堅物騎士は、苦悩する
リュシアンがコンスタンタンに、「あ~ん」をする。それは、かつてないほどの大事件である。
そもそも、今までの二十年間の人生の中で、一度も「あ~ん」された覚えはなかった。
最初に見たのはいつだったか。
王都の街を見回っている際に、広場にいた男女が露店の菓子を食べさせあっているところを目撃した覚えがある。
あれは、士官学校時代だったか。恋人たちは公衆の面前で甘ったるい雰囲気をまき散らしていたので、一緒に見回りをしていた男が「けしからんな。クソ、取り締まるぞ」とぶつくさ呟いていたのを覚えている。
当時のコンスタンタンは、恋人同士がいちゃつくことは禁止されていない。取り締まることは不可能だと止めた。
その時の感情を、今になってじっくり考えてみる。
きっと、恋人たちが羨ましかったのだろう。
と、ここまでの思考はたった十秒である。
しかし、「あ~ん」と差し出したリュシアンにとっては、長かったようだ。
「こちらは、お好きではありませんか?」
「い、いや、そんなことはない」
「だったら、どうぞ」
リュシアンはさらに、パンをコンスタンタンの口元へと近づける。
「い、いや、自分で、食べ……」
「遠慮せずに」
遠慮ではなく、恥ずかしいのだ。
コンスタンタンはロザリーに視線で助けを求めたが、彼女は背を向けていた。
傍付きともあろう女性が、主人から目を離してもいいのか。
コンスタンタンはロザリーの背を睨むが、いっこうに振り返る気配はない。
「コンスタンタン様? やはり、お嫌いなのですか?」
リュシアンは目を伏せ、悲しそうにしている。
彼女にこんな表情をさせる悪者は誰だ──コンスタンタンである。
こうなったら、腹を括るしかない。
「遠慮なく、いただく」
「はい!」
リュシアンが笑顔になったのを確認し、ホッと内心で安堵する。
そして、リュシアンの手ずからパンを食べた。
これで、終わったかと思っていたが、そうではない。リュシアンは何かに気づき、コンスタンタンに接近する。
「あら、お口に付いてしまいましたわ」
そう言って、コンスタンタンの唇をリュシアンは指先で直に拭ったのだ。
リュシアンが触れた唇が、熱い。
コンスタンタンの思考回路は、焼き切れてしまいそうになる。
「コンスタンタン様、いかがです?」
「熱い」
「え?」
「いや、もう一つ……」
正直、味わう間もなく気づいたら呑み込んでいた。それほどの衝撃だったのだ。
「では、作ります──」
「あ、アンお嬢様、こちらに作っていますよ」
「ロザリー、ありがとう」
「いいえ~。はい、アランブール卿、どうぞ」
ロザリーが天使に見えた瞬間である。
主人の暴走を見ない振りをしていたとんでもない侍女だと思っていたことを、心の中で詫びた。
リュシアンが考えた料理はどれもおいしい上に、野菜の味が生かされたものばかりだった。
王の菜園の支援者を募る料理として、どれも相応しいだろう。
「きっと、皆、気に入ってくれる。自信を持つといい」
「ありがとうございます、コンスタンタン様」
「礼を言うのは、私のほうだ」
リュシアンは王の菜園の危機を救う女神だろう。
どうか、パーティーが上手くいくように。
今は、祈ることしかできなかった。
◇◇◇
招待状は百通ほど送った。参加すると返ってきたのは、たった十五通だった。
アランブール伯爵家は長年晩餐会や夜会などを開かず、貴族社会の繋がりも薄い。
これまでは問題はなかったが、今になって何もしていなかったツケが回ってきたように思える。
この件に関しては、コンスタンタンの父グレゴワールも頭を悩ませていた。
「私の父……お前のお祖父さんは賑やかなことが好きでね。社交期は人を招いてパーティーを開いていたんだ。しかし……」
コンスタンタンの母が病弱だったこともあり、パーティーの回数は年々減っていた。コンスタンタンの祖父が亡くなってからは、喪に服すと理由を付けて人を集めることをしなくなった。
「……負担を、かけてしまうからね」
パーティーを取り仕切るのは、妻となる女性の仕事である。
コンスタンタンの病弱な母にその役目を押し付けるわけにはいかない。そんな理由もあって、アランブール伯爵家は長い間パーティーを行っていなかったのだ。
「リュシアン嬢はよく頑張ってくれている。彼女は嬉々としてやっているようで、驚いたよ」
リュシアンが担うのは、料理の手配に、当日の使用人の仕事の振り分け、参加者のもてなしなど、パーティーの核となる準備を担当している。これこそ、一家の女主人がするような仕事だ。
「アン嬢には、感謝してもし尽せない」
「そうだな。本当にいいお嬢さんだ」
グレゴワールには、婚約者の振りをしていることを話していない。今日までバタバタしていて、話をする暇がなかったのだ。
報告するなら、今だろう。
「あの、父上──」
「実はな、リュシアン嬢の実家に、連絡をしていたのだ」
「なんの、連絡を?」
「お前と結婚させるつもりはないか、と」
「なっ!」
何を勝手に進めているのだと言おうと思ったが、貴族の結婚は本人の気持ちでどうこうできるものではない。ごくごく普通のことだった。
コンスタンタンは言葉を呑み込む。
「しかし、残念ながら断られてしまったよ」
「え?」
「婚約を考えている、相手がいるらしい。一歩遅かったな」
背後から金槌で殴られたような衝撃が起こる。
──リュシアンが婚約する?
信じがたいことであった。
「なんでも、結婚相手を探すように言っていたようだが、一向に連絡がないので、勝手に決めてしまったと」
「……」
「コンスタンタン、大丈夫か?」
リュシアンはいったい誰と婚約を結ぶのか。
言葉にできない感情が、コンスタンタンの中に渦巻いていた。




