27話 ふたり
慧はただ黙って佇んでいた。木にもたれかかったまま、まるで返事を待っているようにじっと白を見つめてくる。白と違って髪は短くその瞳を隠す物はなにひとつないはずなのに、その奥にある心境を白は読み取れなかった。
(やっぱ……この人は苦手だ)
出来れば早くこの場を抜けて歩の下へ行きたい。そもそもとして、なぜこの人がここにいるのか。いや、その理由自体は分かっているのだ。
いわく『俺は、あいつの親友だからな』。
そう、慧がここにいること自体は決しておかしなことではない。だがそれでも白は引っかかっていた。自分と慧が出会ったことに、なにかしら作為めいたものを感じる……
「あっ」
そのとき白の頭に、ひとつの"けったいな名前"が浮かんだ。それは『ふたりの仲を面白おかしく見守り隊』。
そのとき白はようやく理解した。要するに、
「あなた、最初から私をここに呼ぶつもりであのふたりをけしかけましたね……」
「はっは。案外気づくの遅いな? ま、呼んだのはあのふたりの勝手だよ。呼ぶだろうし来るだろうとは睨んでたけど」
「……もし来なかったら?」
「そのために俺はここに居たんじゃないか。ま、とりあえず彼女が来たんなら俺の出番は終わりだろ。つーわけで俺は帰るから、あとよろしくな~」
「あ、はい……」
慧はいきなり白に背を向けて、片手をひらりと掲げた。なんとも気取ったさよならのポーズを見せつけて、それから山を下り始める。
白はそんな慧の背中をぽかんと見送って……
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ!」
つい引き留めてしまった。
(あ、なんで引き留めちゃったんだ私)
そう思ったのもつかの間、慧が振り返ってにかっと笑う。
「お邪魔虫が自分から帰ろうって言い出したんだ。キミにとっては好都合じゃないか?」
「っ!」
慧は笑っている。実に楽しそうに白を見つめてきている。まるで白の意思を全て見透かしているような、余裕をふんだんに含んだ笑み。
(この人は知ってるんだ。私がこの人に嫉妬してることを、知ってるんだ)
白は直感的にそう悟って、思わず後ずさってしまった。
(歩さんには、この人の方が)
わずかに零れたその弱さは、あっという間に口をついで表に出てしまう。それは慧を思わず引き留めてしまった理由でもあった。
「歩さんにとって、あなたは誰よりも大事な人だから……」
「誰よりも、ねぇ」
「……」
「キミと俺、歩の隣に立つならどっちが自然だと思う? ぱっと見じゃ多分俺なんだろうな」
図星だった。白だって、それは何度も考えていた。だがそれを当人に言われると無償に腹が立つのもまた事実だった。
「なにが、言いたいんですか……」
「むしろキミから言い出したことなんだが……しっかし歩がいっとう変人だっつって惚れた人間が"自然"を求めるってのも変な話だよな。変ってことは不自然ってことだ。変ってことは面白いってことだ。つまり不自然なことは面白きかな」
「本当に、なにが言いたいんですか……」
「なにが言いたい、というよりもキミと話したいから適当喋ってるんだが……あ、そうだ言い忘れてたことがひとつあるんだ」
「え?」
「俺さ、女なんだよ」
「え、そんなこと今言われても……………………は?」
白は真っ先に聞き間違いを疑った。だからもう一回尋ねてみた。
「なんて?」
そしたらもう一回、答えてくれた。
「俺な、実は女なんだよ。体の性別的にはな」
「…………ちょっと待ってください」
「俺はいいけどキミはいいのか? 歩が近くにいるってのに」
「いや、そうなんですけど。本当にそうなんですけど……」
だからって、さらっとお出しされた衝撃の事実を全然飲み込めないのだからどうしようもない。だがどうにかして飲み込まなければ話は先に進まないわけで。とりあえず、思いついた質問を雑に投げてみた。
「まさかあなたも、反転病……」
「はずれ。生まれも育ちも女だよ。しかし歩から目がいいって聞いてたのに、まさか本当に気づいてないとはなぁ。けっこー露骨に匂わせたつもりなんだけど」
「いや、でも、胸……」
「これ? 普通にサラシ。まぁ、胸あってもいいっちゃいいけど、ない方がウケいいし」
「学校の制服……」
「反転病なんて物もあるんだ、そこら辺自由度なきゃなにかと困るだろ。知らなかった?」
「歩さんがそこら辺サクッと順応してたから忘れてたけど、そういえばそんな制度もあったような。いや、確かに、言われてみれば確かに線が細いし声も高いけど、いやいやそんな……」
「なぁなぁ。ネタばらしもしたことだし、そろそろ身の上話ぐらい語っていい?」
「……好きにしてくださいよ、もう……」
白は思考をぶん投げた。向こうが語ってくれるというなら任せておけばいいのだ。なんかもう、疲れてしまった。
そう意気消沈する白に向かって、慧はなにがそんな楽しいのかむしろ生き生きと自分のことを喋り始めた。
「俺さ、"女"として振る舞うのが昔から無理だったんだよ。服とか、習慣とか、定期的に『やってられっか!』って。だから今こんな感じで生きてるの。変な話だけどさ、反転病なんてものがあるから、べつに反転病じゃなくてもこういう生き方がしやすいのかもしんない。ま、ある意味では反転病より珍しいかもしれんが……だからって歩から乗り換えんなよ?」
「いや、恋敵に惚れるわけありませんが……って、ちょっと待ってくださいよ。男みたいな身なりの女子って余計に私とキャラが被るじゃないですか!」
「歩の言う通り、似た者どうしってこったな。あいつは見る目があるんだよ」
「な、なんてややこしい……」
白は思わず頭を抱えてしまった。しかしその一方で、ふと天啓じみた発想が閃く。
(ややこしい人。似た者どうし。もしこの人も、なにかしらを拗らせてんなら……)
ひとつだけ、腑に落ちることもあるかもしれない。白がそう考えて腕を組む一方で慧の話も進んでいく。
「言うほどややこしくもないさ。結果だけ言ってしまえば男のナリしてるだけの女だし、俺はそれでいいと思ってる。べつにこの体が嫌なわけでもないんだ。ただ性に合わないことが多いだけで、合わないなら合わないなりにも適当に仲良くやっていけるもんさ。幸い、周囲にも……ついでに時代にも恵まれてるだろうしな」
相も変わらず飄々とした口調でそう語り終えた慧。だが、白はずっと考えていた。慧が語り終えてしばらくしても、腕を組んだまま黙っていて。
「ありゃ。思いのほか真面目な話になっちゃった? そういうつもりはなかったんだけどなぁ、白ちゃんってば意外と気遣うタイプ?」
「べつに、あなたのことなんて気遣ってませんよ」
そう言った白は、いつの間にか腕を解いていた。
「お、復帰した。てかなにその台詞。新手のツンデレか?」
「あまり茶化してばかりだと歩さんに嫌われますよ……なんて、私が言えた義理でもありませんが。むしろ私としては、そういうところに1mm程度の親近感を覚えたかもしれませんね」
「1mmでも進歩は進歩か。してその心は?」
慧の目が、その興味津々な視線が白を射抜く。だが白も真っ向からそれを見返していた。もう後ずさることもなかった。
たったひとつではあるが、慧のことが分かったから。
「慧さん。あなた……『かっこいい』と言われたことはないでしょう? たったひとりを除いては」
その言葉に、慧が初めて驚きの表情を見せた。白はそれを見てちょっぴり気分がすっきりした……が、それも一瞬。慧はすぐに調子を取り戻し、言い返してきた。
「女子には結構モテるけどな。女でも構わない……なーんて言われた経験だってあるし」
「見た目じゃなくて生き方の話ですよ、どーせ分かってるくせに」
白が分かったことはひとつだけしかない。だが、そのひとつは慧にとってなによりも大事なことである。それを白は理解していた。似た者同士だから、言葉に迷いはなかった。
「似た者同士。あなたもまた、歩さんにほだされたひとりってだけの話ですよ」
白が理解したのは、慧が歩と一緒にいる理由だった。ふたりが親友になった経緯そのものはもちろん知らないが……
「はは、思ったより鋭いじゃん。100%歩の買い被りってわけでもないんだな」
今から語られるのだろう。そう直感して白は黙った。そしてそれを察したかのように、慧はゆらりと空を見上げた。
その立ち姿はいつも通り飄々としているようで、しかしどこか寂し気だった。
空からは雪がぽつぽつ降ってきている。慧はそれをしばらく見上げて、それから不意に口を開いた。そこから発せられた声は、白が聞いた慧の声の中で最も薄情なものだった。
「……人なんて、結局はつまらない生き物だ。俺自身も例外なく」
「は?」
それは白が思わず首を傾げてしまう程度には奇妙な呟きだった。しかし慧は白に目を向けることなく、ただ淡々と語り続ける。
「ガキの頃は、本気でそう思ってた。"女の子"として押し付けられた物を我慢したり嫌がったりして、そんな俺が受け入れられたり離れられたりするうちに考え出した俺流の哲学だった。今思えばつまらないガキだったけど、当時はそうして達観したつもりにならないとやってられなかった。とにかく周りを見下したいお年頃だったんだ。だから……歩のことも最初は嫌いだったんだ。むしろあいつが、一番嫌いだった」
「……!」
白は慧の言葉に驚くが、それでも慧は変わらない。ひとりぼっちでずーっと空を見上げたまま。だから白も、一緒に空を見上げてみた。
伸びに伸びた木々の枝。茶色の網が弱々しく空を覆っている。冬であるがゆえに緑色の葉は抜け落ち、その網目はすかすかだ。だがその空白を埋めるように、灰色が空を埋め尽くしていた。雷雨の黒雲でも快晴の白雲でもない、中途半端な雲の色。そんな空をキャンパスに慧は思い出を描き続ける。白には決して見えない線で。
だが白には、それが追えるような気がしていた。だって慧とは似た者同士だから。だって歩とは、恋人としての思い出がたくさんあるのだから。
「だってさぁ、俺の性別を知った途端あいつは無邪気に『かっこいい』なんて言ってきたんだぜ? 俺はそれが大層癪に触って、だから言ってやったんだ。『俺とお前となにが違うんだ、一々特別扱いするな』って。そうしたらあいつは『特別は嫌なの?』なんてきょとんとしてさ。それから当たり前のように言ってきたんだ」
「「ヒーローみたいでかっこいいのに」」
慧が、ようやく白を見た。その顔はこれまでにない驚きに満ちていた。
白もまた、慧を見ていた。その顔は、これまでにない自慢げに満ちていた。
「つくづく、歩さんらしいですね」
白は慧の描く線に追いついていた。さらにそれを追い越して、慧の中にある物を先んじて描き出そうとする。
「歩さんにとって、あなたはテレビの中のヒーローなどと同じく尊敬できる存在だった。孤独の中でも自分を貫ける、特別な存在。でも裏を返せば……」
「そう、所詮はその程度だったんだよ」
今度は慧が追い越した。"その程度"、表向きには軽薄とも取れる言葉をもって。
だがその言葉を口にした慧の瞳は、白が今まで見た彼女の中でも一番優しいものだった。
(この人も本当に、歩さんのことが)
それが友愛なのか恋愛なのかは未だに読み取れない。ただ、その想いの強さだけは読み取れる。彼女の目から、言葉から。
「俺はその程度なんだ。それが分かったとき、俺は……肩の荷が降りた気がしたんだ。なんか気持ちが軽くなった。達観したふりして持ち上げるもんでもねーなってさ。だったらいっそ、包み隠さず自分を持ち上げてやろうなんて開き直ってやったわけよ」
次の瞬間、慧の表情は変わっていた。彼女は飄々とした余裕と、あの読めない雰囲気を一瞬で取り戻して。
「そしてできたのがこのイケメンってな! どう? 裏野慧誕生ヒストリー、聞き入ったろ?」
「……誰が聞き入るもんですか。所詮、同じ穴のムジナってだけじゃないですか」
「お、徐々に暴言混じってきたな。跳ねっかえりは嫌いじゃない。打てば響くってのは楽しいよな」
「またそうやって優位性を保とうとする」
「俺、高2。キミ中2。実際、優位。この年頃なら、3歳は遠い♪」
「なんでラップ調なんですか地味にムカつく……大体、年功序列なんて気にする柄じゃないでしょう」
「俺が下なら無かったことにするが上なら積極的にイジる方が楽しいんだよなぁ。キミだってそうだろ? その高い背を利用して存分に歩をおちょくってきたというタレコミがあるぞぉ他でもない歩本人から」
「ぐっ。それを言われると……この、なんで厄介なところばかりよく似てる……あっ」
白ははたと気づいた。厄介なところばかり。似た者同士。同じ穴のムジナ……そうだそうだったそういえば、この人恋敵候補なんだった。
「まさかあなた、やっぱり歩さんに懸想を……」
「ははっ」
嘲笑ひとつだけが返ってきた。そっから先はだんまりで。
「答えてください」
白の中で、途端に焦りが湧いてきた。
よく考えてみれば女性であることが嫌だというなら、心が男性だというのなら、その恋愛対象は女性にならないか。その一方で体は女性で、だったら歩が惚れても無理ないのではないか。
「ちょっと、どうなんですか!」
「どうだろうなぁ。俺の方がキミよりお似合いって言われたしなぁ?」
「そんなこと言ってないですよいいからとっとと吐け」
「俺は正直者だからありのままに答えてあげると、俺は歩の親友を自称するぐらいにはあいつのことが気に入ってるぞ。あれほど弄りがいのあるやつはまー他にいないだろーな」
確かに嘘はついてないだろうが、肝心なところだけぼかしている。そういうところも自分によく似ていて、だから白は余計にイラッとした。とはいえこれ以上問い詰めても暖簾になんちゃら糠にほにゃらら。どうせ飄々とかわされることは分かってたので、せめてもの反抗で「はっ」と嘲笑を吐き捨ててから悪口を投げつけてやった。
「あの人の親友なくせして、本当にイイ性格してますねあなたって」
「親友なくせして、なぁ。その親友を遊びで誑かした女にだけは言われたくないんだよなー」
「あぐっ」
いきなり強烈なカウンター。心臓に杭を打っ刺されたもんだから、白は当然その手で心臓を押さえるのだった。アレな痛みにもだえ苦しみながらも、なんとか反撃の言葉を絞り出す。
「私も正直者だから言ってやりますが、この数分であなたのことがめっちゃ嫌いになりましたよ……」
「俺はキミのこと結構好きだよ? キミが俺を嫌ってること含めて。なにせ跳ねっかえりの中坊はおちょくっていて楽しいからな。そんで、楽しいついでにもうひとつだけヒントをくれてやろう」
「は? なんの?」
「似た者同士。キミが俺に嫉妬しているように、俺もキミに嫉妬しているんだ。だからキミを弄るのはちょっとしたヤキモチなわけで、俺としてはぜひ心を広く持ってほしいんだが」
「ヤ、キ、モ、チ」
不意打ちで、とんでもない爆弾を投げられた。
驚愕に固まる白を置いて、慧はふらりと背を向けた。そして何も言わずその場から歩き始めた。歩がいる広場とは反対の帰り道。下山しつつ片手を挙げて、白に別れの言葉を投げる。
「それじゃ、あとはよろしく~」
「ちょ、ちょっとどこ行くんですか。話はまだ――」
「始まってすらいないだろ? キミが行くべきはこっちじゃない」
「っ……!」
白は思わず言葉を詰まらせてしまった。
自分はなんのためにここへ来た? その目的を思い出してしまったから。
黙って見送るしかできなくなった白を置いて、慧は歩き続けるし語りも続ける。
「最初に言ったろ、キミに任せるって。それと俺は正直者だから、実はもう俺の気持ちは隠さず言ってるはずなんだ。まぁ二度は言わないけどな。はっはっはっ、悩め中坊!」
やがて高笑いだけを残して、慧は山道の奥へと消えていった。その姿が完全に見えなくなって、それから白はようやく呟いた。
「意味、分かんないんですけど……」
意味が分からないことを気にしてもしょうがない。すぐにそう思い直した。
それに……本当に気にするべきことは、目の前にあるのだ。
白は体を向けた。山道の出口へと……歩が本を探しているであろう、あの広場へと。
「……」
白が黙って見つめる先、出口は真っ白に輝いていた。
白は出口と山道の間に視線を向けた。木々が遮る山道と、なにも遮る物がない木々の間には、真っ白な境界線が引かれている。春には無かった境界線がいつの間にやら勝手に引かれていた。
白は再び前を向いた。出口が真っ白に輝いている。その先には歩がいるはずだ。だがなにも聞こえてこない。彼女の気配を感じ取れない。
(なにもない)
出口の先にはなにもないのかもしれない。ふとそう思った。だが、後ろを振り返ったところでなにもない。それも分かっていた。
(本当は、とっくの昔に分かっていた)
そのとき、二匹の猫が勝手に脳内を駆け出した。しかし白はそれを脳内から追い出していく。二匹の猫を外へ導けば、やがて猫たちは脳内を越えてどこかへと去っていった。白はそれに安堵した。
(これでいいんだ。私は、未来が欲しいから)
過去に逃げたところで自分の渇望が満たされることはない。白はそれを知っていた。だって過去は色褪せない。変わらない。色褪せようも、変わりようもない。
――白にとって、世界はいつもセピア色だった。
(本当は分かっていた。あの二匹が愛し合っていたのなんて、私の空想でしかない。私と彼らは違う。あの二匹の気持ちは、永遠に理解できない)
白はもうとっくの前に飽きていたのだ。猫たちと別れた日からなにひとつ変われない、自分の空想に。遠くから進歩のない観察を続けるだけの毎日に。同じところをぐるぐると回ってるだけの、自分自身に。
(それでも諦められなかった。あの二匹のことが知りたい。それは初めての夢だったから)
堂々巡りの毎日を続ける中で、ある日近所のお兄さんがお姉さんになったことを知った。
日常を壊しうる非日常。それを求めていたのは歩だけじゃない。むしろ白の方がなによりもそれを欲していた。白は停滞した現状を変えたかった。そして変えるためには、行動を起こさなければ始まらない。
だから白は、歩に告白した。
(夢に少しでも近づきたかった。あの二匹が愛し合っていたのが本当にただの空想だったのか、恋を体感してみれば分かると思った。最初は本当に、それだけだったのに……)
歩のことを思うと、胸が勝手にきゅっと締まった。だって白は歩に恋をしているから。歩は、白が求めていた以上の物を見せつけてきたのだから。
歩は色褪せない、豊かな色彩を持っていた。
目まぐるしく表情を変える。日を追うごとに魅力を増していく。セピア色の毎日を打ち壊し、カラフルに変わっていく彼女を目の前で見られるのがどうしようもなく楽しかった。
それでいて歩は変わらなかった。
いつも裏表がなくて、いつだって意地っ張り。変わりゆく毎日の中で、それでもブレない彼女はどうしようもなく綺麗だった。あの日の猫たちのように……否、それを超えるほどに。
「あなたは恋を教えてくれた。私が望んでいた空想なんて軽く超えて、新しい夢を与えてくれた。なのに私は……」
歩の想いを利用して、そのくせ受け入れられず、最後には拒絶してしまった自分があまりに惨めだった。こんなに自分を嫌いになったのは初めてだった。こんな自分は彼女に相応しくないと、今でも思っている。だけど、それでも。
「だけどもう、大丈夫だから。あなたが望んでくれるなら、私はあなたの望みに殉じられる。そうしたら、また一緒にいられるかな」
――正直で、自由で、気高いキミが好きなんだ
白はついに足を踏み出した。
歩いて、歩いて、雪が作る境界線の前に立つ。口からは、言葉が自然と零れ落ちた。
「……覚悟する。そう、決めたんだ」
白は、境界線を踏み越える。
◇■◇
慧は後ろを振り返った。
そのときにはもう白の姿が見えないところまで歩いていた。だから視線の先には誰もいなくて、だから自然と口元に笑みが浮かんだ。それから再び前を向くと、またゆるりと歩き始めた。しばらく歩いて、それからぽつりと呟いた。
「あの子の目がいいなんて、やっぱあいつの過大評価だな」
――異性の恋人はいつでも募集中だし、歩にはこれっぽっちも興味ないから!
慧は異性を恋愛対象にしている。
――男のナリしてるだけの女だし、俺はそれでいいと思ってる
慧は自分を曲がりなりにも女だと思っている。
「もうとっくに言ってるのに」
それが、答えだった。
だが自分の発言なんて白はどうせ覚えてないだろう。そう思うだけでなんだか楽しくなってくる。楽しいならば笑えばいい。だから慧はくつくつと笑った。
「恋は盲目。本当に歩しか見えてないんだもんなぁ。そんでもって……歩も、白ちゃんのことしか見えてないわけだ」
慧は歩きながら空を見上げる。中途半端な灰色の空をに向かって、慧は空想の絵筆を取った。思い描くのは過去のふたり。泣き虫で弱っちい親友と、そんな彼に"生き方"を貰った自分。
――だから俺も、本気で待ってる
――約束するよ。だから待ってて
次に描くのは、今のふたり。
――所詮、同じ穴のムジナってだけじゃないですか
まずは自分と似ている悪い女を。それから、その隣には……もう泣き虫じゃない、親友を。
――あの瞳に夢を貰ったんだ
慧は、ヤキモチを焼いている。
「そういうのは、俺が言わせたかったんだけどな」




