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20話 信じたい、ぶつけたい

 寿々黒斗が黙々と、娘の小説に目を通していた。勉強机の上に置かれたノートPC。そのディスプレイが映し出す無数の文字を、文章の集合体を、ひとつの物語をただひたすらに網膜へと焼き付けている。

 少し前まで開きっぱなしだった彼の口もまた、今や固く閉ざされていた。

 その後ろでは歩もまた、無意識のうちに拳を握って黙り込んでいた。彼女の頭の中では無味乾燥な白の小説と幻想的な黒斗の絵が、ぐるぐると踊り回っている。

 

(怖い)

 

 なんとなく、そう思った。

 

「ふぅ……」

 

 と、不意に黒斗が息を吐いて、それからぐっと背伸びをした。それを見た歩が自分の腕時計に目を通す。まだ読み始めてから20分も経っていないのだが。

 

「もう読み終えたんですか?」


 歩が尋ねると、黒斗は顔をくるりと向けてきた。歩の不安に反して、彼の表情はとても穏やかなものだった。


「ああ。あの子の抱えてるものがおよそ見えてきたよ。我が娘ながら、なんというか拗らせてるな」

「! それって一体――」

「ストップだ」

「っ!」


 否応なしに、歩の言葉がせき止められた。黒斗の声は決して大きくないが、しかし言葉のひとつひとつが不思議とくっきりしている。


「今は僕が見て僕が知る手番だよ、歩ちゃん。だからひとつキミに聞きたい」

「なん……ですか?」

「簡単な話さ。キミはこの小説を読んでどう思った?」

「……」

 

 歩はどう答えるか、少しだけ迷った。

 正直に言ってしまえば、それは白の小説を否定することにもなってしまう。それが嫌だという気持ちもある。ましてや白の父親に向かってそれを言うのだ。だが……

 

(認められない物があるからここに来た。僕のわがままで、白に嘘をついてまで……)


 歩は選んで、そして答えた。


「正直、怖かった。僕の知っている白とその小説があまりにも食い違っていたから……僕が恋をした白は嘘だったんじゃないかって」

「怖かった、か。じゃあ今は?」

 

 問われて歩は思い出す。白の小説を読ませてもらって、それから押し倒されて、彼女の瞳と向き合って……答えはもう出ていた。

 

「信じています。この小説もきっと白の本当だけど……だからって、今までが嘘になったわけじゃない。この恋を信じたいって、そう思えるほどの日々を僕は白から貰ってる」


 口にしながら、少しだけ(矛盾してるように聞こえるかな)と迷った。

 信じているのなら、健気に待ち続ける方が"らしい"のかもしれない。その選択肢を考えなかったわけではない。

 だけど信じているからこそ、ここは踏み込むべきだと思った。白の抱えているなにかから逃げたくない。その奥からなにが出てきても真正面からガツンと受け止めてやる。そのつもりで。


「だからここに来たんです。白と、こう、ガツンと向き合いたくて!」

「ガツンと、ね。なるほどいいじゃないか」


 黒斗はくすりと微笑んだ。


(こういう笑い方も、少し白と似てるかな)


 歩がなんとなくそう思った直後、


「ところで」


 そう頭に置いて、黒斗が話を切り出した。


「小説のことを聞いたのに、いつの間にか白の話になってるね」

「……あ˝」

 

 言われて気づいたその事実。どんだけ自分は白のことばっか考えてるんだ。自覚すると、頬がどんどん熱くなる。

 

「ご、ごめんなさい……」

「はっはっはっ、それもまた良きだよ歩くん・・! よし、僕も白の父親として覚悟しようじゃないか!」

「はえ? ど、どういう……?」

「キミの……というかキミと白のためなら命を掛けてもいいということさ! なにせ娘にマジで怒られるというのは、父親にとって死にも等しい恐怖を持つからね。キミがそれに値するか見定める必要があったのさ!」

「は、はぁ……?」

 

 なんかいきなり物騒なことを仰り始めた。

 歩は当然、黒斗の言葉に首を傾げる。しかし黒斗はそんな歩を置いてけぼりにして行動を始めた。黒斗は目の前の勉強机に再び向き合うと、いきなりその場に屈みだしたのだ。


「昔と変わってないなら、確かこの奥の奥に……」


 彼はそう言いながら、机の一番下にある引き出しを開けてその中身に手を伸ばした。そして片っ端から中身をかき出す。子供用の漢字辞典、小学校1~6年生の国語の教科書、幼稚園児向けの絵本……やがて全てをかき出した奥の奥で、たったひとつ残った物を黒斗は引っ張り出した。


「やっぱりあった! 歩くん、これがキミの知りたがっていた物の一端だ。そこからなにを引き出すかはキミ次第だけどね」

 

 黒斗はそう言って、引き出しの奥の奥にあったそれを歩へと差し出した。差し出されたのは1冊のスケッチブックだった。その表紙には有名な文具メーカーのロゴが大きく印刷されており、右下の隅には『寿々 白』と手書きで記されていた。どうやら筆ペンを使ったようで、やたら力強く達筆な文字だった。

 

「これは余談だけど、その名前は僕が書いてあげたんだ。自分で言うのもなんだがめっちゃ上手くないかい? 白にね、『それがキミの名前だよ』と教えてあげたら、漢字がかっこよかったみたいですごい喜んでくれてね。懐かしいなぁ」

「へぇ、小さい白かぁ。僕も見てみたいなぁ……」

 

 歩は感心しながらスケッチブックを受け取って、

 

「って、そもそもこれってなんですか?」

 

 ようやくツッコミを入れた。しかし黒斗はニヤリと笑みを見せるだけでなにも語らない。これは読めということなのか。そう解釈して、歩はおそるおそるスケッチブックのページを開く。


 ――1ページ目に描かれていたのは、三毛猫の王子様とお姫様だった。幼い子供がカラフルなクレヨンをふんだんに使って思うがままに描いた絵。それ以外の何物でもなかった。


「これは……」

 

 歩はページをめくっていった。

 始め数ページは王子様とお姫様が仲良く遊ぶ姿だけが描かれていたが、あるときを境に他の猫が二匹だけの世界に割り込んできた。邪魔者ならぬ邪魔猫は一匹だけではない。その数はページを捲るごとに増えていき、しかもその全員が王子様とお姫様の仲を引き離そうとしているようだった。二匹をそれぞれ取り巻く猫たちの衣装などを見る限り、どうやらこの二匹は別々の国だか家だかに属しているらしい。

 

(なんだっけ。ロミオとジュリエットみたいな話かな?)

 

 ずいぶん昔に絵本かなんかで読んだ気がするが、あれは最終的にお互い死に別れる話だったはずだ……だがこのスケッチブックに描かれた二匹の猫はその結末をなぞらなかった。

 二匹は手を取り合って他の猫たちから逃げ出したのだ。猫なのに馬を駆り色鮮やかな花畑を駆け抜けて、時には猫らしく四本足で薄暗い森を歩き、やがて船を漕ぎ海を超えて、辿り着いたのは……まさかの現代日本だった。

 四角いビルに三角屋根の一軒家。クレヨンで描かれた住宅街を歩いていく二匹の姿に、歩は思わず笑ってしまった。

 

(なんていうか、子供らしいなぁ)


 その物語はぐちゃぐちゃだった。まず猫の歩き方が、ページによって二足歩行だったり四足歩行だったりする。

 色遣いや世界観だって統一性がない。目に痛いほどカラフルな街並みを描いていたと思いきや次のページでは茶色や灰色といったやたら渋い色の街に変わっている、なんてこともざらにある。果てにはなんの前触れもなく現代日本が現れたりもしたのだ。

 子供らしい無軌道ぶり。おもちゃ箱をひっくり返したかのようなぐちゃぐちゃな物語だったが……歩は己の微かな胸の高鳴りを、しかし確かに自覚していた。


(ワクワクするな。なんか、生き生きしてるって感じ?)


 いつの間にか、そのぐちゃぐちゃな物語にのめりこんでいた。夢中でページを捲っていく。物語を進めていく……。

 二匹の猫はやがてとある一軒家の裏庭に住み着いた。二匹は王子様とお姫様という立場を捨て、ただの三毛猫として生きることにしたのだ。

 住み着いた裏庭で一緒に寝起きして、食事して、そしてまた旅に出る。例えば近所の塀を二匹並んで歩いたり、例えば空き地でじゃれ合ったり。それに異世界に行ったりもする。パステルチックなお菓子の国から古めかしい中世の街まで、様々なところを二匹一緒に歩いていく。そしてまた裏庭へと帰ってくるのだ。

 裏庭からどこかへと、何度も何度も冒険に出ては帰ってくる。いつだって二匹一緒に旅をする。ページを捲れば捲るほど、心が引き込まれていく。ずっとこの二匹を見ていたい。いつしかそんな思いを抱きながら、何度も何度もページを捲る。絵本の中で、また猫は裏庭を旅立って――

 

「……え?」

 

 終わりは不意に訪れた。

 捲るページが無くなったのだ。『おわり』の文字すら書かれないまま、物語はもう終わっていた。

 読んでるときに感じていたワクワクが、行き場のないモヤモヤに反転した。思わず前を見る。黒斗が薄くほほ笑んでいる。歩は彼に問いかけた。

 

「これ、続きはないんですか?」

「ないよ。二匹はいつも通り旅に出て、それで終わりさ」

「そんな……」

 

 歩は失意を抱きながらスケッチブックに目を落とす。右下に描かれた『寿々 白』の文字が目に留まり、歩はふと気づいた。

 

「あ、そっか。これ……白が描いたんですよね」

「そう。彼女が初めて描いた物語だ。読んでみてどうだった?」

「……面白かったです。子供らしいというか、ぐちゃぐちゃだったけど、すごい賑やかで、楽しそうで、引き込まれて……白が、これを描いたんだ」

 

 歩はそっと、スケッチブックを手でなぞる。幼い白がどんな気持ちでこれを描いたのかと考えるだけで、不思議と胸が締め付けられる。歩には確かな実感があった。確かにこれは白が描いた物なのだと。だから、その言葉は自然と出ていた。

 

「白らしくて、本当に素敵ですよね」

「白らしい、か。一般的に見れば、むしろこの小説の方が白らしく見えるんじゃないかい? 淡泊で、合理的で、無感情で……」

「白って、実は表情豊かなんですよ?」

 

 黒斗が初めて、驚きの表情を見せた。見開かれた大きな目に、白とよく似たその目に向かって歩は躊躇わずに言葉を続ける。

 

「口が小さくて分かりづらいけど、笑うと優しく弧を描くし驚くとぽかんと口を開けたりしますし。焦るとちょっと早口になるし、気分が沈むとちょっと声の調子も落ち込みます。それに……やっぱり目が素敵なんです。ちゃんと真っ直ぐ僕を見つめてくれて、優しくほほ笑みかけてくれて……驚いたときや照れるときも意外と露骨で。前髪の隙間からでもちゃんと見れば結構見えるんですよ。ああいうところが楽しいですよね」

 

 白の父親なんだから、彼も当然分かっているだろう。歩はそんな前提で話していた。実際、それは確かに正しかった……が。

 

「beautiful!」

「うわぁ! な、なんですか!?」

 

 黒斗のこんな反応は予測できていなかった。急な称賛、急な満面の笑みにびっくりして後ずさった歩に向けて彼は勢いのままに捲し立ててくる。

 

「元男の子の女の子と遊びで付き合いだしたとか聞いたときには我が娘ながら愉快なこと始めたなと思ったもんだが、いやしかし白が興味を持つわけだ! キミはとても柔らかで、気持ちのいい頭を持っている。まるでそのむ……いや、これはさすがに洒落にならないというか、知られたら白に殺されるかもしれないしな。うん」

「なんですかその物騒な台詞!?」

「ははは無問題モーマンタイというやつさ! そう、キミは柔らかな頭を持ってるのさ。キミのその髪のように」

 

 そう言いながら、黒斗はその太い指で歩の髪をそっとつまんだ。黒斗の指が動くのに合わせて、歩の柔らかい髪がふわりと曲線を描いて踊る。

 

(柔らかい髪、か……そういえば)

「白もこの髪が好きだって言ってくれました」

「ほんとかい? あの子はてっきりごりごりの母親似だと思っていたが、僕の血も意外と入ってるのかもなぁ」

「かも、というか結構似てますよ。白とお義父さん」

「お義父さん?」

「あっ。いや、今のは言葉のあやと言いますか……!」

「お義父さん! 娘じゃない娘に呼ばれるのは初めてだけど、中々に気持ちがいい!」

「そ、そういうもんですか……?」

「そういうもんさ。それに比べて白はさー、年頃の娘特有の硬さっていうかさー、やっぱ父親は避けたがる年頃なんだろーなー多分。普通に接してても一言一言がなんかぎこちないっていうかさー。ああそうそう、白はね。頭が硬いんだよ。芸術家の子供なのに、いやだからこそかな? あの子の小説を読んで、柔らかなキミを見て、改めてそう思った」

「頭が、硬い……?」

 

 黒斗の言葉に歩はつい驚いてしまった。なにせ歩の知っている白は型に囚われない変人で、型に囚われないというのは言い換えればとても柔軟で自由な生き方をしているということでもあったから。

 

「そう。白は石頭なんだ。だからやるなら思いきり、ガツン! とぶつけてやればいいさ。そのための武器が必要なら……遠慮せず、持っていくといい」

 

 そう言って黒斗が指差したのは、歩の手の中にあるスケッチブック……白の処女作である絵本だった。歩は思わずハッとして、それから絵本をぎゅっと両手の中に抱いて、最後にがばりと頭を下げた。

 

「ありがとうございます! これでガツンとぶつかってみます!」

「白には僕が持ち出したことにしてこっぴどく怒られておくから、ひとまずは安心してくれ。ここは俺に任せて先に行けーってやつさ」

「ほ、本当にいいんですか……死にも等しいとか言ってましたけど」

「あっはっは、だから燃えるんじゃないか! キミも男の子なら分かるだろう?」

「!」

「少々古臭いかもしれないが、それでも男は度胸がかっこいいと僕は思う。いくつになっても惚れた女にはかっこいいところを見せたい物さ。なぁ、歩くん?」

「……はい!」

「いい返事だ! ま、僕はぶっちゃけ尻に敷かれてばっかなんだけどねぇぬはははは! いやぁやっぱ白も母さん似なんだよねぇあの有無を言わさぬ感じとか、自分の信念に忠実過ぎて全然ブレないところとか、あれだよね僕みたいなズボラな人間とは生き物としての格が違うなって思わされちゃうよねあっはっは!」

「は、はぁ……」

(どうにも掴みどころのない人だなぁ。まるで白みたい……いや、違う)


 歩はふたりを見比べて、あることに気づいた。

 黒斗の掴みどころのなさは、その煙のような雰囲気から来ている。確かに目の前に在るはずなのに、手を突っ込んでもするりと抜けてしまいそうな曖昧さ。

 しかし、白のそれは壁だ。

 こちらが核心に近づくと、どんっと壁が現れる。遊びと本気。恋を教えて。明確な壁に阻まれて、白の姿が見えなくなる。

 

(石頭。少し、分かってきたかも)


 ガツンとぶつからなきゃいけない。改めて、そう思った。

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