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28話 ひとり

 歩が広場に足を踏み入れたとき、そこはがらんどうだった。

 広場中にまんべんなく降り積もった雪が、昨日からそこに誰も足を踏み入れていないことを如実に表している。

 

(真っ白だ)

 

 そう思いつつも、脳裏に浮かんだのは黒い夜空だった。

 

「白……」

 

 小さく呟いて、それから躊躇いなく最初の一歩を踏み出した。その感触を鑑みる限り、雪の積もりは浅いようだ。これなら本もそう埋もれてないだろうと期待しつつ、歩は気合を入れて探し始めた。

 ちなみに、慧は本当についてきただけで一緒に探すつもりはないようだった。なんて薄情なやつだと思う一方で、白の大事な本なのだから自分で探したい。そんな気持ちもあったので、歩は文句を言わずひとりで探索を進めていく……と、程なくして。 

 

「あっ」

 

 雪の中から本を発掘することに成功した。スケッチブックを元手に創った、幼少期の白お手製の絵本。それにまとわりつく雪を払ってみれば、本は若干ふやけているものの、色の滲みやページの破れなどもないようで歩はほっと一安心した。

 さて、もう目的自体は済んだわけだが……歩はそこで立ち尽くしたまま、じっと本を見つめていた。


(そういえば、この本をじっくり読んだことはないかも)


 この本を受け取った当時は、白の過去に触れられたという事実そのものに浮かれていた。だからその中身だってざっくりとした目を通していない。

 今、改めて読んだらなにかが分かるのだろうか。思ったそのときには、もう腰をその場に降ろしていた。


(白はなんのためにこれを描いて、描いたあとになにを思ったんだろう)


 子供の落書きひとつに大した意味なんてない。そう思う自分もいる。自身の幼少期を思い返しても、落書きをするのに深いなにかを求めたことはない。だが……


(この本、こんなに分厚かったっけ)


 手の中にずっしりと載っている重み。100ページ近くの紙の束は、その全てが二匹の猫を追いかけていた。


(なんだろう、この重みは。熱意? 僕にはなかった、白と出会うまで持てなかったもの……)


 歩の手が、自然とページを捲っていた。一枚一枚ゆっくりと捲って、じっくりと目を通していく。紙面を余すことなく使われた賑やかな絵。時には拙いひらがなによる注釈も添えて、物語は進んでいく。

 オスとメス。王子様とお姫様。二匹一対の三毛猫が喧嘩ばかりしてる国を出て旅をする。そして旅の中、人の世界のとある一軒家。その裏庭を住処に選んだ二匹が、そこから色んな場所に遊びに行っては帰ってくる……大雑把に言えばそんな話だ。

 二匹の猫は、時にカラフルな異世界を二足歩行で陽気に渡り歩く。時には暗い路地裏を颯爽と四本足で駆け抜ける。空想と現実が入り混じったその絵本に、歩は見ているだけでなにか心が浮き立つような楽しさを感じて……


「あれ?」


 ふと気づいた。空想的と現実的。ふたつの絵柄が、その絵本には混在していた。歩は適当なページを捲って、ふたつの絵柄をもう一度よく見比べてみた。

 あるページには、人間のように二足歩行する猫が虹色に輝く森を歩く絵が描かれていた。その絵はいわゆる子供らしいものだった。ぐちゃぐちゃな賑やかしい線で思うがままに描かれていて、それが空想感なるものを底上げしている。

 あるページには、現実のように四足歩行する猫がレンガ造りの茶色い街並みを歩く絵が描かれていた。子供の絵の域はでないが、前者の絵よりも線の引き方や物の捉え方が綺麗で写実的だ。

 画力だけに絞れば明らかに、後者の方が成長していた。そして後者の絵柄は……まるで前者の絵柄で描いた絵本の空白を埋めるように、ページとページの間にセロテープで後付けされていた。


「継ぎ接ぎだ」


 まるで柄の違うふたつの布を組み合わせて一体の人形を作る……というよりも、穴だらけの人形を別の布で修理するようなやり方だった。

 空想的な絵柄で描かれた物語は、てんで無軌道でばらばらだ。それを現実的な絵柄がむりやり繋ぎ合わせている。

 その絵本と、白の小説とが、頭の中で少しずつ重なっていく。


「画力を上げて、現実に寄せて、空白を埋めて……白はこの本で、なにかを形にしたがっていた? けれどこの本じゃ満足できなかった?」


 なにかが、引っかかった。

 白は昔から今までずっと、なにかを求めていた? 白の過去から現在へと思考を伸ばしていく。


(白はいつだって世界をよく見ていた。変わったものが好き。綺麗なものが好き。白はとても目が良くて……)


「キミはずっと、なにかを知りたがっていたの? だから色んな物を見ていたの? なのにキミは……」


 ――私は覗き見が好きなんですよ。


 白はあの長い前髪の向こうから世界を見ていた。表情を、視線を、あの輝く瞳を隠して。


「そうだ、ずっと隠し続けていた。知ってたのに、なんで気づかなかったんだろう」


 ――私を、見ないで!


 歩はそこにひとつの解釈を見出した。

 あの前髪はもしかして、白なりの"向き合い方"だったのではないか。前髪という壁一枚を隔てて初めて世界と向き合える。もし、そうだとしたのなら。


「白。キミは僕が思っているよりもずっと臆病だったの? 僕だってキミをずっと見てきたのに……僕は本当にキミのことをなにも知らなかったの?」


 それに気づいた途端、胸の内からひとつの想いが湧き上がってきた。その想いに唇をきゅっとかみしめる。


 ――恋を、教えてください


 歩は本を閉じると、その表紙に小さな指をそっと置いて優しく撫でた。

 それはとても愛おしそうな手つきで、それでも……その顔だけは悔しそうに歪んでいた。やがて歩は声を出した。それはまるで痛みに耐えるような、喉を絞ったような声で。


「遠いよ。知りたいよ。話してよ。キミのことをもっと教えてよ、白……!」


「私は結局のところ、実らない初恋を引き伸ばしていたんですよ」


 驚いて、振り向いた。


「白!?」


 歩の視線の先には白が立っていた。

 寒空の下、彼女の吐く息は白かった。彼女の踏みしめる地面も、空から降りゆく雪も白い。

 だからだろうか。真っ黒な前髪が、白と歩を隔てるその壁が異様にくっきり映っていて、それが歩の胸を締め付けた。絵本を抱いて縮こまり、それから白に問いかける。


「なんで、ここに……」

「あなたが呼んでくれたから」

「っ……!」

「……なんて言えたら、かっこよかったんですけどね。生憎と私はそんなかっこいい人間じゃないんです。自分勝手でお節介な友達やら親友やらに背中を押されて、逃げ道を塞がれて、そうじゃないとここまで来れなかった」

「親友って……もしかして慧が? それにかっこよくないって……」

「私は臆病なんです。多分、あなたが思っているよりもずっと」


 白は前者の質問には答えない。今この場においては些事だから。しかし後者の質問については語り始める。それはひとつの核心だから。


「その本は私の初恋の証なんですよ」

「初、恋……?」

「初めて夢中になって、初めて追い求めたものがある。決して届かないと知ってもなお、私は追いかけることを諦めきれなかった」


 そう言うと、白は一度その場に腰を降ろした。地面が雪でも躊躇いなく座り込む。それを見た歩も改めて座りなおし、全身で白に向き合った。白が話を再開した。


「そんな私の初恋を、あなたはあっという間に超えてきた」


 そこで一度白は俯き、唇をきゅっと締めた。苦痛? 後悔? 懺悔? その表情が語る内容は歩には読めない。だが、なにかしらの感情に満ちていることだけは歩でも分かった。


(早く、次の言葉が聞きたい。キミの想いが知りたい)


 歩は言葉で急かす代わりに真っ直ぐな視線を注ぐ。すると応えるように、白が面を上げた。もう唇を引き締めていない。前髪の隙間からほんのわずかに覗く茶色の瞳もまた、決意の光を宿していた。歩を毅然と見つめ返して白は言った。


「あなたは恋を教えてくれた。私はもう、恋を知っている。ごめんなさい、ずっと言えなくて。もっと早く言えれば良かったのに……全ては私の"弱さ”のせいなんです。でも、もう大丈夫だから。私は私の想いから逃げないから」


 それは、歩が望んだ言葉だった。


 ようやく白が本当の意味で心を開いてくれた。

 自分はずっと、これを聴くために頑張ってきたのだ。

 ずっと望んでいた言葉だ。その、はずなのに。


(なんでだろう)


 歩は笑うことができなかった。なにひとつ、喜びの感情が浮き上がってこなかった。その代わり、


 心の奥で、なにかがぐつぐつ煮えている。


 その胸中を知ってか知らずか、白もまた表情を変えずに淡々と語り続ける。


「私は私の弱さを晒しました。それを踏まえて私は知りたい」


 白は真っ直ぐに歩を見ていた。その目はいつもの白だった。あまりにも、いつも通り。


「歩さん。私のどこが、好きなんですか?」


 ぐつり。心の中で、なにかが煮えたち泡立った。

 淡々とした言葉が、感情を殺した声音が、歩の中にあるものを一層過熱させていく。

 しかし白の目は依然として真っ直ぐに歩を見つめている。それは歩が憧れた瞳。だれよりも気高くて、真っ直ぐで、綺麗な……


(本当に?)


 歩の中で、疑念が膨れていく。

 長い前髪の裏で常に前だけを見ている瞳。本当に?

 それは白の隠れた情熱を、本気を体現しているのだ。本当に?

 それは嘘じゃない。そう叫ぶ自分もいる。だけど今は、今だけはそんなもの。


(隙間からこっそり覗いてるだけなのに。いつだって安全な壁で守ってるくせに)


 沸騰寸前。今にも叫びたくなるほどの痛烈な想いが歩を支配していた。


 だが……白は知らない。歩の沸点など、知る由もない。

 白は今まで、自分がなにをしても受け入れてきた歩しか知らなかったから。心のどこかで、自分でも気づかないところで歩を舐め切ってたから。


「こんな私でもあなたが望んでくれるなら、私はその通りに強くなれるから」


 土足で沸点を踏み越えた。白がそれに気づいたのは――白を取り巻くその全てが一変した、そのあとだった。


「!?!?」


 視界が変わった。

 状況が変わった。

 そしてなにより優劣が変わっていた。

 白は歩に押し倒されていた。両腕が抑えられていた。自分の意思とは関係なく、仰向けの体勢で歩を見上げることになって。


「ひっ」


 喉から勝手に声が漏れた。だって目の前には"怖い"瞳があったから。それは歩の瞳だ。どれだけぷりぷり怒っても、全然怖くなくて、むしろ可愛い瞳だ。そのはずだった、のに。

 体が勝手に竦みあがった。


(知らない。こんな歩さん、知らない)


 白はまだ知らない。――ここから先、"白の知っている歩"なんてものはひとかけらさえも出てこなくなることを、白はまだ知らない。


「……」


 歩が無言で、怖い瞳と一緒にその顔を近づけてきた。違う、近づいているのは唇だ。

 彼女はもしかしてキスしようとしてる。よりにもよって、唇に? 

 白はなんとか声を出して、制止しようと。


「や、待ってふむっ……!」


 声が出ない。蓋をしたのは歩の唇だった。白がずっと躊躇っていた、歩がずっと欲しがっていた口と口での初キスは今この瞬間、あまりにも情緒なく失われた。

 だが歩は止まらない。躊躇いなくその舌を白の口内へとねじ込んでくる。白は言語化しがたい恐怖から、自らも咄嗟に舌を突き出して歩の舌を止めようとするが、その抵抗はあまりにも弱々しかった。それこそ、歩にさえ強引にねじ伏せられる程度には。

 抵抗しようと突き出した舌は、むしろ絡めとられて根から先まで舐め上げられた。

 舌と舌が擦れ合って、くちゅくちゅと粘っこい音が口内で反響する。骨を伝わり、脳を溶かす音だった。


(なんで、なにを、私、やって)


 舌の根を、歯茎を、頬の裏を舐め上げられる。未知の刺激が頭をぐちゃぐちゃに犯してくる。時折、口と口との間に空いた隙間から吐息がわずかに漏れる。


「ふっ……っ……!」


 無作法で乱暴なディープキスが口内を片っ端から荒らしていく。歩がまさかこんなことをしてくるなんて想像すらしていなくて、怖くて怖くてたまらないはずなのに。


(きもちいい。きもちいいの?)


 全神経が口へ、そして舌へと群がってきている。自分の意思とは関係なく、わがままに快楽を求めている。白の心もまた、片っ端から荒らされていた。


「……ぷはっ!」


 しかしやがて、歩から口を離したことで終わりを告げた。白の口から歩の口へと一筋の唾液がつぅ……と伸びる。

 白は乱れた前髪の間から、焦点の合わない瞳でそれをぼんやり見つめていた。


(あれ、わたしの? 歩さんの?)


 ふたりの唾液が混じり合ったその糸はすぐにぷつんと千切れ落ちた。その直後、歩は口を開いた。ふたりの唾液で艶めかしく光るその唇で、彼女は堂々と言葉を紡ぐ。


「あの日、僕はこうするべきだったのかもね」

「な、に……?」


 白には、歩の言葉の意味が分からなかった。情熱と狂乱に浮かされた今の白に、それを考える力はない。だが歩は分かりやすく、懇切丁寧に教えてくれた。たったの一言で。


「恋を教えて」

「っ!」


 白の脳が一気に覚醒する。歩の言葉とこの状況。脳裏に蘇ったのは、前に歩を押し倒してキスまで迫った時の光景だった。

 あの日と今とで違うのは、逆に自分が押し倒されていること。そしてあの日は歩が止めたキスを、今度は歩からしてきたことだ。


「あの日キミがマジだったのか、それともマジで冗談だったのか。今はもうどーだっていいけどさ、あの時の僕にとっては絶対にどーでもよくなかったんだ。ねぇ、なんで僕があの日キミのキスを止めたか分かる?」


 その言葉には感情が籠っていた。極寒で冷えて固まった氷柱のような感情が。彼女のこんな声は、聞いたことがない。


「わか、らない」


 白は怖がっていた。歩という存在を、これ以上ないほどに怖がっていた。

 歩の怒りが怖い? 違わないけれど違う。喧嘩別れしたときのように分かりやすい怒りをぶつけられた方がよほどマシだった。それならまだ歩が単純に怒っているのだと"理解できる"から。

 逆に言えば白は、今の歩を理解できない。

 迸るほどに熱いキスをしながら、こんなにも冷たい声音を吐ける彼女を。未だかつてないほど怖い目を――かつてないほどに熱く冷たい憎しみが籠った目を、白は理解できない。


(嫌われてるの? 憎まれてるの? それとももう、私のことなんてどうでもいいの?)


 今まで歩の全てを読み取れていたはずなのに、今はもうなにも分からなかった。


「だったら教えてあげるよ。ついでに今キスした理由も教えてあげる」


 歩の声が降ってきた。だけどこんな冷たい声は、もうこれ以上聞きたくない……それなのに、耳が塞げない。だって歩が両腕を抑えているから。

 地面に張り付けにされて、己が罪状を容赦なしに読み上げられる。


「あの日も今も、キミは嘘をついているんだ。あの日のキスはキミ自身が交わした約束に矛盾していた。そして今のキミはほんの少し、前髪から覗くその目とおんなじぐらいの弱みを見せただけで、それ以外の全部を隠そうとしている。隠しているからキミは僕を見られるし、弱みを見せただなんて平然と言えた。違う?」


 突きつけられた言葉に白はなにも言えない。だが歩は白の言葉を待たず、冷たく苛烈に責め立てる。


「僕が望めば強くなれる? なに言ってるの? 逆だよ。僕の恋した白はそんなしょうもない物に寄りかからない」

「ひ……」


 白の口から短い悲鳴が漏れた。

 今の弱い自分を全否定された気がして、凍ってしまいそうなほどの恐怖が全身を襲う。キスで火照った頬に、とても冷たい汗がつぅっと伝う。それでも歩は容赦しない。


「あの時、キスを止めた僕の気持ちをなんて言えばいいのか……僕自身にもついさっきまで分からなかった。だけど今なら分かる。だってあの時感じたものは、今感じてる気持ちと根本的に同じなんだ。もっと早く、たった一言、僕はキミに言うべきだった」

(聞きたくない、聞きたくない、聞きたくない!)


 白は頭の片隅でわめいていた。現実から逃げたくて堪らなかった。だけど歩に手を抑えつけられている。耳を塞げない。どこにも逃げ場はない。目をつむる。暗闇が怖い。目を開ける。降ってくる。死んでも聞きたくないなにかが、降ってきた。



「ふざけんな」



 白は、口を開かない。


 歩は手を伸ばして、白の前髪に触れた。抵抗がない。だから躊躇なく髪を払って――その表情を白日の下に晒した。


 白は、泣いていた。


 アーモンド型の目。それをくっきり縁取る二重瞼。夜の色を湛えたまつ毛。そして燃えるような、明るい茶色の瞳。かつて歩が恋したその全てをぐちゃぐちゃにして、白はただ涙を流し続けていた。

 情熱、狂乱、恐怖、混乱。白の心もまた、ぐちゃぐちゃになっていた。歩の憧れた白はもうどこにもいない。そこにいるのは壊れたくないと崖っぷちで震えてる、小さい子供ひとりだけ。

 それを目の前にした歩もまた、表情を歪めた。彼女の瞳からも一筋の涙がこぼれ落ちる。それでも歩は止まらない。

 

「僕は弱いキミも、弱い僕も許せない……逃げていたのは、きっと僕も同じだ。一方的に好きだと伝えて、心のどこかじゃそれで満足していた。逃げるキミから、僕は引きずり出さなきゃいけなかったのに」

 

 白の心を引きずり出す。それまではなにがなんでも止まれない。


「キミは、僕のなにが好きなの?」


 白は泣いていた。

 ただひたすらに泣いていた。

 歩の顔を真っ直ぐ見上げて、それでもなにも言えなかった。


「ねぇ、教えてよ」

「……いや、です」


 答えない。それが白の選択だった。

 心をかき乱されて、崖っぷちまで追い詰められて、それでも、なにがなんでも隠し通したい想いがあって。


「っ……!」


 歩の目からもう一滴、涙が落ちた。その雫は白にとっての劇毒だった。なにせたった一滴が頬に当たっただけで、胸が焼かれるように痛むのだから。

 それでも、せめて視線は逸らさない。だって彼女がこの瞳を信じて、恋してくれたのだから。

 白はぐちゃぐちゃになった心の片隅に転がっている、ひとかけらの気力を振り絞って口を開いた。


「先に、聞いたのは、私で」


 それはひとつの問いだった。白は歩の想いが知りたかった。どうしても知りたかった。歩に望んで欲しかった。そうしたら殉じられる。かっこいい白でいられる。奥の奥にあるものを、隠し通して。


「だから、そっちから」


「もう何度も言ってるよ!!」

「っ!?!?」


 それは突然の爆発だった。

 弾けたのは歩の激情。叫び声が辺り一面に響き渡り、絶対零度の瞳がほんの一瞬で様変わる。激情が一気に迸り、その瞳から劇毒()がぼとぼとと溢れだした。

 極度の寒暖差が、白を襲う。


「何度好きって言えばいいの? どれだけ憧れたらいいの? まだ足りないの? 覚えてないの? 僕の言葉なんてどうでもよかったの? それとも何度言ったところで、僕の言葉は信じられないの?」


 冷気で縮こまったところに熱気を一気にぶち当てられて、白の心がひび割れた。


(違う、違う、違う、違う、違う! 違う!!)


 叫びたい。心の最奥に隠してある想いを全て吐き出して、いっそ楽になってしまいたい。


「いいよ、信じられなくてもいい。今の僕が気に食わないならそれを教えてよ。嫌いなこと、許せないこと、なんでもいいよ! たったひとつでもいい。キミの本心が知りたいんだ! 僕が今欲しいのはそれだけなのに、キミがなにも答えてくれないからなにも分からない! ねぇ、僕は……僕はそんな価値すらないの……!?」

「違う、違う。そうじゃないの、全部私が悪いの……!」


 視界を覆うのは、あまりにも悲痛な怒り。誰よりも恋焦がれた彼女にそんな表情をさせたのは誰だ。他でもない、自分自身だ。

 白はとうとう目を閉じた。果てない暗闇の方がよほどマシだった。

 しかし視界が消えればその分だけ他の感覚が鋭敏になる。自らの顔中に何度も落ちてくる劇毒の一粒一粒も、


「違わないよ! 違うって言うなら隠さないでよ! キミの言っていること、全然分かんない!」


 歩の叫びも、全てが白の心を殴りつけてくる。ひびが広がり続けていた。


「僕の言葉はそんなに薄っぺらいの?」


 殴りつけてくる。


「本当はなにもかもが嘘だったの?」


 殴りつけてくる。


「キミの中で僕はずっと"珍しい元男"でしかないの? あの日キミに告白されて、告白し返して……そこから僕らは一歩も進めてないの? ねぇ、教えてよ白」


 殴りつけてくる。


「僕の恋は絶対に、キミに届かないの……?」

「そうですよ」

「――え?」



 砕けた。



「届くわけないじゃないですか」


 白はもう、目を開いていた。だって現実から逃げる気力すらなかったから。

 視界を覆うのは目を見開いた歩の顔。だけどなにも感じなかった。だってもう、どうしようもないから。


「あなたの言葉はなにひとつ聞こえない」


 ――正直で、自由で、揺るがないキミがかっこいいから大好きなんだ。だから、悪い女のままでいいよ


「あなたの恋は、なにひとつ届かない!」


 ――キミの瞳がすっごい綺麗で、なんか心がぎゅっとわしづかみにされて、こんな気持ち初めてで!


 全て覚えているに決まっている。


 ――好きです!


 だって恋しているから。愛しているから。なによりも大事な思い出だから。

 だからこそ――決してそれは届かない。なぜなら、


「私は、あなたの信じている私には決してなれない! あなたが見てる私は私じゃないのに、どうやってそれを信じろって言うの!」

「ま……待ってよ! それくらい僕だって思うよ! キミが言ってくれるほど僕は可愛くないんじゃないかって思ったり、そんなの誰にだって」

「ほんと、考え方が可愛いですね」

「え?」


「どうしようもなく可愛いから、私だけのものにしたい。危なっかしいんですよ、あなたはチョロすぎるから。ふとした瞬間にどこかの誰かに掻っ攫われるんじゃないかって、ずーっと不安だった。その前に閉じ込めて、ぐちゃぐちゃに犯して、私だけしか見えないようにしたい。そんなあなたはもうあなたじゃないかもしれないけど、でも私があなたを壊したら間接的に私の物になるかなって、そんなことをずっと考えてた。あとね、女同士ってことに感謝したこともある。だって女同士じゃ子供だって生めないから、ずっとふたりきりじゃない。いつでもどこでもなにしてもふたりきり。いらない。私とあなた以外は、なんにもいらない」


 歩が、呆然としていた。


「し、ろ……?」

「ねぇ、気持ち悪いでしょう? 最低でしょう? "かっこいい寿々白"がこんなことを四六時中考えてたなんて、夢にも思わなかったでしょう? 私だってそうですよ、私だってこんな私にはなりたくなかった。でもね、これが私の恋だったんですよ……」


 とうとう、言ってしまった。

 本当はこんなつもりじゃなかったのに。美鳥たちに全てを打ち明けたあのとき……かっこいい寿々白で在り続けると、誓ったはずなのに。


「本当は覚悟が欲しくてここに来たのに。あなたがただ無邪気に望んでくれさえすれば……私はそれに殉ずる覚悟ができたのに」

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