26話 恋を知る人知らぬ人
白は全てを語り終えた。歩との思い出の全てを。そしてそのひと時ひと時に感じた、自らの感情までも。
その中には歩にすら話せなかったこともあった。それらを口にした自分に驚いたりもした。だが『大して近しくない存在だからこそ話せるのかもしれない』。いつの間にかそう割り切って、感情のままに片っ端から吐き出していた。
そして、聴き手のひとりである美鳥はその全てを受け止めた後に……たったの一言で総括した。
「キミって、本当に恋をしてるんだね」
苦さ3割、嬉しさ7割。彼女はそんな苦笑をしていた。その横ではもうひとりの聴き手である叶枝がうんうんと大げさに頷いていた。
いずれにせよ、この場にいる誰もが知っていた――白がとっくの昔に恋を知っていることを。それは白自身も例外ではない。
「……そう、ですね」
白は小さく呟きながら、自分の目をこすって涙をぬぐった。彼女の指が髪にかかったとき、充血した目とその下の、寝不足からできた濃い隈がほんの一瞬だけ露わになった。それを見て美鳥は苦笑し、それから彼女は白に言った。
「正直、想像以上のぞっこんぶりでびっくりしたよ」
「それだけですか……結局、解決のヒントとやらは……」
縋るような弱々しいその問いに、しかし美鳥はあっけらかんとした返事を返した。
「さぁ? あ、でも楽しかったよ」
「だけどぉ、色々過激だったね。キャー恥ずかしー」
叶枝はわざとらしく顔を覆い隠してキャーキャー騒いだ。ちなみに叶枝は今、なぜか美鳥の膝の上に座っている。
ふたりの極めて呑気な所作を見せつけられて、白はがくりと首を落とした。
「話せって言ったのはそっちじゃないですか……」
「って言っても解決するとは言ってないしぃ。大体私たちは部外者だし、ねぇトリちゃん?」
「えっと、ほら、話すだけで楽になるってよく言うじゃない? 大丈夫、私も叶枝も口は固いし」
「そういう問題じゃ……なんていうか、ほんとなにしに来たんですかあなたたち……」
「うーん。なにしに来たと言われると、お見舞い半分、野次馬半分……」
「あ、ついでにこれこれ! 白ちゃんが話してる間になんか来てたよ!」
叶枝はそう言うやいなや、自分のスマホを白に突きつけてきた。その画面の上部には、ひとつの名前が載っている。
『ふたりの仲を面白おかしく見守り隊』
なんだそのけったいな名前は。
白は内心でそう呟いたが、しかしその直後、画面下に書かれていたひとつのメッセージを読んで思わず目を見開いた。
慧:歩が今、公園に向かってる。どこの公園かって? 分かるやつは分かるだろはははw
白の中でなにかが閃く。
(もしかして、私の本を探しに行った?)
閃いてから、思い出した。そういえば自分の絵本は、あの公園に置きっぱなしだったのではないか?
白は慌てて立ち上がり、部屋の壁に付いている小窓を開けた。そして外を伺えば、空からは雪がちらちらと降っている。思い返せば、この雪は昨日から降っていた気もする。だったらもう積もってるかもしれない? 実際、外はすっかり雪の白一色に染まっていた。
白の脚がふらつく。
(歩さん、ひとりで行ったの? どうしよう、私のせいで。もし怪我でもしたら……)
なにせあの道は荒れている。それに人気もない。たとえなにかの拍子に滑って転んでも助けに来る人はいないだろう。そんなことを一度でも考えると、悪いイメージばかりが膨らんでいく。顔から血の気が引いていく。
(歩さんになにかあるのは嫌だ。私のせいで迷惑をかけるのも嫌。もしあの人になにかあって、そしたらなにも話せないまま関係が終わるかもしれない? そんなの、そんなの……!)
「……行かなきゃ」
白はそれだけを呟くと、急いで外出の準備を始めた。そこら辺にほっとかれていた防寒具やら財布やらを引っ掴んでいく。
一方で、美鳥はそんな光景を見てくすりと笑った。そしてその膝の上で、叶枝が「あーん」と唐突に声を挙げた。
「桃なくなっちゃったぁ」
「私のいる?」
「わーい! あーん」
そのあーんは、口を開けて『ここに放り込んで』系のあーんだった。そして美鳥は特に躊躇いもせず自分の桃缶の桃を爪楊枝で刺して、それを叶枝の口に入れた。叶枝も叶枝で、当たり前のように桃を受け入れてもぐもぐと噛んでは「トリちゃんの桃おいしー」などと呑気に言う。
そんなふたりの寸劇は、準備を終えた白を呆れさせるのに十分な威力を持っていた。
「なんかいちゃつきだした……ほんとなにしに来たんですかあなたたち……」
「だからさっきも言ったじゃない。キミらの恋路の野次馬&慧さんからの伝言役。あといちゃついてはないよ」
「私はトリちゃんについてきただけー。じゃあいちゃつこう!」
「わっ、こら。しょうがないなぁ叶枝は」
膝の上に乗ったまま自身の体に抱き着いてきた叶枝を、美鳥は抵抗もせずに受け入れた。むしろ自分から彼女の頭を優しく撫でてやる。まるでそう在るのが自然であるかのようなふたりを見て、白は思わず呟いていた。
「……羨ましい」
その言葉に対して美鳥も叶枝も白へときょとんとした表情を向けた。だが白はぼんやりとふたりを見ながら、ひとりごとのように言葉を続ける。
「私もあなたたちみたいになりたかった。歩さんと嘘偽りのない関係になれたら、もっと、ちゃんと一緒に……」
「無理でしょ、キミたちは幼馴染じゃないんだから」
それは美鳥の言葉だった。美鳥はなぜだか、彼女にしては珍しく遠慮も躊躇いもない声音を持って白に言い聞かせてくる。
「もっと言えば幼馴染でも、例えば私と叶枝。それに歩さんと慧さんとじゃまた少し違うんじゃない? 結局はそのふたりらしくやってくしかないんだよ」
「……私は他の誰かになれない。そんなのは知ってる。だから」
「だから私は、キミが羨ましい」
「……え?」
出し抜けに言われたその一言。白が面を上げると、美鳥はすでに微笑んでいた。
「私の側にはいつも幼馴染がいる。だけど私は、側にいない誰かに恋をしたことがないんだ。当たり前のように側にいてくれる叶枝のことはもちろん大事にしたい。だけど……だからかな? 私は綺麗だなって思う。側にいるのが当たり前じゃなくて喧嘩だってするのに、それでも一緒にいたがる人が私にはすごく綺麗に見えるんだよ。歩さんも、そしてキミだって」
「……」
白はただ、呆然としていた。美鳥の考えは白にとって初めての発想であり、白はそれを飲み込むことができなかった。ただ、それでも……
白がなにかを思う一方で、美鳥は膝の上の叶枝に促した。
「そろそろ帰ろっか。叶枝」
「うん!」
立ち上がり帰宅の準備を始めるふたりに対して、白もまた自然と足を踏み出していた。
「見送りますよ。というか私もこのまま出ます」
歩に会いに行く。白はすでにその決心を固めていた。だが固めた心に、美鳥が真っ直ぐな視線と問いをぶつけてくる。
「でも行ってどうするの? 仲直りする算段は立ってるの?」
「正直なにも分からないし、出たとこ勝負するしかありません。ただ……それでも分かったこともあります。あの人は私の本を取りに行ってくれている。まだ私への恋心があるのか、それとも単なる優しさなのかは分からないけど、どっちにせよ私はあの人のそういうところに応えたいし……やっぱりどうしても好きなんです。あの人のことが」
白はきゅっと体を抱きしめながら、絞り出すような声音で言った。
「今ここで引きこもってたら、“かっこいい寿々白"には本当になれなくなる。もう遅いかもしれないけど、あの人が信じてくれた物は裏切りたくない。それだけは本当だから」
それを聞いて、美鳥はその視線を緩めた。「そっか」と納得するように呟いてから白に言った。
「キミがそう言うなら応援するよ、頑張ってね。それとごめん、今日はむりやり押しかけて」
その言葉に、白もまた緊張を緩める。小さな口でふっと笑って。
「気にしないでくださいよ……友達、ですから」
その言葉に美鳥と叶枝は顔を見合わせて、それから叶枝の方が大声で驚いた。
「わぁ。白ちゃんの初デレだ! あなたがデレたから今日は白ちゃん記念日?」
「こら、叶枝ったら……でも友達だってんなら遠慮はいらないね。今度また恋バナ聞かせてよ」
「もうあらかた話しましたよ」
「そりゃ続きに決まってるでしょ。……楽しみにしてるよ」
「……そう、ですね」
そうして、3人は家を出た。
白は例の公園に向かい、幼馴染コンビは……
「寒いねぇ。あったかいねぇ」
「はっきりしないなぁ。気持ちは分かるけど」
帰り道に置かれていた自販機の横で、並んで暖まっていた。
叶枝の手にはコーンポタージュが、美鳥の手には微糖コーヒーが握られている。お互いに飲み物をちびちびと飲みつつ、まるでさっき聞いた諸々の話なんてなかったかのようにのんびりと過ごしていた。
幼馴染ふたりきり。お互いなにを言わずとも居心地の良い時間の中で、しかし美鳥が不意に口を開いた。
「叶枝って、なんだかんだですごい空気読むの上手いよね」
その言葉に叶枝は可愛らしく首を傾げる。
「なんのことかなー?」
「なんのことだろうねぇ」
にこにこと笑う幼馴染の横で、美鳥は懐からスマホを取り出してLINEを開いた。
ふたりの仲を面白おかしく見守り隊。そのグループのトーク画面を改めて画面に映して。
慧:歩が今、公園に向かってる。どこの公園かって? 分かるやつは分かるだろはははw
飄々としたハスキーボイスを脳内再生してふふっと笑いつつ、トーク画面を下にスクロールしていく……そう、まだ下があったのだ。白に見せた慧のメッセージ。その下にはもうひとつ、メッセージが残されていた。
慧:俺もついていくから心配はしなくていーぞ。ま、白ちゃんになにをどう伝えるかはそっちに任せるけどな?
◇■◇
目の前に、大きな穴が空いている。正確に言えば穴のように薄暗い山道であった。葉が殆ど抜け落ちた木々が、しかし枝で網目を作りその道を雪から守っている。
その一方で山道の前の地面や周囲の木々には白い雪が降り積もっていて、それが余計に山道の暗さを強調している。そんな光景を目の前にして、
(こんなに怖いところだっけ)
白は軽く身震いした。この先は自分のお気に入りであり、歩との関係が始まったところでもあり、だから大事な場所のはずなのに……ここで立ち止まってしまったのは、一体なぜなのだろう。
そこまで考えて、白は首を何度か横に振った。
(行かなきゃ。ここで逃げたら、私は"かっこよく"なれないんだ)
恐れを振り払い、白は山道へと足を踏み入れた。
木々に遮られているせいで、道にはそこまで雪が積もっていない。茶色と白の入り混じった山道は、冬らしいというべきかあまりにも静かだ。白の足音と息遣い。それと風に揺られた木々の乾いたざわめきぐらいしか音と呼べる物が存在しなかった。
静かな道を歩いているうちに、白の思考も段々静かになってきた。その視野もまた狭まっていく。前に、ただ前に進めばいい。今はなにも考えず、前に進むしかないのだ。
だから歩く。歩く。ひたすらに歩いていく。やがて視界の奥に光が見えた。あの向こうに広場がある。歩がいる。だからとにかく、足を進めて――
「お、来たな」
気さくなハスキーボイスが、不意に耳朶を打った。
白がハッとして声の方を向けば、ひとりの青年らしき人物が一本の木にもたれて掛かっていた。線が細く端正な顔つき。耳まではっきり見えるほど短い髪。そしてそよ風のように飄々としたその雰囲気。
「……なんで、ここにいるんですか」
白の前に立っていたのは、裏野慧だった。
「簡単な話だ。俺は、あいつの親友だからな」




