2話 僕と私のnotラヴァーズ?
――反転病。それは一言で言えば、性別が変わる奇病。この世にはそういうよく分からない物があった。
これが発生し始めてからおよそ50年。未だに原因や治療法もろくに分からないが、極端に言えば性別が変わるだけ。性別が変わったらそれで終わりだから死ぬことはないし、10代の子供にしか罹らないから大人には関係ない。だからこんなものがあっても世界は普通に回ってるし、だからみんなもう普通に受け入れている。
だからこれは世界に馴染んだ、普通の奇病。
だが歩にとってはなんの前触れもなく己の性別を変えて、彼もとい彼女に不幸を運んできた憎むべき天災。
だが、しかし、白はその反転病になにかを見出しているらしい。それは歩にとって。
(ちょっと、嬉しいかも)
胸に沸いてきたのは僅かで確かな高揚感だった。歩は胸の高鳴りを感じながら改めて白を見上げる。
前髪で目を隠している。自分よりも背が高い。3歳下の女子中学生略してJC。そんでもってご近所さん。
歩が彼女について知っているパーソナルといえば、短く纏めればこんなもの……いや、もうひとつだけ残っている。
それは寿々白という人間が、歩の知る限りで一番の”変人”であることだ。
変人。それは歩にとってある種の憧れだった。人とは違う孤独な存在。我が道を進む孤高の存在。歩は昔からそういう人間に憧れていた。
だって歩は普通だったから。白の言う通り、普通で冴えない少年だから。少年、だったから。
そんな事情もあって、実は性別が変わった時にはちょっとだけ……ほんのちょっとだけ、嬉しかったのだ。
ある日突然転がり込んできた特別。歩はそれに期待を抱いた。なにをどうしても普通でしかなかった自分が、これをきっかけに変われるのではないか。
だけどその特別は、あまりにも世間に馴染み過ぎていた。普通過ぎた。
『女ってどんな感じ?』『おっぱい揉ませて!』『意外と可愛い!』『大変だね、大丈夫?』
色々言われて囲まれたのは、最初の一日だけだった。それからは普通の日々。性別が変わったゆえの不幸が片っ端から押し寄せてきただけの、普通の日々を過ごしていた。
だから歩は嬉しがった。白という、飛びぬけた変人に選ばれたことを喜んだ。やっと、望んでいた特別が訪れた気がして。これからなにかが始まる気がして……だけど。
(だけど、きっと僕の勘違いだ。だって白の言うことが正しいなら)
喜びの隣には疑心の感情も確かにあって。だから歩は白に尋ねた。
「性別が変わったから興味を持った。だったら……そういう人なら誰でもいいってこと?」
その声音は不安げに震えていた。しかしそれが伝わっているのかいないのか。白はただ淡々と告げた。
「ま、極端に言えばそうですね。私、変な人とか珍しい物なんかが好きなんですよ」
「……キミにとって反転病って、そんなに変で珍しいの?」
「少々難しい質問ですね……これは極めて大雑把な統計ですが、一つの中学および高校につき、性別が変わった人は一人いるかいないか。日本ではそんな割合だそうです。そして私も中学生ですが、この短い人生で反転病の人は2、3人ほど目にしてきました。つまり……言うほど珍しくもないですが"ごく普通"とは言えない程度には珍しいということです」
「それじゃあなんで僕を選んだの?」
「タイミングが良かったんですよ。『恋愛をしてみたい』って私が思い立ったときに、たまたま近所のお兄さんの性別が変わった。言ってしまえばそれだけです」
白の飾らない言葉に歩はショックを受けた。
自分は特別じゃない。本来は彼女に選ばれるような人間じゃないと理解して、歩は項垂れた。だが白はそこで、ひとつの提案をしてきた。
「だからこれは、遊びでいいんですよ。言うなれば、恋人ごっこ。そういうことならどうですか?」
「え……」
歩は考える前に、たったの一言で答えていた。
「やだ」
答えてから、その発言の意味に気づいた。
一方で白の方は、口をぽかんと半開きにして驚いたような表情を見せる。それは歩が初めて見る表情だった。
(あ、白ちゃんも驚くんだ)
なんてのんきに思った。それからすぐ我に返った。
(ていうか、どうしよう。つい言っちゃったけど……断るべきじゃなかった? だって、やっぱ憧れには違いないし)
今さらになって迷いが生じた。
だって彼女はなんかかっこいいのだ。大人びて、個性的で、行動も独特で。あとは着るものとか前髪さえどうにかしたら自分なんかよりも余程イケメンになるかもしれない。自分よりも、自分の理想に近い人。そんな人と付き合えるチャンスなんて、今後一生ないかもしれない。それでも自分を躊躇わせるのは。考えるより先に断った原因は。
(遊び、なんだよな)
じわりと胸にこみあげてきた、寂しさと情けなさ。歩が俯いて目を伏せると、男時代の面影を残すショートカットの茶髪がわずかに揺れる。
「恋人ごっこ、そんなに嫌ですか?」
それは白の言葉だった。問われた歩は顔を上げて、少し迷ってそれから答えた。歩の答えは、変わらなかった。
「ごっこなら、やだ」
「なんで嫌なんですか?」
「そうだね……なんとなく付き合ってなんとなく別れる。そういうのが、嫌なんだ」
歩は語り始めた。自分の中の甘い……もとい、今日を境に苦くなったその記憶を。
「実は前の彼女に告白された時もなんかそういう感じで、その、友達とあんま変わらない感じでいいからって言われて。でも僕は告白されたのが初めてだったからすごい嬉しくて。僕にもなんか魅力あるんだなって思えて嬉しくて。それに初めてできた彼女だし、初めてじゃなくても"彼女"だし、だから"彼氏"らしく頑張ろうって思って」
「ふむ」
「だけど向こうは遊び慣れてる感じで、全然リードもできなくて、結局キスのひとつもできないまま、こうなって、別れて。僕は本気だったけど、向こうからしたら本当にそういう感じだったんだなって……それが寂しくて、情けなくて……」
言っているうちに胸が苦しくなってきて、やがて息も詰まって喋れなくなってしまった。そして訪れた沈黙に、しかし白は。
「なるほど」
一度頷くと、いつも通りの淡々とした口調で自身の解釈を語った。
「つまりあなたにとって"恋人"というのはまたとない特別な関係性なのですね。どうしても遊びでは済ませられないもの。全力で意地を張るだけの価値があるもの……」
「!」
その解釈は歩の胸にすとんと落ちた。自分で上手く言葉にできなかった物をいとも簡単にお出しされて、歩の童顔がほころんだ。元々丸くて大きいその目が、さらに大きく見開かれた。
「そう、そんな感じ! たったひとりの恋人だよ。お互いがお互いにとって特別なんだよ。だったら大事にしたいし、した方がかっこいいじゃん! できなかったけどね、あはは……」
しかし歩の瞳はすぐにしぼんで、その表情も萎えていく。対して白はろくに表情を変えず……いや、その口に微かな笑みを浮かべて言った。
「かっこいい、ですか。……そうですね、うん。私、あなたの恋愛観は好ましい方ですよ」
「え……?」
歩の気持ちがふわりと浮いた。それは白の微笑みのおかげだった。
――歩の知る限り、白は基本的に無表情だ。なにせ顔の半分近くが前髪で隠れているし、口だって小さくて表情に乏しい。だから驚きも、そして微笑みだってとっても珍しい。
しかし白はそんなレアな表情を歩に向けてくれたのだ。それを見せてくれるくらいには、白が自分の考えに共感してくれたのだと歩は感じた。だが白はどこまでもマイペースだった。
「あなたが私の告白を断った理由も分かりました。でも……『恋人ごっこ』ですよ?」
彼女はどうやら、まだ諦めていなかったらしい。
「あくまでも本物じゃない、ごっこ遊び。それこそお互い、本当に好きな人ができれば止めたらいい。つまり逆に一から十まで遊びと捉えるんです。それなら一周回って不誠実じゃないと思いません? なんなら未来の恋愛に向けた予行演習と言ってもいいですね」
その言葉に歩は思わず顔をしかめた。いくらなんでも節操がない詭弁だと思った。
しかし……ある意味正しいのかもしれないと、魅力的な発想とも思ってしまった。なにせそれなら誰も傷つかないのだ。失恋の辛さを味わうことのない、美味しいところだけをいただく恋のつまみ食い。しかも相手は仮にも自分の憧れている人間だ。
歩の内心は正直、ぐらついた。ぐら、ぐら、ぐらついて……しかしここで頷いてしまうのは、歩のプライドが許さなかった。”彼”の小さくて大きなプライドが。
(かっこわるいよね。言いくるめられたみたいで。都合のいいものに飛びついてるみたいで)
白の方が背が高い。白の方が冷静だ。白のが口が上手い。今更なんのかっこもつかないかもしれないけど、それでも年下の女の子相手にはかっこつけたいお年頃なのだ。
(かっこよくなりたい。だったらさ)
小さじ一杯の男子力が、歩を踏ん張らせた。
「駄目だよ。最初から遊びって言うならなおさら。やっぱ女の子がそういうこと言うもんじゃないよ。もっと自分を大事にしなきゃ」
「私だって、大柄な男を軽率に誘うつもりもありませんよ。自分を大事にしてるから、自分より小さい女の子を誘ってるんですよ」
「うぐ! 白ちゃんってほんと、ズバズバ言うなぁ……でも駄目なものは駄目だからね!」
「ふむ……」
白は歩の説得に対して考えるような素振りを見せる。
「なるほど。そういえばあなたには口癖のような言葉がありましたね」
「え、そんなのあった? いやそれよりも、僕の言うこと分かってくれたかな……?」
「ええ、分かりました」
その肯定に歩がほっと一息つく。が、それも束の間。出し抜けに白が言った。
「ここで私を諭すのは、その方がかっこいいからですか?」
「!」
歩の胸中を透かしてきたその言葉。それを発した小さい口にはうっすらと笑みが浮かんでいる。先ほど歩の恋愛観に同意した際に見せた微笑みとは、似ているようで違う気がする。歩はその真意を読み取ろうとして……
(馬鹿にされてる? 褒められてる?)
しかし口元だけで分かるほど、歩は洞察力に優れてはいなかった。ならば目を見る……のは無理である。なにせ白の目は夜空の向こうにあるのだから。だから最後には、ただの直感だけが残った。
(この子は僕の想いを馬鹿にするような人じゃない……気がする)
だから歩は、白の言葉に対して素直に頷いた。
「そうだよ。しょっぱいプライドかもしんないけど……」
「だったらいいですよ、プライドは大事ですから」
「え? それってどういう……」
「今日のところは引き下がる、ということです。遊びも恋も、むりやり付き合わせるものではありませんしね」
「あ、ありがとう。でも今日だけなんだね……」
歩は白の言葉に苦笑しつつも、やけにあっさり引き下がられたことに拍子抜けしつつも、なにはともあれ事の終わりに安堵した。
白いわく引き下がるのは今日だけらしいが、この調子だったらべつに明日も明後日も変わらず断り続ければいいだけ……
「だったら、普通に遊びに行きましょう。歩さん」
「……へ?」
歩はその言葉に目を丸くした。あれ? 今日のところは引き下がったんじゃ?
「今度の週末にでも、ふたりでどこかに待ち合せて遊びましょう。たったそれだけです。なにも不誠実なことはないでしょう?」
「え? そう、なのかな……? いや、でも、それって、いわゆるデートじゃ?」
突然の進言。突然の路線変更。本当に、路線変更?
歩の脳裏にはクエスチョンマークがわらわらと浮かんできた。恋人と友達。デートと遊び。異性交遊と不純異性交遊。境目ってどこだっけ――
「デートじゃないですよ。だって恋人同士じゃないから」
ずずいっ、と白がいきなり隣に座ってきた。
歩から見ればいきなり眼前にセーラー服の同性が迫ってきた形だ。当然、びっくりしてベンチの端へと体をずらす。だが白はすかさずインファイト。歩と、同性と触れ合うのも躊躇わずに、歩を追いかけてベンチの端へと体を寄せた。
果たして歩の逃げ場はなくなった。
茶のショートヘアーと黒のショートヘアー。ふたりのセーラー服少女がベンチの端っこで密着する。女子がこんな至近距離に詰めてきたのは初めてだ。なにせ元カノとは手さえ繋いでさえいなかったのだから。
それに加えてやはり白の背丈は歩よりも随分高く、だから歩はぶっちゃけちょっとびびっていた。
(どうしよう)
逃げなければ。そう真っ先に思った。
(とにかく席を立って)
「歩さん」
「!?」
歩の手が、あっという間に両手を纏められて握られた。握っているのは白の両手だ。
女性らしい、きめ細やかな肌の感触がそこにはあった。歩の顔が真っ赤に染まる。逃げなければという一心で、咄嗟に言い訳を投げつけた。
「つ、付き合ってもない異性がふたりで遊びに行くのはどうなのかなぁ! ほら、世間体として!」
「付き合ってもない異性、ねぇ……」
「あっ、しまっ」
投げた言い訳は白に当たることなく、明後日の方向へと飛んで行った。気づいたときにはもう後の祭り。歩が次なる反撃の一手に出るそのまえに、彼女の背筋にぞくりと泡立つような感覚が走った。
「ぴゃっ! あ、わ」
続いて未知の感触が脳を揺らす。くすぐったさと気持ち良さが混ざり合って、頭の中がふわふわ蕩ける。その発生源は自分の右手。今でもまだまだ続いている。
「わ、わ、あぅ」
一体なぜかと辛うじて視線を向けてみれば、先ほどまで自分の両手を握っていたはずの白の両手が今は自分の右手だけをくにくにと、触診でもするかのように念入りに触ってきているではないか。
「可愛い声と、柔らかく滑らかな感触」
白は呟きながらも手を止めない。その両手が手のひらの溝をなぞり、手の甲を滑り、五指のふくらみをこねくり回す。そうして触る側もまた女子らしい、柔らかで滑らかな手の持ち主だ。そんな肌と肌が触れ合い擦れ合う感触。女子歴1か月程度の歩には、あまりに刺激の強い初体験だった。
ゆえに意図せず声が上がってしまう。酒に酔ったように足下がおぼつく。弄ばれている右手から力が抜ける。白に力を吸い取られているかのようだ。振りほどけない。
「ちょ、くすぐった、ひぃ、やめっ」
「女性同士なら、なにも問題ないですよね」
「や、それ、言葉の、あや、でっ」
「というわけで早速明日、遊びに行きましょうか」
「分かった! 分かったから、やめてぇ」
「はいやめました」
「あっ」
白の言葉と共にあっさり右手を解放されて、歩を支配していた感覚も消えた。肩の荷がどっと下りる。それに安堵する一方で、一抹の寂しさも……
(って、なんで寂しいんだよ僕は!)
首を横に振って寂しさを振り払ってから、改めて白を見てみれば。
「約束はしました。これなら、遊びに行かない方がむしろ不誠実ってやつですね」
「あ゛」
いけしゃあしゃあと言われた。どさくさ紛れにしてやられた。でもどさくさ紛れだ、そんなの無効だ。
歩はそう言い返そうとしたが、先んじて白の顔がずずいと近づいてきた。
あっという間に視界に広がった白の長い前髪。それは星のない夜空のように真っ黒で――
――ほんの一瞬、星が光った。
「それでは明日の朝10時、日登商店街前の噴水広場に集合ということで」
「あ、うん」
それはほとんど空返事だった。いつの間にか歩の心は、目の前の夜空に吸い込まれていた。
なぜ? 真っ暗闇の隙間から、なにかがちらちらと覗いていたからだ。まるで夜空に瞬く一番星。もっとよく見ようと目を凝らして……突然、夜空がうねりを上げた。
白の頭が勢いよく動いたのだ。彼女の前髪がぶわりと波打ち持ち上がり、かと思えば歩の視界から白の顔そのものが消えた。
歩は反射的に首を振り、白の姿を探して見つけた。その時にはもう彼女はベンチから離れて立ち、歩の方を向いていた。
目元を隠すほどに長い前髪。小さくて動きの少ない唇。表情というものに乏しい少女は、例によって淡々とした声音で告げた。
「時間通りに来てくださいよ。私、あなたの連絡先知らないんですから。もし来なかったら一日中待ってますね」
そう一方的に言い残して、少女は悠々と去っていった。その背中を見送り、あるいは目の前から誰もいなくなったあとも、人気のない公園のベンチで歩はひとり呆然と座っていた。頭の中で、思考がぐるぐる回っている。
(何考えてるんだろうあの子。本当に一日中待ってるのかな。やっぱ行かなきゃいけないのかな。てゆーかこれってデート? 遊び? 向こうが年下だからって、難しく考えすぎなのかなー。こっちが年上なんだし、責任もって考えた方がいいのかなー。てゆーかあの子、なんで前髪あんななんだろ。内気なわけでもないし。それにしても背高いなぁいいなぁ……)
片っ端から浮かんでは消えていく。そうしているうちに、たったひとつが最後に残った。まぶたを閉じて、思い出す。
それは白の前髪の隙間から覗いていた、彼女の瞳だった。色しか見えなかったけど、色だけは見えていた。まぶたを閉じて夜空を作れば、それは勝手に浮かび上がった。真っ暗闇のその中で輝くたったひとつの綺羅星。歩の中で、なにかが始まっていた。
「星のように明るい茶色。なんか、綺麗だったな」
春は、始まりの季節だ。