第1話 終わってる僕と始めたい私のプロローグ
春は始まりの季節だ。
明るい未来を示すようにどこまでも青く広がる空がある。そしてそよ風もまた、あらゆる始まりを優しく出迎えてくれる。そんな空の下、風の中で。
「僕はこれから、どうしたらいいんだろう……」
『小立 歩』はすでに終わっていた。
歩は寂れた公園のベンチに座り、ひとりぼっちで青空を見上げていた。
歩にとって現在という時は、たった一度きりしかない高校2年生の春である。しかし……歩にとっての春はもう遠い過去と化していた。
「もー駄目。もー折れた。色々とやってらんない!」
やけっぱちに叫んでみるも、その甲高いソプラノボイスはあっという間に果てなき空へと呑まれて消えた。始まりの季節は終わった者に対して無常なのだ。
ゆえに歩ごときがいくら悲観しようと、空は青いし風も穏やかなまま……
「マジやってらんない! なぁ~……」
やるせなさに身を任せてベンチの背もたれへと全体重を預ければ、顔もぐにゃりと空を向いた。そのせいで歩の茶髪がそのおでこに張り付く。あるいは張り付かない髪が無造作に垂れ下がった。だが歩はべつに気にしない。
なにせその長さはショートカットだ。ゆえに重さは大したことなく視界だって遮らない。
だから歩には見えている。嫌味なほどに青い空が見えている。
雲一つない青空はまるでスクリーンだ。そのせいか、歩の脳裏には走馬灯のようにここしばらくの不幸が青空へと映し出されていくのだった。
そう。"あること"が原因で起き、そしてもう終わったよっつの不幸が……
まずは、ひとつめ。
(勉強、まだ追いついてないんだよなぁ)
歩は約三週間もの間、"あること"が原因で病院に叩きこまれていた。そのために高校の勉強が遅れてしまったのだ。歩にとって勉強は解ければ楽しいが、解けなくなるとしんどいものだった。そんでもって、現在高校2年生の歩にとって勉強はわりとしんどいものだった。歩の学力は、中の上が精々だった。
続いてふたつめ。
(服、どうしよう)
今まで着ていた学ランを捨てて制服を新しく買い替える羽目になった……いや、制服はまだいい。"あること"が歩の身に起きた際、それに伴い国や学校の補償があったからタダで替えてもらえたのだ。しかし、問題は私服だ。歩が今持っている私服には『サイズは大きいけど、なんとかギリギリ着れないこともなくはない……かな?』的な代物しかないので、一刻も早く新しい物を揃えなければいけない。いけないが、こう、色々と踏ん切りがつかなかった。お金とか。あと、なんというか、見た目とか……。
そんでもってみっつめ。
(部活、やめちゃった。これから暇になるな……)
所属していた男子卓球部を辞めざるをえなかった。ぶっちゃけほぼ惰性で続けていただけだし、実はさして気にしていない……のだが、せめて結果のひとつだけでも残してから辞めたかった。こんな、すっぱりと強制終了するだなんて……とはいえ大して強くない卓球部の中にあっても中の中ぐらいの実力だったし、最後まで続けていても結果に繋がったかは怪しいものだが。
そして最後によっつめ……これが一番堪えた。堪えたから、声を大きく張り上げてしまった。
「初めてできた、彼女だったのになぁ~~~」
別れたのだ、初めての彼女と。それも今日の放課後。入院生活を終えて復学した1週間後のことである。
ある日、軽いノリで告白してきたクラスメイトの女子。彼女とは付き合ってからまだ2か月も経ってなかった。入院生活を除外するとたったの1か月程度だ。あまりにも儚い夢だった。だけどこれは、誰も悪くないのだ。一方的に別れられた自分だって。別れを持ち掛けてきた彼女だって。
なにせ、あんなことがあったのだ。だからしょうがないのだ。
(しょうがないよ。しょうがない……しょうがないけどさぁ……)
でも、だからって『これからは普通に友達としてやっていきましょう、こっちは新しい彼氏ができたから心配いりません(意訳)』だなんて、さすがにちょっとひどくない? しかもよくよく聞けば僕が入院してた時に乗り換えたらしく、それってちょっと二股入ってない? まだキスすらしてない進展具合だったのが単なる不幸か不幸中の幸いなのか悩ましい……なーんて思い返したら、なんだか余計に悲しくなってきた。
空を見上げていないと泣きそうだ。だけど、それでも。
「……やっぱり、しょうがないよなぁ。だって……『女の子はそういう目で見れない』って言われたら、僕にはどーしようもないじゃん。誰にだってどーしようもないよ」
そんな歩の呟きに応えるように、びゅうと強めの風が吹いた。それに煽られて"彼女"の衣服がはためく。
紺色の襟に白のシャツ。歩が上に着ていたのはシンプルなセーラー服だった。清く正しく慎ましくぶっちゃけ地味な学生服。だから風に吹かれて困るような装飾はなにひとつ付いていない。
だが……セーラー服の下にあるのはプリーツスカートだと相場が決まっている。そしてそれは歩も例外ではない。
だが歩の両手は今、力なく垂れ下がっていた。それに加えて座り方だって、まるで男のように堂々足を開いたガニ股だった。
つまるところスカートは今、風に煽られ放題だった。果たして風に煽られて、ぶわりと捲られて、剥き出しになった太ももを春風が撫でて、
「わっ」
その感触で歩はようやく我に返った。視界の先ではスカートがえらいこっちゃ。
とりあえず押さえた方がいいのかな。いいんだろうな。
目の前の、スカートが捲れているという現象にどうにも現実味を感じない。それでもとりあえず、両手でえいやと押さえてみた。押さえられた。風だって収まった。スカートが大人しく垂れ下がる。これでほっと一息――
「白と黒のストライプですか」
誰かが、そんなことを言った。
「!?」
歩は驚いて前を見た。すると歩の目の前、というか下半身の前には、いつの間にかひとりの人間がしゃがみこんでいた。
そいつはなにかを考えるように顎に手を置きつつ、歩の股へと顔を向けている。
だがその視線が本当に股へと向いているのかは……実のところ判別が付かない。
なぜならそいつは、前髪だけが異様に長かったからだ。
後頭部や側面の髪はざっくばらんに切られたショートヘアーなのに、なぜか前髪だけが目元を隠すほどに長い。しかも髪色が真っ黒なので、その前髪はまるで真っ黒なカーテンか、あるいは星のない夜空のようになっていて。
「しかもワンポイントのフリル付き」
夜空の下にちょこんとくっついてる小さな口が、いきなり言葉を発した。
「女性になったばかりにしては、ちょっと洒落てますね……親か誰かに選んでもらったものですか?」
「あ、うん。妹が何着か買ってきたから、それを適当に――ってなにしてんの、どこ見てんの!?」
歩はようやく事態に気づいて叫びを上げた。
パンツを分析されていた。人生初のセクハラだった。しかも被害者側だった。
だから当然、加害者の"少女"を睨み付ける。そう、目の前の人物は少女なのだ。歩とは違う性別。違う生き物――
「まぁまぁいいじゃないですか、もう同性なんですし」
違うはずだった、生き物。だけど今は同じ生き物。同じ性別。
それを示すように少女が立ち上がり、その全身を露わにした。
少女もまた、歩のようにセーラー服を纏っていた。
だがそのデザインは歩のそれよりもどことなく垢抜けた若々しい雰囲気だ。というか実際に若々しい。なにせそのセーラー服は近隣の中学校で使われているものだったからだ。
つまり少女は高校生である歩よりも年下の中学生だった。
しかし、少女の背は歩よりも高かった。
その身長、およそ170㎝。現在の歩が150㎝ほどなので、なんとその差は約20㎝ほど。およそ頭ひとつ分の差があった。
総合すると少女は歩より年下で、しかし背は高く、なにより前髪がとても長い。
そんな少女を……歩はひとりだけ知っている。
歩にとって少女は、ある日突然現れた見知らぬセクハラ少女ではなかった。
歩にとっては――とってもご近所さんなセクハラ少女だったのだ。
「し、白ちゃん! そういう問題じゃないんだよ!?」
寿々 白。歩の家の近所に住む、中学2年生である。
彼女は画家の父と作曲家の母の元に生まれた芸術家のサラブレットらしく、その血のせいかいわゆる"変人"的な性格をしている。
だが、だからこそ歩にとって白は近所の女の子である以上に、実はちょっとした憧れの人でもあった。
ただ……今は下着覗き魔以外の何物でもない。変人さんの変態さん。だから歩は当然のように彼女を叱りつけた。一応、年上のメンツだってあるのだし。
「いくら僕が今、キミと同性だとしても! し、し、下着を勝手に見るのはやっぱりどうかと思うよ!」
それは極めて真っ当なツッコミだったが、変態さんはなにひとつ顔色を変えずしれっと言葉を返してきた。
「それは一理あります。ですが、あんなのわざわざ凝視せずとも見えた物。フリー素材ばりに大っぴらに開かれた物を視界に入れただけで一方的に怒られる。それはもはやひとつの理不尽だと思いませんか?」
「そ、そう言われると確かに、白ちゃんが捲ったわけではないし、僕の不注意もあった、けど……?」
「むしろ男に覗かれる前で良かったまでありませんか? ほら、これで以降は気を付けることができますし」
「まぁ、言われてみれば、男に見られてた方がまずかった……まずかった?」
「いえす。つまりこの場合は喧嘩両成敗ということで、お互いこれを教訓にして穏便に収めるのはいかがでしょうか。私はパンツを覗かない。あなたはスカートに気を付ける。ほら、これで丸く収まりました」
「そうかな、そうかも……そんな気がしてきた……うん、そうだね! これからはお互い気を付けよう!」
「ちょろいですね」
「え? なんか言った?」
「いいえべつに? それよりも私、用事があったんですよ。だからあなたを探してました」
「用事? 僕に?」
白の言葉に、歩は(丸め込まれたことに気づかないまま)首を傾げて彼女を見上げる。すると彼女は言った。先ほどまでと同じ淡々とした声音で、あまりにも気軽な調子で。
「私と、おつきあいしませんか?」
歩はその言葉に目を丸くした。おつきあい。お突き合い? お着き合い? いやお付き合い……?
「それは、もしや、男女でカップルするアレでしょうか……?」
「精神準拠で言うならいえすいえす。しかし肉体に準ずる場合はいわゆる同性愛、レズ、あるいは百合というやつに該当します。で、どうですか?」
白は前髪に目元が覆い隠されたその顔で、表情の全く読めないその顔で平然と言ってのけた。それがあまりにも平然としていたもんだから、
「って言ってもなぁ。僕とキミとの付き合いってぶっちゃけただのご近所さんなわけで、だから当然キミのこともよく知らないし……」
歩も当たり前のように受け答えを――
「ってちょっと待って! え!? 白ちゃんそういう趣味あったの!?」
やっと気づいてびっくらこいた。そんな歩に対して、白はあくまでも平然と。
「私、あまり男女に頓着しない性質なので。まぁ見た目や触り心地だけで言えば女子優勢ですが6:4……いや8:2ぐらいで」
「え、え~~~? それってほとんど女の子好きなんじゃ……」
「ごついよりやわい方がいいってだけですよ。中身が男の子であれ男の娘であれ、それはそれの心意気で」
「それ女の子好きとなにが違うのぉ? てか今おんなじこと2回言わなかった?」
「ご想像にお任せします」
(変人だ。言ってること半分くらい分からないけど、やっぱこの子は変人だ!)
変人の言葉にはまともに取り合ってもしょうがないと、歩は白の嗜好について悩むのを止めた。それにもうひとつ、気になることもあったのだ。
「そもそものことを聞くけどさ、なんで僕なの? さっきも言ったけど……僕はあまりキミのことを知らないし、キミもあまり僕のこと――」
「それなりに知ってますよ? 外見はやや幼めという程度しか特徴がなくて、なんかぱっとしない近所のお兄、もといお姉さん。聞いた話だと学力や運動もおよそ平均的。卓球部に所属するも特に大会出場したとか言う話も全くなく……」
「なんかボロクソじゃない?」
「あと最近彼女にフラれた」
「なんでそこまで知ってんの!?」
「いや、知りませんでしたよ。ただあなたが前に浮かれまくって自慢して写真まで見せてくれた彼女がちょっと前に別の男といちゃついてたのを商店街で見かけたので。しかも一般的に見てあなたよりかっこいいし。そんでさっき項垂れていたあなたを見ておよそ確信したのですが、やはり当たっていたようですねご愁傷様。原因はその体のせいですか? お、表情が険しくなった。ビンゴですね」
「う、う、う~~~そんだけ言うくせに、どうして告白なんてしてきたのさぁ!」
年下の女の子にボロクソ言われて、しかもどれも本当なもんだから死ぬほどへこみつつ、しかし歩は気力を振り絞って叫ぶように問いを投げた。すると白は素直に答えてくれた。
「あなたが『反転病』に罹ったから」
「っ!」
白の口にした単語に、歩は息を飲んだ。なにせそれは……歩を一連の不幸に陥れた諸悪の根源だったから。
だがどうやらそれは白にとって、興味の対象だったらしい。
「近所のお兄さんがお姉さんになって戻ってきた。興味を持つには十分じゃないですか?」