堅物騎士の初恋は、野ウサギと共に
頭に血が上り、額にじわりと汗が浮かぶ。
顔が、異常に熱い。心臓がバクンバクンと大きく鼓動し、落ち着かない気分になる。
このように、心や感情が乱れたことなど一度もない。
そのきっかけは、目の前の女性の「このウサギ、ミートパイにしてやりますわ!」という発言を聞いたことである。
仕立てのいいドレスに、身綺麗な姿、訛りのない喋りなど、総合的に見たら彼女は貴族の令嬢である。
それなのにウサギを全力疾走で追い、帽子が飛びドレスに泥が付着することもいとわず、猟犬を使っていたとはいえ素手でウサギを捕まえた。
挙句、ウサギをミートパイにすると宣言したのだ。
あまりにも、豪快すぎる。
今まで思っていた貴族令嬢のイメージが、ガラガラと音を立てて崩れていった。
ここで、コンスタンタンは気づく。
あまりにも貴族令嬢らしからぬ行動であったために、酷く動揺していたのだと。
額の汗も、胸の動悸も、揺れ動く感情も、すべては想定外の事態を目の当たりにしたからだろう。
なんとか自らの状態に整理をつけ、ウサギを愛おしそうに抱く女性のもとへ歩みを進めて行った。
「失礼、あなたはいったい──?」
「あら、おはようございます」
満面の笑みを向けられ、挨拶された。
彼女はとても、笑顔が美しい人だった。コンスタンタンはたじろいでしまう。
「おはよう、ございます」
「いい朝ですわね」
「いい朝?」
湖から漂う霧のおかげで、気持ちのいい朝とは言えない。
天気はいいのに、空も大地も森も、ぼんやりとしている。
振り返ったアランブール伯爵邸は、建物全体が霧がかっていて酷く不気味だ。
「ほら、背後のお屋敷。霧が漂っていて、とても幻想的ですわ」
「……」
女性からみたら、不気味な様子も幻想的に見えるらしい。たしかに、言われてみたら絵本に出てきそうな建物に見えなくもない。
ただし魔王城とか、悪魔の館とかの類ではあるが。
女性はうっとりと、アランブール伯爵邸を見つめていた。
「あの、失礼ですが、お名前をお聞きしても?」
女性のドレスは余所行きだ。とても、狩猟をしにきているようには見えない。
ウサギを抱いているものの、見た目は立派な貴族令嬢だ。怪しい者には見えないが、なぜここにいるのか、という疑問は大いにある。
「あら、申し訳ありません。わたくしったら」
「私はここ、王の菜園を守護する第十七騎士隊の隊長、コンスタンタン・フォン・アランブールと申します」
「あなたが、王の菜園の隊長様ですのね!」
女性は尊敬の色が滲んだ目を向ける。
それは近衛騎士隊に所属していたころ、たくさんの騎士達から向けられていたものと似ていた。
「申し遅れました」
女性はウサギを抱いたまま、膝を軽く折って淑女の礼をしながら自己紹介する。
「わたくし、フォートリエ子爵家のリュシアンと申します」
「フォートリエ子爵家の、リュシアン……嬢?」
「ええ! 王の菜園にお招きくださり、光栄ですわ」
はきはきと、元気よく答える。
リュシアンは一般的には男性名だ。女性に付ける名ではない。
「リュシアン嬢は」
「アンと呼んでくださる?」
「え?」
「アン、ですわ。リュシアンは男性名ですの」
「そう、ですよね。リュシアン嬢──」
「アン、と」
「ア、アン嬢は、その、フォートリエ子爵家の代表として、こちらにいらっしゃった、と?」
「ええ、もちろんですわ」
──なぜ?
数々の疑問が、荒海の波のように押し寄せる。
見たところ、リュシアンは十八から二十歳くらいに見える。美しい貴族女性だ。
食用と思われるウサギを抱いているのは、いささか不思議ではあるが。
「アランブール卿は、ミートパイはお好き?」
「ミートパイ、ですか?」
「ええ。このウサギ、こんなにムクムク太って。きっと、畑の野菜をいっぱい食べたのでしょう」
そう言い切ったあと、リュシアンの目は鋭く光る。
「本当に、いけない子」
リュシアンの言葉を聞いたあと、コンスタンタンは再び動けなくなる。
頭がぼ~っとして、リュシアンのことしか見えなくなった。
「それで、ミートパイはお好きですの?」
「え?」
「それとも、丸焼きがよろしくて?」
「いえ、ミートパイが、好きです」
「よかった。わたくしも、大好きですの!」
リュシアンは花が綻ぶような、可憐な笑みを浮かべる。
周囲の霧がかった光景は見えなくなり、コンスタンタンの視界にはリュシアンだけが存在していた。
この現象はなんなのか。よくわからない。
「では、夕食にミートパイを焼きますね!」
「はい、楽しみに、しています」
「それで、お願いが一つありますの。聞いてくださる?」
「なんなりと」
「ウサギを、絞めていただけます?」
「御意」
命じられた通り、ウサギを手に取る。リュシアンはコンスタンタンの胸の中にいるウサギの足を素早く紐で結んだ。
ナイフを手渡されたコンスタンタンは、しゃがみ込んでウサギの頸動脈を切り裂いた。
あとは、木に吊るして血抜きをするばかりである。
秋になると、貴族は狩猟に出かける。獲物をしとめることは、慣れっこだった。
しかし、それを女性から命じられるのは初めてだった。
──先ほどから、胸がドキドキとうるさい。なんでだろうか。
わかりやすいほどの恋であったが、鈍感なコンスタンタンは一ミリたりとも気づいていなかった。