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狐の恩返し

初めて短編小説というものを書きました。

 鶴の恩返し。

 狸の恩返し。

 狼の恩返し。

 猿の恩返し。

 恩返しという言葉がついていなくとも、動物が人に恩返しをする、そんな昔話や民話が、日本にはいくつかある。

 いや、いくつというよりかは、三十といくつばかり、と言ったほうが良いかも知れない。

 動物の恩返しを扱った話は、意外なことにそれだけ多い。

 蛙だったり、蟹だったり、獺だったり、聞いたことの無いような話が様々ある。

 しかしどうしてか、その中でも狐の恩返しを扱った話が、やたらと多い。

 他の動物、生き物はせいぜいあっても二つほどの話でしか扱われないのに、狐を扱った話は六、七個はある。もしかしたらもっとあるかもしれない。

 狐は稲荷神だったり、妖狐だったり。

 神の使途でも、人に益をもたらすものでも、はたまた害を成すものでも。

 狐の話が多いのは、古来より、日本文化との関わりが深いからだろうか。

 しかし何も、狐に限った話ではないはずである。

 でも何故なのか、狐が人間に恩返しする話は多い。

 偶然か、それとも何か、自分の知らぬ背景でもあるのか。

 分からない。だが、ひとつだけ分かることがある。


 狐は恩返しをする。


 



   

*****************




 暇だ。

 夏休みというのは、どうしてこうも長く、そして短いのか。

 そんな着地点の見えない思考を始めてしまうほどに、自分は暇の余る時を過ごしていた。

 何、じゃあ自分はやること、正確に言えばやらなくてはならない事が一つも無いのか?と問われれば、いいえと答える他無いのだが、それを加味しない上での、暇な時間というやつである。

 いつもならそんな時間は、ネットゲームをするか適当に何処かに出掛けるものだが、生憎、今はいつもと同じようにはいかない。

 何故なら今の自分は、祖父母の家に泊まりに来ているからである。

 それはそれは田舎の田舎。山の中の山の中。

 水道は山水、ガスは通らず、風呂は薪。

 今どき珍しく携帯電話の電波が圏外の、そんな味わい深き古民家に、自分は閉じ込められているのである。

 家から出ても、近くにはやたら広い庭と、五枚の田んぼと、三棟のハウスと、数列の畑くらいしか見当たらず。後はその周囲をとり囲む鬱蒼とした木々と茂みと、野山しかないような所である。

 小さい頃は広い未知の土地に心踊らせ、遠くの山頂でのっそり回る大きな発電用の風車を見てははしゃいでいたものだが、哀しきかな、今となってはただの見慣れた、何も無い風景でしかない。

 では街の方まで出てみては、なんて一瞬思ったりもするのだが、残念な事に、一番近いコンビニまで車で三十分もかかるような立地である。簡単にそうはいかない。

 しかも、車でもっと遠くまで連れていって貰おうにも、両親は自分をこの家に残して仕事で帰ってしまったし、祖父母は揃って農協に出掛けてしまって、現時点でこの家にいるのは自分一人だけなのである。

 高校生の自分には当然車など運転出来ないから、本格的に暇じゃないかと、居間の畳でごろごろするのが止まらない。

 こんな昼間では、テレビもつまらなくて消した。スマホを覗いても、圏外だから結局用なしである。

 この土地はエアコンが無くとも涼しく、湿度もほどほどに、ある程度快適ではある。

 しかし、今の自分には昼寝することも叶わず、外の元気な蝉の喧騒は鬱陶しくなり、不機嫌な自分はしばらくして、とうとう立ち上がったのだった。

 家の中にいても始まらない。

 憂さ晴らしと言うか、気晴らしの為にも取り敢えず外に出ようと、財布とスマホをポケットに突っ込んで、家に隣接する納屋へと向かった。

 納屋には使っていない自転車がある。

 峠を一つ越えた先に、小さな駄菓子屋があることを思い出したのだ。

 幼稚園児の頃に、祖父と一緒に行った記憶がある。

 当時でも大分古い店であったから現存するのかは分からないが、結局どちらでもいい。

 恐らく、自転車で片道十五分掛かるか掛からないか。

 どちらでも構わない。

 自転車がしっかりと作動する事を確認し、サドルの高さを調節し、納屋の外へと漕ぎ出した。


  

 所詮は気分転換である。

 ゆるゆると風が心地いい程度にペダルを回し、舗装された畦道の風を切る。

 駄菓子屋は確か、このまま細い県道出てに進み、途中で峠を登って、また少し下った所にあったはずだ。

 峠まで来て少々足が遅くなったものの、峠道特有の曲がりくねった緩やかな道のお陰で大して苦労する事もなく、順調であった。

 車がほとんど通らないせいか、道なりは道路の上にまで緑が侵食し、アスファルトに連なった影を落としていた。

 ここの田舎っぷりにはつくづく驚かされる。

 そんなことを思いながら、良く言えば緑豊かな、悪く言えば鬱陶しい雑草の間を走ること十分ほど。

 緩やかな傾斜はやがて平坦となり、視界が開ける。頂上だ。

 峠の頂上には小さな砂利の広場、恐らくは元々倉庫か何かがあったその跡があり、いくらか広い土地となっている。

 そこまで来て、自分は自転車のブレーキを引いていた。

 ここまで来たら、スマホの電波も回復しているのではないだろうかと、言わば現代病の如く由縁からである。

 自転車を離れて木陰に入り、スマホの画面を開いた。

 圏外。ではない。

 しかし電波強度を表すゲージは四本中一本しかた立っておらず、なんの揺らぎか時々零本になる始末。ネットもゲームもSNSも結局使えず、ため息をついてポケットに突っ込んだ。

 実はここまで来た理由の一つが、電波確保と情報チェックになっていたりもしたのだったが、流石時の流れから取り残された場所だと小さな皮肉混じりの悪態を、心の中で呟くだけで終わってしまった。

 ぽりぽりと後ろ頭をかきながら、自転車の元へと戻り、サドルに跨がる。

 しかし、自分はそこで足をペダルに置くことは無く、峠の下り坂を見ることも無く。何もない広場の空間を、ただぼーっと眺めていた。

 

 こんな時、自分は何をしていただろうか。


 スマホも、ましてや携帯電話(ガラケー)すら持っていなかった頃。

 ふとすれば、そこで遥か昔の、僅かな記憶が甦っていた。


 小さな頃、駄菓子屋へ祖父と出掛けた帰り道。自分はいつもここに立ち寄り、遊んでいた。

 どうしてだろうか、こんな何も無いところで。

 分からないが、あの時の胸の高鳴りようは、何となくだが今でも忘れていなかった。

 何も無い所から、何かを見つけ出していたのだろうか。何をしていたのだろうか。

 何なのかはもう分からないが、それでも自分は、確かにここで遊んでいた。

 自分は自転車から降りて、記憶を辿るように、ゆらりと広場へ踏み入った。

 いつからか、ここに何も無くなったのは。

 いつからか、後ろを振り返るようになったのは。

 自分の事なのに、自分はもう分からない。

 自分は思いを馳せる。

 出来ることなら、また同じようにあってみたい。

 だがそれは、今のこの時のように。青空を仰ぎ見る、あの大きな純白の入道雲のように。過ぎたあの時と同じ景色は、自分の元に二度と戻りはしない。

 自分は変わった。何かを得ては、何かをなくしてきた。

 逆行する事は叶わないし、同じ夏は永遠に訪れない。

 重々理解しているつもりである。でも、それでも、この虚しさが散ることは決して無い。

 だからせめて、あの時のように。過去など無く、ただ今の目の前で楽しんでいたい。

 気づけば自分は、広場の奥のある一点へと向かい、ゆっくりと歩いていた。

 砂利の広場の奥の、生い茂る草木の合間。その先に見える細い道を、ただ漠然と見据えながら。


 戻りはしない。

 同じにはなれない。

 でも、同じようになら。

 出来ることなら、昔のようでありたい。


 自分は自然へと消える、森のトンネルへと入っていた。 




 一歩入った時から少しばかり後悔しているのかもしれないが、いやそんな事は無い筈だと、その考えは捨て置いた。

 一応人が切り開いた道のようではあるのだが、しばらく誰も通っていないせいか荒れ放題、草は伸び放題、最早獣道である。

 強い木漏れ日。煩い程の蝉の合唱。

 脚にまとわりつく湿った下草や、たかる小蝿に鬱陶しさを感じながらも、自分は足を止めなかった。

 緩やかな起伏を幾つも越え、大木の根を幾重も跨ぎ、小川を飛び、道なき道をひたすら進む。

 しばらくして、視界が開けた。

 ヤツデの葉の塊を掻き分けた時、それは唐突に現れた。

 森の中にぽっかりと開いたその空間には、一つの建物があった。

 それは小さな木造の一戸建てで、作りからして山小屋などでは無く、寺のように見えた。いや、お社と言うべきか。

 瓦の三角屋根と、窓の無い木戸。何より、壇上に腐り落ちたしめ縄と、傍らに横たわるボロボロの賽銭箱が、それを表していた。

 敷地は小さな円形に切り開かれ、樹木は一本も無いものの、雑草が膝下まで伸び上がっていて、人の手が入らなくなって何年、いや、裕に十年以上は経過しているように見えた。

 こんなものが、こんな所にあったなんて。

 それ自体にはこれと言った特異性も何も無いのだが、なんだか、凄い発見をした気分である。

 もしかしたら、地元でもこの存在を知る人は少ないんじゃないかと、少々嬉しくなった。

 どんなものかよく見ようと、草々をかき分け、ゆっくりと周りを回って正面まで行く。

 するとそこで、足に何かが引っ掛かった。

 立ち止まって見ると、それは朽ちた木の板と、横たわる数本の細い丸太であった。

 恐らく、ここの名称が書いてあったと思われる扁額と、入り口の鳥井だったのであろう。

 どんな名前が書いてあったのかと屈み込み、解読を試みるが、『山嶽……狐……社』辛うじて読み取れたのはそれくらいであった。

 神社としては、酷い有り様である。ただの素人目ではあるが、建物自体も相当痛んでいるようだ。

 正面に立って見直して、より一層そう思った。

 果たして神はいるのだろうか。

 まぁ、どちらでもいいか。

 見知らぬ神であっても、こうして奇跡的に出会えたのであれば挨拶すべきであろう。

 無性にそんな感性が湧いてきて、自分は財布を取り出していた。

 当然賽銭の為であるが、とそこで、とあることに気がついた。

 小銭が全くない。

 一円玉が三枚と、五円玉と五百円玉が一枚づつしかない。

 紙幣は五枚。そしてどうしてか、全部一万円札である。

 思い出した。

 元々財布に入れていた一万円に加え、夏休みが始まった直後、夏休みだからと銀行から引き出した二万円。夏休みだからと父に貰い受けた一万円。そして夏休みだからと祖父母から貰い受けた一万円。

 そんな事があって浮かれていた自分は、小銭を全く持っていない事を、すっかり忘れていたのである。

 一円玉では失礼であるし、だからと言って五百円玉を投げるのも気が引ける。札は論外だ。

 必然的に、選んだのは五円玉であった。

 それに五円はご縁と言う。ここでは縁も何も無いのではという気もするが、別にそれくらい思ってもかまわないだろう。

 社へと歩み寄り、そしてその燻んだ五円玉を一枚、古ぼけた賽銭箱へ投げ入れた。

 鈴は無いようだから、自分はそのまま二礼、二拍手、一礼をして、一歩後ずさった。

 思えば、何も願っていなかった。


 



 さて、帰るとするか。

 特に他にやることは無い。それに、自転車を離れてから結構時間が経っている。

 最早高性能懐中時計と化したスマホの画面を見ると、昼御飯に近い時刻になっていることに気がついた。祖父母も農協から帰ってきている頃合いだろう。

 結局、遥々御参りをしに山歩きをしただけになってしまったが、まぁそんなものだろうと、深くは考えない。

 雑草を踏み、元来た山道へと向かう。

 とそこで。


「なにしてんだぁこんなとこでー」


 そんな声が背後から掛かり、少しびっくりする。

 振り向けば、木々の合間に一人のお爺さんが立っているのが見えた。

 歳は自分の祖父と同じくらいか。格好からして、山作業をしているようだが、一体どうしたのだろうか。というか、どこから来たのだろうか。

 手招きするお爺さんに従い、そちらへと歩み寄る。


「どうした、道にでも迷ったか」


 お爺さんは心配そうにそう言う。


「いや、ただの散歩です。大丈夫ですよ」


 普通にそう返したつもりだが、少し驚いたようで、お爺さんは目を丸くする。


「あいやー、わざわざこんな所までそんなん。てゆうかどっから来たん」


 それはこっちの台詞だと思いながら、自分が歩いてきた山道を指差し示す。するとまた驚いたようで「あいやー、あの道繋がってたんかー。ま、気をつけてけえんなよ」と言ってから、「いや、呼び止めてすまんね」と残し、背中を向けて山の中へと歩いていってしまった。

 待ってくれ。貴方は何処に行くんだと、今度は自分が呼び止める。


「これから何処へ行かれるんですか?」


 答えはすぐ帰ってきた。


「こっちに道があるんよ。ほら」


 お爺さんが顎でしゃくった方をよく見ると、木々の合間から白いものが覗いていた。

 それは軽トラだった。社に気をとられていて、その存在に全く気づいていなかった。

 なんだ別の道もあったのかと驚くと同時に、自分の発見の特別感が薄れ、少々がっかりしてしまう。


「ほら、こっちの方は広いんよ。こっちから帰った方がいいかもしれんよ」


 自転車を残してきている以上そうはいかないが、ちょっとした好奇心が湧いて、ついていってみることにした。


「ついでに下まで乗っていくかい?」


 軽トラの所まで来てお爺さんはそう言ってくれたが、先の理由により、丁重にお断りした。

 というか、そんなことよりも……


「ああ、これが気になるかい」


 軽トラの荷台の大部分を閉めている立方体。さっきからそれがそれが気になって仕方がない。

 ブルーシートで覆われていて全容は見えないが、さっきから中でカツカツと何かが動き回り、頻繁にガシャガシャと引っ掻くような音がする。

 覆いの間から見える鉄格子と金網の事を考えると、動物用の檻であることは明白であるが。しかし当然、何が入っているのかは気になる。


「猪……ですか?」

「いんや、狐よ」


 意外であった。この地域では、畑を荒らすという理由で猪を捕るのはよくあるが、狐を捕るというのは聞いたことがない。


「まあね。元々は山から降りて来ないからなんとも無かったんけどね、最近になったらどうしてか下まで降りてきて、畑を食い荒らすんよ。だから、まあなんだ。個体数管理だっけ、環境収用……なんだっけか。まあなんかそんな理由で、ちょいと数減らさんといけんていうからよ」


「そうなんですか……」


 成る程そういう事か。しかし、ちょっとした疑問が生じる。


「どうしてこんな山の中で?」


「んなそんな畑の近くでやっても意味ねぇからな。それにここらはよう狐が出るからよ。こうさやって箱罠さ置いとけば簡単に入っから。俺は鉄砲の免許持ってねえし。ほら」


 お爺さんはそう言って荷台に近寄り、ブルーシートをめくり上げた。

 檻の姿が露になり、中で動いていた正体が見えるようになる。

 茶色い毛玉が中で鳴き、激しく動き回っている。光が入ったせいか、先ほどよりも興奮しているようであった。

 これが狐か。こんな間近で見たのは、生まれて初めてである。


「どうだ、綺麗だろ」

「そう……ですね」


 茶色というか、黄金色に近い。三角形に近い尖った耳に、ふわりとした尻尾。すらっとした毛並みは、確かに綺麗であった。

 狭い中で動き回るせいで分かりにくいが、どうやら三匹いるようだ。

 三匹とも本当に忙しなく、元気である。でも。


「じゃあこれは……」

「ああ、まあ、締めちゃうよ。可哀想だけどね」


 やはり、そうなってしまうものなのか。


「しゃあないことよ。可愛いもんしたくないけど、俺も仕事だしな」


 そう言って、またブルーシートで覆ってしまった。

 よりいっそう、ギャアギャアと鳴き喚く狐達の声。暴れる金網の音。

 自分は妙な心苦しさに襲われた。


「ほいじゃね。気いつけて帰んな」

「……待って」


 それは無意識で、考え無しの反射的なものだった。

 自分はお爺さんを引き留めていた。


「待ってください」


 それはただの、人間の、己のエゴであった。






 帰りの足取りは妙に重かった。

 それは自分の気持ちが、よく分からなかったからだ。

 そのあやふやさをなんと表せば良いのだろうか。それすらも、自分の事なのに、全く分からない。

 自分はお爺さんを呼びとめた。そして、狐を自分にくれないかと言った。

 驚かれ、そして反対された。

 当たり前である。

 自分は狐を飼いたいから、どうかくれないかと頼んだ。

 また反対された。

 当然と言えるだろう。

 法律上は問題無くとも、野生の狐は病気を持っている可能性があるし、何より野生のを簡単に飼えるようなものではない。

 それにお爺さんは、自分は役所から金を貰っているから、それを反古にするわけにはいかないと言った。狐を処分しなくてはいけないと。

 だが自分は折れなかった。どこからその根性が湧いていたのか、今となっては分からない。

 自分は、その仕事はいくらで引き受けたのかを聞いた。

 三匹処分して、一万と五千円の報酬だと答えた。だから自分は、その倍出せると言った。お爺さんはそれでも駄目だと言った。じゃあ三倍ならばと言った。すると、お爺さんは少し目の色を変えて、黙りこんだ。これはもう一押しだと、自分に譲れば殺さなくとも処分したことになるし、役所の依頼も達成したことになると言った。すると、お爺さんは「あんたにゃ負けたよ。だがどうなっても知らんぞ」と、差し出した五枚の一万円札を掴み取り、軽トラから檻を下ろして、山道を下って行った。

 軽トラの姿が完全に見えなくなって、自分と狐三匹だけになった。

 狐達は相変わらず活発に動き回り、鳴いている。

 当然、そのまま持って帰ったりはしない。飼う気は毛頭も無い。

 恐る恐る、自分は止め金を外して、そっと檻の入り口を開いていった。

 するとそれが開ききる間も無く、狐のその表情も見る暇も無く、出来たその隙間から、三匹は勢いよく抜け出していった。

 あまりの勢いのよさにびっくりして尻餅をついて、イテテと起き上がったときには、三匹の姿はもう、森の中へ消えていた。

 あっという間の出来事であった。

 戻ってきたのは、蝉のうるさい声だけだった。

 挨拶など、ありはしない。当たり前の話である。

 何故ならそれは、自然であるから。

 分かりきっているからこそ、自分の足は重いのだろうか。でもやっぱり、自分は分からなかった。

 行きと違って、帰りはあっという間であった。

 砂利の広場に出て、眩しい直射日光に晒される。自分の気持ちとは裏腹に、空は底抜けに晴れていた。

 熱くなった自転車のサドルにまたがり、ペダルを踏んだ。

 家に帰る前に、そう言えばすっかり本来の目的を忘れていたと、目の前の峠を下った。

 駄菓子屋は潰れていた。


 




「ただいま」


 自転車を納屋に置き、母屋へと帰る。


「おかえりー、あんたどこ行ってたの?もうお昼ご飯だよ」


 そんな事を聞いてきた祖母であるが、まさか狐を逃がすために五万円を払ってきたなどとは言えないから、自転車でちょっと出掛けただけだと、適当にはぐらかした。

 しかしちょっと、これも心が痛む。何故なら自分は、好きなものを買いなさいと祖父母から貰った一万円を、まんまと野山に逃がしてしまったからである。自分で自分が買いたいものを買ったのだから構わないだろうという名分も出てくるが、如何せん、そこには度し難いものがある。

 だからといって、やっぱりそんな事を話せるわけもなく、もやもやした気持ちのまま、食卓へと向かったのであった。

 祖父は既に上座の着き、お茶をすすっていた。

 祖母がせっせと料理を運ぶ中、自分もいくつか皿を運んでから席に付く。すると祖父は湯飲みを置いて、こちらへと向き直った。そして言う。


「おめえ、ここらに知り合いはいるか?親戚以外でよ」

「え?」


 一体どうしたというのか、藪から棒に。

 商店の店員以外で他人と接点を持つような場面など無いから、当然知り合いなんていうのも存在しないが。


「特にいないけど」

「そうだよなぁ……」


 祖父は腕を組み、うーんと唸る。


「何かあるの?」

「いや、さっきこんなもんが届いてよ」


 そう言いながら、テーブルの上に置いてあった布の塊を広げた。

 中から出てきたのは、折り畳まれた、大きなヤツデの青い葉であった。

 それに何か包んでいるのか、葉の中程が膨れている。一体何なのか、さっぱり分からない。


「これが……?」

「ああ、しかも中に小銭が入ってんだ」

「小銭?」

「おうよ。気味が悪いから元に戻したが……見るか?」


 自分はこくりとうなずいた。

 祖父がゆっくりとヤツデの葉を開く。

 すると中から、大量の小銭がこぼれ出てきた。大量や大量、相当な量である。

 一円玉、五円玉、十円玉ばかりであるが、一体どれほど入っているのであろうか。優に百枚は超えている。

 一体なんだっていうんだ。


「こんなのが……」 

「びっくりだろ?しかもこれが三束よ」

「三束も?」


 もう二束もあったようで、布の中から取り出して、また広げて見せる。物凄い量だ。

 今度は小銭に混じって、千円札や五千円が見受けられた。

 あわせて見たところ、おおよそ二万円分はあるように思えるが……


「というか、誰がこんなのを?」

「それは俺は見たけど、よく分からねえ」

「見たのに?」


 見たのに分からないとは不思議な話である。


「ああ、丁寧に家の戸を叩いてごめんくださいって来たんだけどよ。戸を開けてみたら、唐笠なんか被った子が三人立ってて。そしたらいきなり、これをどうか受け取って下さいっつてこんなん三つ押し付けて、そのまま走って帰っちまったのよ」

「……え?」


 全くもって分からない。


「だから分からねっつってんだ。俺が聞きてえよ。おめえより小さい子達だったけど、気味悪いったらありゃしねえ」


 小さい子供が三人、それぞれお金を沢山くるんだヤツデを持って家にやってきた?

 意味不明である。

 悪戯か?

 それとも、いや、まさか。そんな。


「ねえ……他に何か言ってなかった?」

「あん?そういや、お礼とか何とか言ってた気もしたが……」


 お礼。

 そんな、お金を貰うようなお礼ごとなど。


「知り合いでもなんでも無いんだろ?大体、こんな山ん中さ子供だけなんて。どっから来たかも分からんねえ。きっと何か、よくないもんでも……」


「ごめん。先食べてて。用事が出来た」

「きっと変な……え?なんだってさ急に」

「すぐ戻る!!」


 布ごと小銭の山を掴み上げ、困惑する祖父を背に、自分は倉庫へと走った。

 有り得る話では無いが、分かりきっているはずなのだが、自分は全力でペダルを漕いでいた。

 それは気が違ったわけでもなく、童話の世界を語っているわけでもなく、ただそこに、何処から湧いていた、確信にも近い憶測があったからである。

 いわずもがな、その目的地はただ一つ。

 畦道などとっくに走り去り、峠の坂など感もせず、自分はスピードを緩める事無くペダルを蹴り続けた。

 見慣れた道を走り抜け、頂上まではあっという間だった。

 急ブレーキをかけて、前かごから小銭を包んだ布を引っ掴む。そして自転車から飛び降りるくらいの勢いで駆け出して、森の中へ突っ込んで行った。

 自分のこの行動は、考えれば多分、酷く阿呆で滑稽で、荒唐無稽なものであろう。

 でも、だからこそなのだ。だからこそ、自分は息を切らし、そこへ向かうのだ。

 開けた境内へと飛び出た。そして雑草を蹴り飛ばしながら、あっという間に社の前を駆け抜けて、また森の中へ飛び入った。

 吹き始めた強い風に、心なしか背中を押されているような気がした。

 木々の合間をすり抜けて、目的地にたどり着いた。

 放置された、空っぽの檻の前へとたどり着いた。

 立ち止まり、荒い息を押さえにかかる。右手にぶら下げた布を強く握り締める。

 心臓の鼓動を落ち着かせ、森へと注意を傾ける。


 だが、それだけだった。


 相変わらず、そこには空っぽの檻だけで、何も起きなくて、ただ蝉が鳴いているだけだった。

 森はそれ以上に何も見せずに、ただ沈黙している。

 そこに何か?

 何も無い。

 ただそれだけであった。そこには何もありはしなかった、さっきと何も変わりはしなかった。

 自分の心は、あっという間に萎んでいった。

 やっぱり、自分が浅はかなだけであったか。ただ自分が間違っていただけなのか。

 これが、こんな情けないものが、現実というものなのか。

 いくら思い戻っても、何もありはしないのか。

 多分もう、何も無いのだろう。

 自分はとぼとぼと、来た道を戻った。

 自分で勝手に作ったつっかかりは、心の端に引っ掛かったままであった。

 社の前まで来て、ふとその佇まいを見つめていた。

 当然、そこも相変らず沈黙していた。

 やっぱりそんなものなのか。

 右手にぶら下げた塊が酷く重い。

 自分の馬鹿さ加減が、かえって笑えてくる。分かっていたはずなのに、笑えてくる。

 その自嘲に、笑みは無かった。

 肩を落として、雑草の中をまたとぼとぼと歩きだした。

 ここに戻ることは、多分もう、一生無い。


「待って」


 だけど、それを止めるものがあった。

 自分以外、誰もいないはずのこの境内で、それは呼び止めていた。

 自分は振り向いた。そして見た。

 白昼夢でもなければ明晰夢でもない。それは紛れもなく、自分の眼に映っていた。

 いや、それと言っては失礼だろう。一応、人なのだから。いやでも、それもあくまで一応であるので、また人とも呼び難いのだが。

 上が白で下が朱の巫女の服。それに身を包んだ、ちいさな女の子の姿。

 確かにそれは人であるのだけれど、また人でも無い。なぜなら側頭部に、その綺麗な黄金色の髪の毛の合間から、人の物とは別のフサフサした可愛らしいとんがり耳が、一対生えていたからである。そして腰の後ろでは、ゆらゆらと、思わずモフリとしてしまいたくなるような、黄金色の愛らしい尻尾が揺れているのであった。

 そう、一言で表すなら、それは、その狐は、その女の子は。


 ケモミミであった。


「待って下さい!!」


 その狐耳娘は、そう言って駆け寄ってきた。

 その可愛さからか、その可憐さからか、不思議とおどろおどろしさは感じなかった。

 しかしあまりにも急な出来事であったので、思わずたじろいでしまう。

 そんな反応を見てか、彼女ははたと足を止めて、ペコリと頭を下げた。


「ご、ごめんなさい。驚かすつもりは無かったのですが……」

「い、いや。別に大丈夫だけど……その、なんだろう。えっと」

「そ、そうですよね。普通信じられませんよねこんなの……」

「いや、そういうことじゃなくて……」


 しどろもどろである。

 当たり前だ。言い方はあれだが、一応未知との遭遇であるのだから。

 さして驚きはせずとも、多少なり調子は崩れる。

 むしろ、こうやって話していられるの自分自身のことが、自分では驚きである。

 会話にならぬ会話が途切れて、少々の沈黙の空気が流れる。

 どう対話すればいいのやら。自分の気持ちもよく分からないのに、それを考えるのは難しかった。


「驚かない……のですか?」


 そんな様子を見てか、彼女は不思議そうに訪ねてきた。

 驚かないのか。

 確かに驚きはした。だが、そこが自分でも不思議なところで、あまり驚いてはいないのであった。

 自分はゆっくりと首を横に振った。


「そうですか……それなら、良かったです」


 彼女はどこか嬉しそうだった。

 幼気な彼女の笑みは、その十二、三歳程の外見らしく、とても可愛らしいものであった。

 しかしどうしてか、その優しい笑みの底には、外見に相応しくない何かを秘めているように見えてならなかった。

 気のせいか。でも多分、ここには気のせいも何も無いのだろう。

 彼女はすぐに、真剣な面持ちになって言うのだった。


「その右手に持っていらっしゃる物の話をしに、ここまで来られたのですよね」

「……ああ」


 一夏の、一人の人と、一人の狐との話が、今始まる。



「ここで立ち話も何です。せめて、日陰に入りましょう」と提案した彼女に従い、ふわふわ揺れる尻尾に付いて、社の日陰まで移動した。


 そこに来て立ち止まった彼女は振り向き、早速、質問をしてきた。


「お金を届けに行ったあの子たちは、粗相をしませんでしたか」と。


 彼女はとても心配そうであった。

 しかし、自分はそこに居合わせなったので、その質問には何とも答えづらいものがあった。

 だが彼女の不安そうな表情を見た自分は、すぐに「いいえ」と返事をしたのだった。

 それを聞いて安心したのか、彼女は「良かったです」と、その小さな胸を撫で下ろした。

 とそこで、彼女はハッとして「あ、その……あの子達は私が送って」と説明を始めようとしたが、自分はそこまで察しの悪い男ではないと、その説明はさせないでおいた。

 察したと言っても、自分自身でも、にわかに信じられないような内容であるが。

 ただ流石に、質問しておきたいことがあった。


「その、今さら聞きづらいんだけ……聞きづらいんですけど……」


 普通の女の子を相手するようになった自分を抑える。そして言葉選びに迷う。

 目の前の女の子は、狐耳娘は、多分、恐らく、察するに、確実に、怪異であり、神であるか、またはそれに近しい何かであるのだ。

 自分にはよく分からない。

 ただ、「貴女は神様か何かですか」なんていう身も蓋も無い質問するのも気が引けた。

 彼女はその様子を感じ取ってか、可憐な笑顔で答えてくれる。


「はい、お察しの通り。私はこの山獄雫狐霊神社に祀られる……正確には祀られていた神。名は雫と言います」


 やっぱり。

 いや、やっぱりなのだろうか。


「そ、そうですよね。すみません……雫さん」


 面と向かって自己紹介されると、また違ったものがある。

 どこかで、目の前に狐耳娘を見ている自分を、信じきっていなかったからかもしれない。


「敬語でなくとも結構です。どうか、雫とだけ呼んでください」


「は、はあ……」


 いくら神の許しがあろうとも、普通に彼女と話すなど、ましてや呼び捨てにするなど、自分には恐れ多く極まりない。

 だが、彼女はそれを嫌がるようであった。


「何せ、信仰を失って久しいです。私の社も、私の装束も、この通りですから」


 そう言って、少しだけ装束を見せびらかすようにした後、恥ずかしそうに、そのくすんだ袖を背中に隠した。

 でも、それでも、彼女はまたすぐに、純真無垢そうなその姿で、こちらに笑いかけてくるのだった。

 自虐的にも見える彼女の姿に、自分は胸が締め付けられた。

 社と境内が荒れ果てていることも、彼女の装束が薄汚れていることにも、自分は既に気付いていたのに。自分はそれに、敢えて触れようとはしなかったのに。

 だからこそか、不変的に振舞おうとする彼女を、自分はどうしても直視することが出来なかった。

 その十二歳ほどの姿で、そんな素振りを見せる彼女に、自分はかける言葉が見つからなかった。


「どうかされましたか?」


 それなのに、彼女は他者を気にかけて、うつむいた自分の顔を覗き込んでくる。

 ちょっとした心配そうな顔の、ちょっとした小首の傾げ方の。ぴょこりと動く狐耳と、ゆらりしなる狐の尾と。彼女のそんな、ちょっとした動作の一つ一つ、一挙手一投足が、一々この上なく、見惚れそうなほど可愛らしい。

 だからこそ、自分は余計に見ていられなかった。自分には嘘をつくことしかできなかった。


「いや、何でもない……です」

「それならよいのですが……」


 それ以上に、会話が続かなかった。

 沈黙。

 それは決して、気まずいものではなかった。しかし当然、居心地のいいものでもなかった。

 先程までうるさかった蝉の声も、どうしてか気付いたらピタリと止んでいて、ただ緩やかな心地いい風だけが、彼女との間に吹き抜ける。

 と、自分はそこではっとして、ここまで来た理由を思い出した。

 そうだ自分は、これを返しに来たのだと。

 右手にぶら下げていた布の塊を持ち上げ、口を開いた。


「分かっています」


 しかし、彼女のほうが早かった。

 そしてどうしてか、彼女は罰が悪そうにうつむいて、小さな声で続けた。


「おっしゃりたいことは分かります……やはり、それではとても足りないですよね」


 一瞬、彼女が何を言いたいのか分からなかった。


「あなたにはあの子たちを助けるのに五万円も払っていただいたのに、私が用意できた金額は三万円にも届きません」


 思考が追いつく。


「そんな……」

「ごめんなさい」


 彼女は深々と。深々と頭を下げた。

 それ以上何も言わず、ただその小さな頭を深々と下げて、三角形の耳まで折り曲げて、しっぽもしょんぼりと垂れ下げて。


 ごめんなさい。


 悲痛だった。

 あまりにも、悲痛だった。

 どうして彼女が頭を下げなければならないのか。どうして彼女が、こんな風に謝らなくてないのか。

 あまりにも惨めで、情けなかった。

 彼女がではない、自分がだ。

 なんと言えばいいのか、どう言葉をかけていいのか、自分には分からなかった。

 だが、次の瞬間。自分は彼女に向かって叫ばんばかりに、声を大にして言っていた。


「やめて下さい‼僕はただ、これを返しに来ただけです‼」


 そして小銭の詰まった布を、目の前に突き出した。

 びっくりして顔を上げた彼女は、それを目の当たりにして、大層困惑しているようだった。


「返……しに?」

「そうです」

「そんな、滅相もない……」

「あれは僕が勝手に使ったお金です。このお金は、僕には受け取れません。それに……」


 あまりの小銭の多さ。そしてそれらの劣化具合。

 このお金は恐らく、いや確実に、すぐそこにある賽銭箱からもってきたものなのだ。

 尚更、自分には受け取れない。


「とにかく、これは全部返します」


 彼女の手元に布を差し出した。


「だ、駄目です!!受け取れません!!」


 しかし彼女は身を引いて、それを拒んだ。


「でも……」


 続けて、彼女は懇願するように、訴えかけてきた。


「どうか受け取ってください。私にもまだ、神としての体面があります。それを受け取ってもらえなければ、私にはもう、何もお渡しできる物が無いのです。ですからどうか。どうかそれを受け取ってください」

「……………………………」


 そんな必死な様相の彼女に、自分には反論する言葉が無かった。

 そもそも、自分に受けとる資格など、ありはしないと言うのに。


「お気持ちはわかりますが、でも、あの子たちからして見れば、貴方は受け取るべきなのです」

「……そう、言っていたのですか?」

「はい。感謝していましたよ」

「そう、ですか……」


 当然、私もです。と、彼女は微笑み、そう付け加えた。

 人間が捕まえて殺そうとしたのを、人間が、自分が逃がしたというだけなのに。

 こんなの、マッチポンプもいいところなのだ。

 それなのに、こうして感謝されていることが、彼女がこうして感謝していることが、どうしても腑に落ちなかった。


「何も気に病むことはありません。正しいか正しくないか、それは誰が決めるものでもありませんから」


 誰が決めるものではない。それは例え、神であったとしても。


「でも、感謝しているものがいる限り、そこに悪意が無い限り、それはきっと、良い行いなのですから」


 彼女は言う。

 私たちはこの一つの世界で共存する身。だからこそ、そこには絶対的に正しいことも、間違ってることも無いと。だから目の前の善行には、ただ純粋な善意で答えると。

 彼女はその小さな手で、布の塊をそっと押し返してきた。

 自分は引き下がらざるを得なかった。


「私の方からも、人のものに手を出さないよう厳しく言っておきますから、安心してください」

「はい……助かります」


 そうしてくれれば、一応、誰が困るということも無くなるのか。

 しかしどうしても、心のつっかかりが取れることは無かった。

 自分はただ黙って、受け取ったものをもう一度見つめ直した。

 正しいか、正しくないか。自分にそれは分からないし、良いことなのかすらも分からないが、彼女らは感謝をしている。

 それを自分は何も考えずに、ただ受け取るべきなのか。

 無駄と分かっていても、これは正しいのかという思考に走ってしまう。

 自分がした事は結局何だったのかと、不毛な事を考えてしまう。

 如何とも己の中で処理できないことに、自分はただ頭を悩ませることしか出来ない。


「何一つ、負い目を感じる必要はありませんよ」


 それでも彼女は、また優しく言ってくれる。

 人はそうやって生きていくものだから、と。

 それは酷く残酷にも聞こえた。


 


 止んでいた風がまた吹き始め、前髪を揺らす。彼女の毛並みを揺らす。

 それは先程よりも、大分強いものとなっていた。

 森はざわめき、耳元で風の音が鳴る。


「そろそろ、お別れの時ですね……」


 風が吹いて来る方に顔を向けながら、彼女は小さく呟く。

 そうしてしばらく森の奥を見つめた後、彼女はこちらに向き直り、妙な事を言ってきた。


「その……出来れば屈んで頂けませんか?」と。


 自分には一体何なのか分からなかったが、取り敢えず言われるままに、膝を折って屈んだ。

 そしてそこで顔を背ける彼女に、自分はますます分からなくなる。


「決して、自惚れるわけではありませんが……」


 今までに無くか細いその声で、彼女はそんなことを言う。

 何を言いたいのか分からない。

 そんな疑問を持つ前、唐突に彼女は動いた。


 彼女の可憐で華奢な体が、よりはっきりと見えた。

 黄金色の髪と耳が、より鮮明に見えた。

 次の瞬間には、その姿は自分の元にたどり着いていた。

 本当に直ぐ近く、それこそ目前に。肌と肌が触れ合う程近くに。


「ありがとう」


 右頬にそんなやわらかい言葉を残して。

 あたたかい、陽だまりのような匂いを残して。


「さようなら」


 彼女は社の影へと走り去った。

 自分はただ茫然と、彼女のいた空間を見つめ、右頬に手をやっていた。

 風はもう吹いていない。

 境内にはもう、自分以外に何もいない。


 五月蠅いミンミン蝉の声だけが、森中に響いている。


 





 狐は恩返しをする。

 自分でも信じられないことだが、それは紛れもない事実であった。

 あの後家に帰った自分は、祖父母になんと顔合わせをすればいいのか分からなかった。

 しかし、祖父母はどうしてか、それについてあまり深く詮索してくることは無かった。

 自分はただ小銭の山を傍らに置いて、縁側から夜空を眺めていた。

 今日あったことを、ただぼーっと思いながら、満月の光を見つめていた。

 彼女の言葉を思い出し、繰り返し、こころに残ったわだかまりを解こうと、やっきになっていた。

 でも、そうする度におもいは募るばかりで、忘れてはいけないと分かりつつ忘れようとしても、それはより一層心に強くのしかかるばかりで。

 彼女の言ったことを鵜呑みにして決着をつけるのが嫌で、それから何も考えなくなってしまいそうなのが嫌で、忘れてしまいそうな自分が嫌で。

 ただ思い起こす度に自分がかき乱されているようでならなくて、どうも冷静な頭で考えて片をつける事は、とうとう叶いそうになかった。

 やるせない気持ちを抱えたまま、自分はただぼっーと、昨日と同じ月を眺める。

 そして「あれ、そういえば今日は満月じゃないか?」なんていう疑問を抱きつつも、怠惰な自分は月齢の書いてあるカレンダーを、わざわざ台所まで見に行きはしない。

 明日も暇だ。明日も何所かへ行こうか。

 深いため息をつきながら視線を落とした時、不意に、弄んでいた五円玉が、手の中で輝いた気がした。


 風も無いのに、庭先の茂みが揺れる。



勉強(?)のために意図的に文体をいじっているので、読みづらいものがあったかも知れませんが、そこはご愛嬌。

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