23話 あくる冬の日。雪と悩みは積もり積もって
その朝は、裏野慧からすればいつもと変わらぬ朝だった。
いつも通りに目覚めて、飯食べて、準備して、家を出て、いつも通りの通学路を……
「お。思ったより積もってるな」
家を出て開口一番、慧はそう言った。どこもかしこも白一色。見慣れたはずのご近所がすっかり冬らしく様変わりしていた。昨日から降り続いている雪が、たった一晩で世界を白く塗り替えてしまったのだ。
続いて慧は空を見上げた。視線の向こうから相変わらずゆっくりと、しかしまんべんなく雪が降ってくる。空に向かって息を吐いてみれば、雪に負けないくらいに真っ白な息がふわりと飛んでいく。
「さすがにこんだけ寒いと、かっこつけて前を開ける気にもならんな」
慧は高校の制服である学ランの上に、高校指定のウインドブレーカーを羽織っていた。昨日までは『チャックを閉めると芋っぽくて嫌』という理由ひとつでチャックを開けて颯爽と、マントのように身につけていたのだが……今日のような天気だとさすがにそうも言ってられない。
しっかりとチャックを閉めて、フードも被り、寒さ対策を完全にしてから慧は歩き出した。
お気に入りのスニーカーで地面を踏みしめれば、ざくりと雪の潰れる音がする。道を駆け抜けてぶち当たる風は昨日よりも一段と冷え込んでいる。
いつもと違う冬の世界。だけどやっぱり、慧からすればいつもと変わらぬ朝だった。なにせ慧自身がいつも通りの健康体だったから。
世の中はいつだって自分と関係なしに動いていく。逆に言えば自分さえ変わらなければ、世の中がいくら動こうともまたいつも通りというものだ。
そう。だからいつもと違う世界だからといって、その足取りは全くいつも通りで……
「あ?」
視界の左端になにかがちらついた。そんな気がした。
考えるよりも先に慧は足を止めていた。自分でもなにが見えたのか分からないまま、とりあえず左を向いてみる……
電柱と、女子高生が立っていた。正確には道の端にそびえたつ電柱に、セーラー服の女子高生が己の額を引っ付けていた。
見間違いかと思った。
目を閉じてもう一度開ける。
やっぱり……電柱と女子高生だった。女子高生は、まるで頭から電柱にぶつかった直後を描いた一枚の絵のようにその場で固まっている。
壁にめり込んだまま歩き続けるゲームキャラとかたまにいるよなぁ。そんなことを慧はふと思った。
いや違う、そんな場合ではないのだ。重要なのはあれを無視するべきなのかそうでないのか。
無視したい。嫌な予感がする。厄介ごとに巻き込まれる。慧の意思はそう警報を鳴らしている。
だが……足が勝手に動いていた。表面上の意思に反して体は行動を起こしていた。女子高生に歩み寄り、その顔を改めて確認する……嫌な予感は当たっていた。
彼女の童顔には生気がなかった。その柔らかな髪は寝ぐせでボサボサになっていた。防寒具に覆われていない、しわだらけのセーラー服には現在進行形で雪が降り積もり、それでも彼女は微動だにしていない。
そんな彼女に慧は心当たりがあった。というか、心当たりしかなかった。慧は己の額に手を当てて、心底残念そうに問いかけた。
「あのなぁ。なにやってんだよ、歩……」
歩は、なにも答えなかった。
◇■◇
その日は、裏野慧にとって異常極まりない一日だった。その理由はただひとつ。一番の親友が、小立歩がなにやら異常極まりなかったからだ。
ただぼんやりと座って授業を聴かないだけならまだいい。体育でバレーをすれば無抵抗にボールにぶちあたってぶっ倒れ、美術で風景画を描かせればどこを観察するでもなく深い闇一色で画用紙を塗りつぶす。いつもは絶対残さないはずのお弁当にも一切手を付けず、ついに放課後のチャイムが鳴った今この瞬間も、歩は席から立ち上がることなく虚ろな目でどこか遠くを眺めていた。
「まぁ、原因はそこそこに絞れるんだけどさぁ……」
バグったゲームよろしく席でフリーズしている歩を見て、慧が頭を掻く。
「まったく、しょうがないやつだな」
半分面倒そうで、しかし半分は楽しそう。文字通り苦笑の表情で一言呟くと、慧は歩の側まで歩み寄って……いきなり、その一言をぶつけた。
「白ちゃんと、喧嘩でもしたか?」
べつに確たる証拠があったわけでもないが、この親友のメンタルをここまで崩せる案件はそれ以外に想像がつかなかった。そして、その予想はどうやら当たっていたらしい。
「けい」
歩が慧へと顔を向けた。彼女の肌は死人のように青白く、そのくせ目は充血して赤い。しかし眼の下を縁取っているのは黒い隈だ。まるで毒キノコのようにカラフルな顔面を向けられて、若干慧が後ずさる。その一方で。
「う」
歩の充血した瞳が何の前ぶれもなく潤みだした。やがてそれは目じりに涙を作り、その涙もすぐに溢れて零れだす。
「うぇぇぇ……うわぁぁぁん!!」
歩は大声で泣きだした。ぼろぼろと涙をこぼして、恥も外聞もなく子供のように泣き出した。
しかし教室にはクラスメイトがまだちらほらと残っていたわけで。彼ら全員の視線が歩に……というよりも歩を泣かせた慧に刺さった。にわかにざわつく教室の中で。
「さーてどうすっかなぁ……」
視線の中心地に立つ本人は困ったような口調で言う。しかしその表情はまたも苦笑。苦々しくも、どうにも笑える気分だった。
慧は誰にも聞こえない小さな声で呟く。なにかを懐かしむような声音だった。
「ガキの頃以来だな、お前が泣くのって」
◇■◇
そんでもって。
慧の自宅である。慧の部屋である。その中心で、慧は歩と向かい合っていた。
泣きじゃくる歩を強制連行して我が家の我が部屋へと叩き込むのは極めて面倒だったが、その甲斐あってか歩はすっかり泣き止んでいた。その代わり、明らかに『僕は傷ついています』と言わんばかりにしゅんと項垂れてその場にへたり込んでいる。
慧もまたその場に腰を下ろしていた。とりあえず、歩に問いかける。
「で、結局なにがあったんだ」
「……僕のせいだって、言われたんだ」
それから歩は慧に話した。白の過去が知りたくて父親に会ったこと。白の父親に"白の宝物"を託されたこと。昨日、それを使って白の過去について問いただしたこと。そして……それを白に拒絶されてしまったこと。
「僕が悪いんだ。勝手に白の秘密を暴いて、心に土足で踏み込むような真似をした。……嫌われて当然だよね」
歩がそう自嘲する一方で、慧は腕を組んで考える。
確かに筋は通ってるのだ。人間知られたくない過去のひとつやふたつあったって不思議じゃないし、それを勝手に探られるのは良い気がしないだろう。親しく信頼している人間相手ならなおさらだ。だが……。
「なーんか引っかかるんだよな。なぁ、ひとつ聞いていいか?」
「なに……?」
「そもそもだ。なんでそんなことしようって思ったんだ? なんつうかお前……恋人のスマホを勝手に見たりとかするタイプじゃないだろ。そんなことしてる暇があったら恋人の気を惹くために一生懸命になる方っつうか……」
それが慧から見た、歩という人間だった。
「要するに馬鹿正直。裏でなんかするには頭が足りないんだよ。足りないから実際こんなことになったんだし……」
慧は敢えて挑発するような物言いを歩にぶつけた。普段の歩なら絶対にムキになって否定してくるだろう。そんな想定を慧はしていたのだが……
「…………」
歩はやはりと言うべきか無反応だった。
「まいったな」そうぽつりと呟いてから、慧は頭を掻いて溜息をついた。どうやら慧が今まで見たことないレベルで歩は追い込まれているらしい。
「まったく、ウチの親友をこんなに振り回してくれちゃって……」
呆れたようにひとり呟き、それから歩に向かって優しく問いかけた。
「ほんとに必死なんだな。お前」
ぴくりと、歩の体が反応した。微かに震えて、それから震えて、また震えて、震えて……
「キスの代わり、だって。おでこ、こつんって」
「なに?」
「人として好ましいって、僕が初めてだって。そう言ってくれて、嬉しくて」
歩の目から涙がぽつりぽつりとこぼれていく。教室であれだけ大泣きしたというのに、彼女の涙はまだ枯れていなかった。
「でも、それでもキスは駄目だって、本当の恋人同士にはなれないって、ひっく、だから、どうしたらいいのか、分かんなくて、白は知りたがってるのに、僕は教えてあげられない。僕はなによりも白が好きなのに、この気持ちが届かない。だから、もう、縋るしかなくて」
「……」
涙をこぼしながら語る歩の言葉は、ばらばらになったパズルのピースのように支離滅裂だ。だが慧は思案していた。ここで拾ったピースだけではなく、今まで手にしたピースからパズルを組み立て始めていた。
慧は見ていたのだ。歩が親友と話しているときの白の変化を。
慧は知っていたのだ。自分が歩と一緒にいるとき、白は逃げるように帰ったり、あるいは歩をむりやり引っ張って自分から遠ざけようとしていたことを。
……パズルはおよそ、完成していた。見えたその絵を躊躇なく歩に突きつける。
「白ちゃん、もうお前に恋してるんじゃないのか?」
歩の涙がぴたりと止まった。彼女はきょとんと慧を見た。ぱちくりと瞬きして、それから本気で分からないという風に問い返してきた。
「なんで?」
「いや、なんでって……ぶっちゃけ俺にはそういう風にしか見えないんだけど……」
「ありえないよ」
やけに力強い一言だった。彼女自身のメンタルはぐらぐらなのに、白への評価はこれっぽっちも揺らいでいない。
「白はいつも正直で、気高くで、かっこいい。そんな白がずっと遊びだって言ってたから……僕に恋をしてるなんて、ありえないんだ」
その言葉があまりにも真っ直ぐだから、慧は少しだけ怖くなった。少しだけ寂しくも感じた。だけど、それ以上に……慧はワクワクしていた。
「お前、ほんとにのめりこんでるんだな」
胸の中でなにかがうずく。慧は試したくなっていた。
「ありえないって言うけどさ……お前、白ちゃんのことを言うほど知らないだろ?」
「っ!」
「だから過去を知ろうとして、だから拒絶されたんだろ? だったら彼女の気持ちなんてお前には分からないはずだ。違うか?」
「それは、そう、だけど……」
歩の口が苦し気にきゅっと引き絞られる。だが慧は止まらない。全ては歩の親友であるがゆえに。
「もしこの仮定が正しいとしたら、だ……白ちゃんはもうお前を好きになっている。恋を知っているのに自分の事情からお前に嘘をつき続けて、あまつさえ一方的に、ヒステリックにお前の気持ちを否定したってことになる」
「っ……!」
「つまりお前の理想像とは真逆だ。嘘つきでかっこ悪くて、わがままな人間ってことになるな。ま……お前の言う通り恋愛感情がなかったとしても、それはそれで最低だと俺は思う。結局のところ、俺から見れば随分などん詰まりなんだが……それでもお前はありえないって言えるのか? あの子の言うことを、どこまで信じられるんだ?」
「……どこまでが」
歩の言葉に先ほどまでの力はない。ありえないとは、もう言えなかった。
「どこまでが、嘘だったのかな」




