29話 ふたりとひとり
――約1時間前――
「私が知らないのは恋じゃない。私が本当に知らないのは、覚悟なんです」
目の前の美鳥と叶枝に向けて白はそう告白した。恋バナを最後まで話し終えた、その直後だった。
「覚悟……?」
美鳥にゆっくり尋ねられると、白は小さくうなずいた。恋愛には一見不釣り合いにも見える物騒な単語だが、しかし今の白にとってはそれが最も重要であった。
――かつて、父が教えてくれたことがある。
『キミも覚えておくべきだ。どうしてもやりたいこと、どうしても譲れないこと。人に怒られても、なにを言われても手放したくない物ができたときは――覚悟が必要なんだ』
そう言った父の顔つきを白は今でも覚えている。彼はこの前にも後にも見せたことのないほどに、真剣だった。
『なにがあっても……例えばキミと猫たちとの幸せな時間が壊れてしまったとしても、自分で責任を背負って決して逃げない。そんな覚悟を持てるなら、あとはキミ次第だ。分かるかい?』
覚悟。責任。幼い白にとってその単語は難しいものだったが、しかし子供向けの漫画やアニメでたまに見かける。大人たちだって時折口にする。だからなんとなくではあるが、白は父の言葉を理解できた。白は正しいと思った。だからその言葉は、白の心に深く刻まれた。
(お父さんは正しいことを言っているんだ。幸せを壊したくないなら、傷つけない方がいい。傷つけない方がいいなら……触らないのが一番いい)
二匹の猫は、白にとって精巧なガラス細工のように美しい物だった。だからこそある意味では脆く見えた。触れただけで傷つき、壊れてしまうような気がした。だから黙って見守り、一方的に別れられて、それから――。
「私は歩さんにこれ以上踏み込むのも、踏み込まれるのも怖い。この関係を、恋人ごっこという関係を壊すのが怖い。……興味本位で近づいたのは私の方なのに、滑稽ですよねこんなの。覚悟がないなら近づくべきじゃない。やっぱり、正しかったんだ」
白の言葉は半ば独り言だった。それはある種の懺悔でもあった。歩には決して言えない懺悔。あるいは赤の他人に近い美鳥だからこそ洗いざらい話せる本心だった。
だから……美鳥もまた、あえて他人事として言った。
「関係性を壊したくない、ね。それって恋愛物の常套句だけどさ……正直そういうの、よく分かんないんだよね。なにが怖いの具体的に?」
美鳥はそう問いつつしかしその手では猫でも撫でるように、自身の膝の上に居座ってる叶枝の顎に手を掛けた。それから本当に猫みたいに顎をちょいちょい撫でながら話を続ける。
「なんてゆーか、人に迷惑かけちゃいけないとか譲り合いが大事とかそういう話なら、私は深い仲の人たちよりも、ただのクラスメイトとか赤の他人なんかと居るときの方が気にしちゃうんだよね。そこら辺、叶枝はどう思う?」
「トリちゃんと同じかなー。だってトリちゃんに遠慮したことないもん私。大好きなのに言いたいことも言えないなんて、つまんなくない?」
「だよね。ま、叶枝はもうちょっと遠慮してほしいけど」
「そんなのやだー! うりゃー!」
叶枝は美鳥を椅子にしたまま、自身の両手を伸ばして美鳥の頬を遠慮なく挟んできた。
「んにゅっ。こら、そういうところだって!」
美鳥は叶枝の両手を引きはがしたあと、お返しとばかりに叶枝の頬を挟み返す。幼馴染コンビはそれからしばらく、白の存在を忘れたかのようにいちゃついてた。
その一方、置いてけぼりになった白も白でただそれをぼんやりと眺めていた。そんな視線に、美鳥がようやく気付いた。
「あ。ごめんごめん」
「べつにいいですよ。……いいなぁ」
最後の一言は、囁くような呟きだった。白はそのとき確かに幼馴染コンビに羨望の目を向けていたのだ。だが白の前髪が、彼女の羨望を誰にも気づかせなかった。
「いや、ほんとごめんって。えっと、まぁ、なんだっけ……そうそう。その、変化への怖さっていうの? まぁ『親しき中にも礼儀あり』なんてことわざもあるし、一概には言えないけどさ……結局、遠慮しなくても壊れない物だから仲が深まったんじゃないのかな」
「……」
「……って、その、よく疑問に思うんだ。そこからちょっと踏み込むくらいあんまし変わらなくない? ……なんて、我ながら無粋だとは思うんだけどね」
「……美鳥さん」
「な、なに? もしかしてなんか言い過ぎちゃった?」
「トリちゃん途中からぐいぐい来てたもんねぇ」
「うぐ。いや、ちょっと、夢中になっちゃって……ごめん白。気に障ったならもう聞かないから」
美鳥の謝罪に、しかし白は首を横に振ってから言った。
「私たちって意外と似てるんですね」
「キミと、私が?」
「私も似た疑問を考えたことはあります。もしかしたら、歩さんなら分かるのかな……恋って、難しいですよね」
「……そうだね。でも、キミも分からないならなおさらなんで――」
「だけど、そもそも私は違うんです」
「……違う?」
「私にそんな、"綺麗な"怖がり方はできないんです」
そう言って、白は自身の体を抱きしめた。己を守るように、あるいは壊れそうな心を繋ぎとめるように。
「私が本当に恐れているのは関係性を変えることじゃない。"ごっこ"なんて補助輪は今すぐにでも外したい」
白の声に少しずつ、熱がこもっていく。
「だけどそれがないと私はあの人が望む私でいられない。かっこよくいられない。私は、私は……!」
白がついに感極まった。まるで首を絞められたようにか細く、苦しみに満ちた音が喉から絞り出される。
「私の醜さを、あの人にだけは知られたくない……!」
「……」
身を切るような声に、美鳥はなにも答えずただ目を伏せていた。そして白の告白は続く。一度堰を切ってしまえば、もう出し尽くすしかなかった。
「歩さんは私にとっての光だった。近づけば近づくほど、私の中の影が濃くなる。あの人を必要以上に求めるようになって、自分勝手な欲望をぶつけたくなって、そんな自分に気が付いた時、私は初めて他人と自分を比べてしまった。だから……気づいたんです、自分の汚さに。あるいはあの人に触れて変わってしまったのかもしれない。いずれにせよ本当の私は、歩さんに憧れてもらえるような人間じゃない」
白にとって、歩は眩しすぎた。ひたすらに自分を磨いて、白との全てに一喜一憂して、一途に恋心を伝え続ける。
対して自分はどうだ? 停滞を壊したいと歩の恋心を弄び、その一方で己の恋心に嘘をついて関係を引き延ばす。歩を汚してしまいたいと、自分だけの物にしたいと何度も欲情して、ついには彼女と交わした約束さえ破りかけた。
そんな自分が醜く思えて堪らなかった。歩の恋心を裏切った上で、かつての初恋までもを汚してしまった気さえした。
「だから私は嫌だった。歩さんに過去を見られるのが、自分の中身を見られるのが。もし私の全てが見られてしまえば、私はあの人の憧れじゃいられない……!」
白の隠し通していたもの。その"99%"を見せられて、しかし美鳥は腕を組み考える。
「理屈としては大雑把に理解できたけど、実感がまだ足りない」
あとひとつだけ、ピースがハマっていない。
「ひとつ思うんだけど……正直さ、歩さんならキミの言う"醜さ"ってのも普通に受け入れてくれそうな気がするんだよ。ほら、あの人って優しいし懐広そうだから――」
「そんなのとっくに分かってる!!」
「っ!」
「歩さんはこんな私を知っても『気にしないよ』って絶対に言ってくれる。断言できる。だけどその瞬間、あの人の中の私が変わるかもしれない。やっぱり失望されるかもしれない。あるいは同情されるかもしれない。もしかしたら全てを曝け出したことで、もっと身近になれるかもしれない。だとしても絶対に嫌だ!」
それが最後のピース。白がなによりも欲しいものだった。白自身を殺してでも、そして歩を裏切ってでも欲していた夢の正体。
「この醜さを知られれば、たとえ受け入れられたとしても"かっこいい寿々白"じゃいられなくなってしまう。私はあの人の中で、誰よりも正直でかっこよく気高い生き物でいなければいけないの。そうじゃないと、あの人の全ては手に入らない! 私はあの人の一番で在り続けたい! ただの恋人なんかじゃない! 誰よりも、私に憧れて欲しいんだ!」
白の目からは感情が溢れていた。瞳が隠れていても分かる。ぽたぽたと落ちる涙が、それを証明している。
机に落ちて溜まりゆく涙を目の前にして、美鳥はもう表情を変えていた。苦さ3割、嬉しさ7割。そんな苦笑と共に彼女は言った。
「キミって、本当に恋をしてるんだね」
――現在――
結局、覚悟なんてなにひとつできなかった。
全てを曝け出して楽になった白の全身から力が抜けていく。全てを曝け出して、守りたかった虚勢が消えてしまった。目を開けても、目の前は真っ暗闇のままだった。
「弱いだけならまだマシだった。本当の私は嘘つきで、汚くて、そのくせあなたと別れてひとりになるのをなによりも嫌がっている。こんな私じゃ、こんな私を知られてしまったら、もうあなたと一緒にいられない……」
「ねぇ白。ちょっと起きて」
それは優しい声だった。白が思わず上半身を起こして歩を見ると、歩はもじもじと照れくさそうにしていた。冷気は無いし熱気も少量。微熱の少女がそこにいた。
「正直、ちょっと驚いた。でもさ、僕だってそういう、その……よこしまなこと、全然考えないわけじゃないよ。だって恋人じゃん、僕ら。節度を持ったお付き合いは大事だけど、なんていうか深く愛したいって思うこと自体は悪いことじゃないと思う。大事なのは白が本当に僕を好きでいてくれたこと。それに僕だってやっぱり白が好きなこと。だからさ……」
歩が白を抱きしめようとしてくる――白の、予想通りに。彼女は優しい人だから。しかし白はもうその優しさを受け入れられない。受け入れる、資格がない。
「だめっ」
白は歩の優しさを拒絶した。抱きしめようとしてくる歩を、両手で意固地に押しのける。だが歩は負けじと真っ直ぐ白を見て、ぶれない声音ではっきりと。
「僕はキミのかっこよさをずっと信じてる」
その優しさを受け入れる資格は、ない。知っていたのに。
「もう、駄目なんです。私が欲しいのは信頼じゃない。私は証明し続けなきゃいけなかった……だってそうしないと、私はもう昔の私に、あなたが憧れてくれた頃の私に戻れない」
一度醜さを晒してしまえば、それは呪いとして一生付きまとう。
ここからはどう取り繕おうと、もう取り繕った自分にしかなれない。それでも付き合うというのはつまり、これから歩の信頼と恋心を一生裏切り続けるということなのだ。
目の前には現実が広がっている。真っ暗闇の現実が。白は暗闇に足を踏み入れることすらできなかった。
「覚悟のない私には、あなたの望みに殉じれない私にはもうあなたと一緒にいる資格がない。私はもう、あなたにどうやって向き合えばいいのか分からない……!」
きっと別れた方が歩は幸せに生きられる。自分もこれ以上傷つかないで済む。
(別れよう。早く、そう言わなきゃ)
だけど口は動かない。そんな覚悟なんて、それこそできるはずがない。
暗闇に向かって進む覚悟がない。だけどそこから逃げる覚悟もない。白は雁字搦めだった。どこにも行けない――
「なんだよ、それ」
冷たい熱気が耳朶を打った。
「っ!?」
白がぴくりと体を震わせた。思わず顔を上げて歩を見たが、彼女は俯いていて表情が見えなかった……と、急に視界が揺れた。
歩が急に胸倉をつかんできたのだ。かと思えば自分の顔が歩の顔へと一気に引き寄せられていく。デジャヴが勝手に脳裏を過ぎった。
(そうだ、”あのとき”は)
キスの代わり。こつんっと触れ合う可愛らしい、感触と音を思い出す。
(だけどあのときとは違う。勢いも、立場も。それに歩さん、すごい怒って――)
ガツンッ!!
すんごい音が、鳴った。
「「あ゛……!」」
お互いに喉から悲鳴がひとつ漏れた。顔が離れて、体が離れて、そしてお互いぶっ倒れた。
すんごい音とは要するに額と額の激突音。歩渾身のヘッドバッドが炸裂した証だった。
ボクシングさながらにノックアウトしたふたりの間を、冷たい北風がひゅうと通り抜けた。
先ほどまで熱気やら冷気やらがぐるぐるしてたはずの雪原は、今やすっかり元の静寂を取り戻していた。
ただしんしんと雪が降り続けること、10秒、20秒……30秒目でようやく小さなうめき声が雪原にぽつりと落ちる。
「う、うう……」
先に起き上がったのは歩だった。自分からヘッドバッドをかましたくせに、彼女はぽろぽろ泣いていた。
「うぇぇ、痛いよぉ……」
その声に、まだ倒れていた白がわずかに身じろぎした。
「く、あ……!」
やがて白も呻きながら、上半身をゆっくり起こした。
額からは容赦なく痛みが響いてくる。ジンジンガンガン煩くて、堪らずそこら辺の雪を搔き集めて額に押し当てたら一気に冷えて若干楽に、そして冷静にもなれた。
だから、自分と同じように雪で額を冷やしていた歩に向かって、なんとか問いかけることができた。
「なんで、こんなこと」
キッ!
鋭い視線が、いきなり白の喉を突き刺した。白の息が一瞬止まり、その隙を付くように歩は力強く断言した。
「キスの代わり!!」
「なに、言って……」
白には分からなかった。歩のなにもかもが分からなかった。
確かなのは、歩の声が頭に響いてその度に額がずきずきと痛むということだけだ。
「本当はキミが観念するまで何度も舌を突っ込んでやろうか、なんてことも考えてた。だけど今のキミには絶対キスしたくなかったから」
(なんでそんなこと言うの。さっきはあんな無理矢理……)
言葉でいきなり突き放されて、白の心に痛みが走る。それに呼応するようにして額の痛みがさらに増す。広がっていく傷を、歩の叫びが重ねて抉る。
「今のキミはまるで僕だ……僕が一番嫌いな僕自身だ!」
「あぅ……!」
その叫びは白の痛みを加速させた。心が痛い。頭に血が上る。額が痛い。熱が集まる。
頭の中が、とても熱い。
「資格がないから駄目なんて、なれないから諦めるなんて、僕の諦め癖まんまじゃないか!」
「なんで……なんでそんなこと言うの!」
なにも考えられない。ただ感情に任せて反論をぶつける。頭がとても痛くて熱い。余裕なんてどこにもない。
「ずっとあなたはかっこよくなることを諦めていないのに。そんなあなたが私は大好きなのに」
「とっくに諦めてたよ。昔の僕は僕の甘えられる場所を探してただけなんだ。キミに恋をしなければ、今だってずっと惰性で生きていた」
「やめて、これ以上あなたを卑下しないで」
歩の声がガンガン響く。痛くて熱くて堪らない。それでも言うべきことは、言わないと。
「私なんかに出会わなくても、あなたはちゃんと前に進んでいた。だから慧さんだってあなたと……」
「慧も白も僕を買い被ってるんだ。僕には誇れるものなんてなにもないのに」
なによりも大事な恋人が苦しんでいる。
「誇れるものなら幾らだってある! だからもう、これ以上は……」
だれよりも憧れた恋人が貶められている。
「ないよ! あったらキミをこんなに泣かせなかった。僕だってこんなに泣かなかった!」
ただひたすらに、許せない。
「もし恋をするのに資格が必要だっていうのなら、こんな僕の方こそキミに恋をする資格がない……!」
「私の大好きな人を勝手に馬鹿にするなぁ!!!」
ひゅう、と北風が通り抜けた。
「「……え?」」
声がハモった。
言われた側も、言った側すらもなにひとつ分かってなかった。
お互い、呆然とすることしばらく……白の頭からようやく痛みが引いてきた。ようやく状況が呑み込めてきた。
だから、やっと実感できた。己の中の奥の奥に残っていたもの。揺るぎない、たったひとつに。
(どうしたって、好きなんだ)
白は歩に恋をしている。もうそれだけしか残っていない。
「は、はは……」
「し、しろ……?」
化けの皮はもう剥がれた。心はもう折れていた。これ以上失う物なんてどこにある?
どこにもなかった。
「もういいや」
白の両手が不意に伸びてきた。
「え?」
その手が歩の肩に届く。掴まれて、歩がもう一度声を上げた。
「え?」
歩にとってそれはいきなりの出来事で――しかしいきなりは止まらない。
目の前から、白が消えた。
「――」
空が見えた。両肩を押された。背中が叩きつけられて、雪が冷たくて。
「……え?」
歩は間の抜けた声を上げた。見上げた先には星があった。燃えるような明るい茶色。爛々と輝いている。白の瞳だ。白に見下ろされているのだ。歩は反射的に感じた。
(なにか、違う)
内心で呟いたあとに思い出したのは、自分が初めて白に一目惚れしたときのことだった。あのときのように見下ろされて、あのときのように前髪が垂れ下がり、あのときのように彼女の瞳の全てが歩には見えている。
だが違う。なにかが違う。
とりあえず、あのときの彼女は……舌なめずりなんてしていなかった。
目だって、こんなに笑っていなかった。
「し、白……?」
「そんなに怯えないで……ううん、怯えていいですよ。だってとても可愛いから」
こんな台詞も言ってなかった。
「お、おかしいよ白。なんかさっきまでと違うよ」
「おかしくない。何ひとつ変わってないですよ」
違う。なにかが違う。なにかが違う? 本当に?
「どう向き合ったらいいのか分からない、なんて馬鹿みたい。私はこの期に及んでもまだあなたに良く思われることを諦めていなかったんだ。もうどん詰まり、行きつくとこまで行きついたのに。こんなに清々とした気分は久々ですよ。好きですよ、歩さん」
「ひっ」
口から勝手に悲鳴が漏れる。歩はようやく理解した。
違うのは、なにかじゃない。
(なにもかも、違うんだ)
底まで落ちたらあとは上がるだけ。白はとっくに反転していた。
「私なんかどーでもいいし、終わってる物を取り繕ったってしょうがない」
押し倒す人と押し倒される人が反転していた。言葉を発する人と聞かされる人が反転していた。身の危険を感じさせる側と感じる側が反転していた。
歩は咄嗟に体をよじって抜け出そうとする。抜け出せない。両手が抑えつけられている。
なにもかもが、反転している。
「知りたかったんでしょう? 私の全部を。だったら教えてあげますよ。私があなたをどれだけ好きなのかをありったけ。そうですね、まずはやっぱり触り心地からでしょう」
言い終えるやいなや、白の手が間髪入れずに迫ってきた。だから慌てて止めようとするが、その声は上ずってしまい。
「なっ。なに、な、ちょっと待ってむふぇ」
変な声が出た。両の頬をわしづかみにされたせいだった。
「!?」
「このもっちりした柔らかさですよ」
「!?!?!?」
語りだす。白がとめどなく語りだす。
「この感触を維持しつつも決して怠慢なたるみを見せない極めて健康的な肉付き。それでいながらまるで妖精のような小顔。まぁこれらはあなたの体全体にも言えますが、愛くるしくも弱々しくないこのバランスが完璧なんですよね」
語りながら、頬をなでてくる。まぶたに指を這わせてなぞってくる。顎を片手で抱いて、あるいは鼻をつまんでくる。唇をぷにぷにと押してくる。語りまくる。
「夏は真っ当に焼けて、冬は真っ当に白くなる鮮やかな肌。表情豊かでとっても素直な丸い目。それに骨の形が綺麗。小さくても筋の通った鼻。顎の輪郭だって、歪まず強張らずさりとて尖らず滑らかな曲線で。そしてこの唇。なんでここだけにこんな肉付きがぷっくらしてるんですかイヤらしい」
「ヤ、ヤらしくないぃ……」
「この寒空の下でこんな鮮やかな血色しててなに言ってるんですかああそうそう私、素肌が好きなんですよ」
「ぴっ」
得体の知れない感覚に背筋が泡立つ。首筋を指でなぞられていた。白の五指。その全てが歩の首を這い、右の耳の下を渡り、髪をかき上げて。
「無防備な首元もいいですが、ふわふわな柔らかい髪の裏に潜む肉の薄い耳元、耳の裏。なによりこの小さな耳全体がイカしてる。髪を長くしたのは正解」
五指がうねうね右耳を弄んでくる。そこだけがどんどん敏感になってくる。熱が集まってくる。熱くて、熱くて、たまらなくて。
「こういうのは、密やかにしてこそ意味がある。あるいは……食べ甲斐がある」
あむっ。
「ひゃあ!?」
くちゅくちゅぴちゃぴちゃ、耳に響く。ぞわぞわぶわぶわ、脳味噌が溶ける。なにかが起こってる。右耳に起こってる。断続的に思考がぐちゃぐちゃにされる。
「ひゃ、や、あ、あう」
壊れかけた電灯のように明滅する意識で、しかしなんとか右に視線を向ければ。
「はむ、ん……むふ……」
そこには白の顔がある。歩の顔に寄り添うように、顔をぴったりくっつけて。
いやまさか、しかしまさか!?
(食べられてる!?)
そのまさかである!
歩の耳はすでに白の口の中に収まっていた。白は己が歯を舌を、持てる手練手管を余すことなく活かして歩の耳を犯しまくる。耳たぶを甘噛みしたり、耳のくぼみを舌でなぞったり、耳の穴に舌を突っ込んでみたり。
「い、ひ、っ」
歩はもう、悲鳴すらまともに上げられない。なにも考えられない。耳を蹂躙する感触で、熱で、あるいは文字通り耳朶を叩く音で頭の中が埋まって――不意に、全てが消えた。
(みみが、つめたい)
壊れかけていた電灯が、一気に明るさを取り戻す。耳の冷たさが外気に晒されたのだと理解できたその瞬間、体中がどっと疲労に襲われた。
「はぁっ、はっ……」
どうやって呼吸してたっけ? ぼやける頭でなんとか思い出して息を整える。
白に耳を食われてた。その事実をゆっくりと飲み込んで、なんとか言葉を絞り出す。なによりも先に言わなきゃいけないのは、たったの一言だけだった。
「へん、たい……!」
「そうですがなにか問題でも?」
秒で跳ね返された。
やがてはっきりしてきた頭で、歩は悟った。
(やばい、無敵だ。今の白はなんかよく分かんないけど無敵なんた)
事実、白は無敵だった。向かうところ敵無し。敵無しというかなんかもう敵とか知ったこっちゃなかった。
「大体あなたが言ったんじゃないですか。自分には誇れる物がないって。だからこうして手取り足取り教えてあげてるというのに。まだ足りない? しょうがないですね」
知ったこっちゃないから、
「足りないってなに、なんで顔近づけて――」
なんだってできるのだ。
「ひゅむぅ!?」
口と口でのキス。あれだけ嫌がっていた事だってできるのだ。
そんなわけで再びのマウストゥマウスだが、しかし立場が逆転していた。白が上で歩が下。白が歩の舌を蹂躙し、白が歩の口内を荒らしまわす。歩の抵抗が弱まっていく。
「むー! む、ふみゅ、ん……!」
やがて白が口を離した。唾液の糸を口で引きながら歩を見下ろせば、彼女は呆けた顔でぼんやりと白を見上げている。紅潮した頬。潤んだ瞳。そしてふたりの唾液で艶めかしく光る肉厚の唇。
「ほら、やっぱりヤらしい唇だ。それに……」
白は己の視線を歩の顔へと這わせていく。自分で蹂躙しつくしたその顔を、まるで隅から隅まで舐めるように。
大きくて丸い目が、今は切なげに細まっていた。
無垢だったはずの瞳が、今は物欲しげに涙を流していた。
素直な意思を伝えていた唇が、今は苦し気な吐息だけを漏らしていた。
それら全てを堪能しつくして、白は言う。
「顔だけでもこんなに素晴らしい造りなのに『誇れる物がない』なんて……あなたは見る目がないですね。でも、それもまたあなたの美徳なんですよ」
「しろのいってること、なんもわかんないぃ……」
「だったら何度だって分からせてあげますよ。私に資格がないのなら、もう幾ら嫌われたって同じ。0に-を掛けても0。だったら私は変態でもなんでも構わない。何度舌を突っ込んででもあなたにあなたの魅力を骨の髄まで叩き込んであげますよ」
つまるところ、白はヤケクソだったのだ。だが白にとって、それはある意味で初めての自由でもあった。
(楽しいなんて。ありのままに想いを伝えることが、こんなに楽しいなんて!)
歩を見下ろすこの時だけ、白の前髪は垂れ下がっている。白と歩を隔てる物はなにもない。ありったけの情欲で爛々と輝く瞳。それを余すことなく歩に晒して白はありったけを、自分勝手な歩解釈を吐き続ける。
「あなたはとても謙虚です。努力をしても自慢はしないし相手をいつも高く見ている。だからといって自暴自棄に陥ることもなく、かっこよさにしても可愛さにしても逃げることなく努力を続けられる。だからとても一途でもあるんですよ。かっこよくなりたくて色んなことに手を出してきたのなら、それもひとつの追求だ。あなたはなにも諦めてなかった」
「ち、ちがう」
クソ解釈違いである。クソ知ったこっちゃなかった。
「謙虚は美徳ですが過ぎれば毒ですよ。そういうところは本当に頑固ですね。頑固に私を信じ続けてくれたあなたがとても愛おしい。そのブレない信念が私にはとても綺麗だったんです」
「そんなんじゃなぃ……」
上から下へとありったけの解釈が降り注ぐ。下側の歩は当然たまらず腕をクロスさせて顔を隠したが、
「そのくせしてあなたは感情豊かで、色んな表情を見せてくれる。だからあなたの顔が好きなんですよほらせっかくのご尊顔を隠さないでくださいよ」
「や、や、やだぁ!」
「せいっ」
歩の防御は秒で引っぺがされた。白にどかされた腕の下には、快楽とはまた違った意味で紅く染まった頬がある。羞恥のあまりに顔をそむけている一方で、それでも横目でなんとか白を覗き見ていた。そうやって、完全には逃げないところが端的に言って。
「とてもそそる」
「ひっ」
小動物よろしく怯える歩。悲鳴を漏らしたその口に、しかし白はなんの躊躇いもなく己の口を付けた。抵抗は、なかった。
(好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き)
今度は分からせるための蹂躙ではなく、愛情100%のディープキス。唇を静かに沈めて、舌を優しく絡ませる。深く優しく濃縮還元の愛を与えに与えて、それから白は顔を上げた。
その下では歩がまた蕩けていた。己が汚した彼女の姿はあまりに愛おしく。
「ああどうしよう、歩さん。ごめんなさい」
だから彼女は謝らざるをえなかった。なぜならば。
「やっぱり私、あなたに嫌われたくない! あなたの恋人で在り続けたい! やっぱやだ! あなたが私以外の誰かにこんな顔向けるところなんて想像もしたくない!」
「てのひら、がえしぃ……」
「はっ、確かに……!」
歩のツッコミは極めて正しかった。変態も我に返るほど真っ当であった。
好きだから嫌われても構わない。好きだから嫌われたくない。|変態(白)の視線が矛盾からわずかに揺れる。
(私は資格を諦めたくせに、結局はまだ諦めきれなかった! なんで私は、こんなに……!)
「私は、私の覚悟は……」
「しろ」
「っ!」
妙にはっきりと聞こえた呼び声。この場で名前を呼んでくれる人なんて、ひとりしかいなかった。
目の前では歩が微笑んでいる。散々犯されて熱に浮かされた顔で、それでも白を優しく見守っている。
――それでも僕は、白のかっこよさを信じてる。
(そうだ、この人はずっと逃げなかった。こんな私からも、そして自分自身からも)
――もし恋をするのに資格が必要だっていうのなら、こんな僕の方こそキミに恋をする資格がない……!
(だから私は恋をした。だから私は隣に居たかった。こんな私を追いかけてくれたあなたを、私はずっと追いかけていたんだ)
白は己に問いかける。
本気で追いかけ続けるその背中を、本気で追いかけ続ける。そのために必要な覚悟とはなんだ? 正しい答えはまだ分からない。だけど確かに分かることだって、少しはあった。
(つまらない見栄を張って立ち止まる。そんな人間には追い付けない)
追いつけないなら死ぬしかない。追いつきたいなら、やるしかない。
「歩さん」
「ふえ?」
白はじっと見つめていた。歩の唇を見つめていた。
二度あることは、三度ある。
「ぶっちゃけ特に意味はないですが、とりあえずキスします」
「ふえ!? む!?」
一度目は蹂躙。二度目は愛情。そして三度目は、決意のキスだった。
強く押し当ててからあっという間に引きはがす。たったそれだけのキスだった。屈服も快楽も与えない、意味のないキスだった。
これには歩だってさすがに惚けていない。どちらかと言わなくても呆けていた。すわ何事かと驚いて大きく開いた瞳は、むしろ散々犯されたときよりもだいぶ正気に戻っているようだった。だが白にとってはその方が都合良く。
(快楽堕ちなんかで雑に流されて堪るか。はっきりと、私の全部を聞かせてやる)
「私は怖かったんです」
白が声を響かせた。真っ白な雪原のど真ん中。隠す物のない空の下。全てが始まった爆心地で白は晒す。
「意味のないキスが、きっとなによりも怖かった」
「意味のない、キス?」
「軽々しくなるのが怖かった。重しがある方が安心できた。口と口でキスできるほどの絆を育めば、きっと私は大丈夫だ。そんな保証書を欲しがっていた。そんな私の弱さが、遊びと本気に線を引いてしまったのかもしれません。本当に欲しがってたのはそんな物じゃないのに。あの二匹だってそんなもの必要としてなかったのに」
「キミが、欲しがっていた物って?」
その問いに白は答えなかった。代わりにキスをひとつ落とす。ふたつの唇がそっと重なる。少しだけ離れる。ただそれだけ。
鼻と鼻が触れ合い、互いの瞳が視界の大半を覆い合うその距離で、白がそっと囁いた。
「もう、教えてもらいました」
そしてもう少しだけ距離を離す。今度は互いの顔が視界を覆い合う程度の距離だ。表情の全てが包み隠さず晒される距離だ。
目の前では歩がぽかんとしている。彼女がなにを考えているのか、今の白には全く読み取れない。そもそも読み取る気なんてなかった。
「私は最低な人間です。あなたに相応しくないと今でも思います。だからって私はもう絶対に逃げないし、逃がすつもりもありませんから」
言葉を重ねるたびに、頭の片隅で蠢く物がある。
(怖い)
臆病だから分からない物に踏み込むのは怖い。だから、
(……楽しい!)
笑みが勝手に滲み出ていく。
「正直で、自由で、揺るがない。かっこ良い寿々白はここにいない」
白は怖さを楽しんでいた。だって怖さは実感だから。
自分は今、歩に全てを晒している。晒すことを怖がって、晒している現実を噛み締めている。
(露出狂のド変態。そうだ私は最低だ!)
白はもうとっくに覚悟していた。
「私は嘘つきで、雁字搦めで、手のひらだって雑に返すクソダサい女です。だけど、こんな私を――」
極めて自分勝手な言葉が、笑顔がそこにある。
「――あなたに望まれない私を、好きになれ」
「ぁ……」
呆然と、ただ呆然とその姿を歩は見ていた。その視界の中心では、星が鮮烈に煌めいている。
かつてここで、今と同じように押し倒されて。夕日と混ざり合い燃えるように輝く瞳を歩は見た。だがあの日と違って今の空には雲ばかりが広がっている。燃えカスの灰色。死体のように静かな空。その下で、それでも活力に満ち溢れた星が煌めいている。
あなたのなにもかもを奪い尽くす。
そう訴えかけるその瞳は、あの春の夕日よりもずっとずっと眩しくて。
(どうしよう。どうしよう!)
どくどくと、全身が心臓になったかのような激しい鼓動が耳を突く。あの春の始まりよりも、ずっと強く心を叩いて訴えかける。新しい春を、始まりの瞬間を。
「好きです!!」
そしてまた、彼女は始まる。




