、カバンにそんなものを入れておいた責任は僕にもあると、少しばかり反省して、ふっと息をついた。
少しの間沈黙が走る。
僕は、言葉を探しながら、彼女をちらっと見た。
彼女は学校帰りのようだ。
制服姿に学校制定のカバン。
チェックのリボンもきちっと止めている。
いかにも模範生の鏡である。
(でも…やっぱり綺麗な人だよな……)
僕は、今の状況を無視して、そんなことを考えてた。
僕は、頭の中の考えを一掃し、再び彼女に目線を向けた。
彼女は、よく見ると、両手に参考書を抱えている。
(すごいな……そんなに勉強してて……)
そんなことを考えていると、思わず口から出てしまった。
「桜川さんはさ、偉いよね…」
「えっ?」
桜川は、不意を突かれたような表情をして、僕の方を見る。
驚いたのは僕も同じである。
まさか、ここまで驚かれるとは思わなかった。
どうしていいものか分からないが、ここで辞めるわけにもいかず、思ったことをそのまま続けた。
「あ、いや、だからさ。そ、そんなに勉強頑張ってて、それに新歓にもそこまで必死に取り組んでて。…正直、すごい努力してるんだなって思ってさ…」
桜川は、自分の抱えている参考書をちらっと見て、それを隠すように手で参考書を覆った。
「えっ、あっ…これは…別に…そんなに……」
桜川は、恥ずかしそうに顔を下に向ける。
「ど、どうしていきなりそんなこと…?」
彼女は、上目づかいで僕を見て言った。
どうしてもなにも、思ったことを言っただけで、理由などなかった。
「えっと…だから…何が言いたいかっていうと……そんなに努力してるのにさ……俺がさぼっちゃったっていうのが、改めて恥ずかしくてさ……だから…ごめんっていう…さ……」
自分でも何を言っているのかよく分からない。
言った後に、どうすればいいかも分からなくなり、僕も、顔を彼女から背けた。
桜川は黙っている。
妙な間があった。
「えっと……」
僕が気まずさに耐えかねて口を開くと、彼女の体がびくっと小さく震えるのが分かった。
「あ、う…うん…ありがと…ね」
彼女はあわてて言った。
「えっと………あ、あたしもう行くから…これで…。…じゃあね」
「え?あ、う、うん」
桜川は、口早にそう言って、僕が返事も聞かずに、レジの方へと向かって、振り返ることなく、早歩きで行ってしまった。
(ど、どうしたんだろう………)
行ってしまう彼女の背中を見届けながら、僕は首を傾げた。
(……なんか最後の方変だったな……なにか気にかかること言った…かな……)
不思議に思いながらも、僕はふっと息をついた。
(だけど…ちゃんと話せてよかったな……)
少しだけ、心のつっかえが取れたような気がした。
そして僕は、自分が歩いてきた意味を思い出し、参考書コーナーへと入っていった。