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18話 口と口。おでことおでこ

「つまらなかったでしょう?」


 まるでこの小説に"相応しい"、淡々とした声が聞こえた。

 ぴくりっ、と思わず肩を肩を震わせてしまう。


(どうしよう。なにを言えばいいんだろう)


 迷いながらも、白の方をとりあえず向いた。彼女の様子は小説を読む前となにひとつ変わっていない。むしろ読ませる直前にはあったはずの緊張が、今の白からは消えている。つまるところ、それはいつも通りの白で。


(いつも通り……そのはずなのに)


 胸の鼓動がどくりどくりと高鳴っていた。だがそれは恋のトキメキではない。むしろ真逆。ある種の恐れから来ていることを、歩は自覚していた。

 そして白もまたそれを見抜いていた……のかもしれない。彼女は歩の膝の上へと手を伸ばして、ノートPCを折りたたみながら。


「本当に、分かりやすい人」


 その小さな口で笑っていた。淡泊で、弱々しくて、今にもかき消えそうな微笑みだった。


「いいですよ。私がつまらない人間であることは私が一番知ってますから」


 さも当然のように言いつつノートPCをベッドの端に置く。それから歩に向き直った。

 だが今の歩には、白と向き合うことはできなかった。


「そんな、こと……」


 白はいつだって嘘を付かず、ありのままを淡々と述べていく。

 そんな白がかっこいいって思っていたはずなのに。

 今だって、白はなにも変わっていないはずなのに!

 歩が得体の知れない不安に揺れる一方で。


「…………」


 白はなにも語らない。前髪の隙間から、歩が一目惚れしたその瞳でただ真っ直ぐに歩を見つめてくるだけだった。


「っ……!」


 普段なら何秒何分何時間でも見つめ返せるはずなのに、このときばかりは目を逸らさざるをえなかった。

 すると必然的に白の部屋が目に入った。

 とても目立つ本棚がある。

 簡素な箪笥がある。

 勉強机がある。

 テレビがある。

 クローゼットがある。

 必要な物は揃っている。必要な物しか揃っていない。

 地面に目を落とす。フローリングの床にはカーペットが敷かれている。柄の無い、灰色だった。


(この部屋、こんなに寂しかった?)


 違う。世界は、白の世界はなにひとつ変わっていない。ならば"反転"したのは一体なんだ――


 急に視界が、揺れた。

 

「え?」


 地から空へと、目に映る景色が反転した。


「え?」


 空に広がっていたのは無機質な天井。一瞬の間をおいて、自分がベッドの上で倒れていることを歩は理解した。

 ショックによる立ち眩み? 違うことにはすぐ気づいた。なぜなら肩に感触があったからだ。自分をベッドに押し付ける手の感触。

 つまり自分は押し倒されている。ならば押し倒してきたのは? 当然、ひとりしかいない。


(え! え!? え!!??)


 歩はその推測を受け止められきれないが、しかし事実は容赦ない。ほどなくして、歩の視界ににゅわっと白の顔が現れて。


「っ!」


 歩は思わず息を飲んだ。己を"見下ろす"白を見て息を飲んだ。

 だってそこに白の顔があったから。だってそこに、隔てる前髪が無かったから。

 白の長い前髪は、すでに重力に従って垂れ下がっていたのだ。ゆえに彼女はその顔の全てを露わにしていた。

 その大人びた顔つきも、ミステリアスな小さい口も、それに……歩の惚れた瞳までも。

 茶色の瞳は爛々と輝いている。揺るぎなく、力強く、ただ真っ直ぐに歩を映している。


(やっぱ、白は白だ)


 歩の心臓がどくりどくりと音を立てる。恋のトキメキ。急速に早まっていく鼓動が、白の小説を読んで冷え込んだ肉体へと熱を送り出していく。


(やっぱこの目が、瞳が好きなんだ)


 燃えるような夕日を連想させる明るい茶色。それが収まる双眼は大きく綺麗なアーモンド形。それだけでも存在感に満ち溢れているのに、くっきりとした二重まぶたと黒のまつ気がさらに輪郭を強調する。歩の心にその存在を知らしめる。


(どうしよう)


 内心で思わずそう呟いてしまった。

 押し倒されている自分の状況は理解している。どうにかしなければいけないはずなのに……体がその気を起こさない。意思に反する無抵抗。あるいは意思に委ねた無抵抗。ゆえに歩は固まってしまう。

 そんな彼女の髪を白の指がそっと触れた。白は丸見えになっている目を優しげに細めて。


「この柔らかい髪が好き。毎日少しずつ伸びて、ふわふわと柔らかくなって……」


 まるで夢を見ているかのような、ぼんやりとした声音。それを聞いた瞬間、歩の脳内に原因不明の警告音が鳴り響く。


(ヤバい!)


 だが。


(今の白はなんかヤバ、い、でも手つきすごい優しい。気持ちいい……)


 髪を伸ばして、初めて知ったことがある。

 長い髪に櫛を入れるのは気持ちいい。長い髪を、好きな人に触ってもらうのはもっと気持ちがいい……警告音はすでに止まっていた。

 撫でられる。気持ちいい。撫でられる。気持ちいい。撫でられ……ない。

 白がやがて髪から手を離したことで、歩の脳もようやく再起動した。この状況をなんとかしなければいけない。だからとりあえず口を開き――


「ひぁ!?」


 現実に漏れ出たのは嬌声たったひとつだけ。脳を震わす快楽に、言葉をすり替えられていた。


(なに今の、誰の声? 僕の声!?)


 動揺している間にも快楽が来る。何度も来る。


「ひ、い、やだ」


 顔が熱くなる。声が止まらない。反射的に両手で口を抑えながら歩は考える。


「ふっ、んっ」


 何度も来る。どこから来る? 

 ――やっと気づいた。発生源は自分の胸だった。歩は胸をまさぐられているのを理解した。白がまさぐっているのを理解した。


(ヤバい。ヤバい! ヤバいって!!)


 自らの状況を自覚した途端、顔どころか体のそこかしこから得体の知れない熱が沸きだし溢れてくる。喉だけが、なにかを欲するように渇いていた。


(知らない、こんな感覚知らない)

「歩さん」


 呼びかけられたときには、もう胸をまさぐられる感触はどこにもなかった。だけど……火照りと乾きはこれっぽっちも収まらない。


「顔を見せて」


 白に短く命じられる。とても恥ずかしいのに、なぜか逆らう気が起きなかった。

 歩は羞恥で瞳が潤むのを自覚しながらも、おそるおそる両手を口から外して白と向き合って。


「あ……」


 白の瞳がかつてないほどに輝いている。そんな気がして、だから目を逸らせなくなった。

 歩がじっと見つめる中で、やがて白の唇が言葉を紡いだ。それはたった二文字の。


「キス」


「ぇ……?」

「ずっとしたかったんでしょう? 口と口で」

「っ……!」


 喉が渇いている。心が飢えている。

 歩の疼きに答えるように、その顎は白の手によってそっと支えられた。歩は抵抗しなかった。


「あなたが望んだことです」

(そうだ。僕はずっと望んでいたんだ)


 ――これは遊びなんだから、口だけは駄目です


 それはふたりにとって、ひとつの区切り。遊びと本気の境界線。


「私も今、望んでいます。だから――」

(やっとできるんだ。やっと、白と)


 歩はそっとまぶたを閉じた。暗い視界の中で、残像として焼き付いた白の瞳を見つめながら、歩は全てを白に委ねる。

 後はこのまま待っていればいいんだ。そうすれば――


「歩さん」


 暗闇に、声が響く。


「恋を、教えてください」


 次の瞬間、視界には白が映っていた。

 白は呆然と目を見開いていた。彼女の唇は……誰かの人差し指によって、押さえられている。

 歩はすぐに気づいた。白を押さえるその指は、自分自身の指だった。


(僕、なんで、こんなこと)


 自らの行動に思考が追い付かないまま、口が勝手に白へと問いかける。


「キミはまだ、恋をしてないの?」

(そうだ。知らなきゃいけないんだ)


 己の発した言葉にようやく思考が追い付いた。


 ――これは”遊び”なんですから、口は駄目です


(だって白がそう言ったんだ。だから)


 腹の中でなにかがぐるぐる回っている。得体の知れない感情に急かされるまま再び問いただした。


「キミが恋をしているって僕に教えて。僕のどこに恋をしたのか、教えてよ」


 その言葉を聞いた瞬間、白は弾かれるように飛び退いた。


「白っ」


 歩が追いかけて上半身を起こすと、白は歩の足に跨る形でそこに座っていた。歩に顔を向けているが、その瞳はもう前髪によって覆い隠されていた。


「やっぱり流されませんでしたね」


 その声音はいつもの、淡々とした調子だった。彼女はその声音のままで言葉を続ける。


「あなたのそういうところが好きですよ」

「!」

「ひとりの人間としてあなたはとても好ましい。それは本当です」


 それは好意を伝えるにはどうにも回りくどい言い方で。


「だから試したかった。あなたとなら、こういう雰囲気に流されれば恋愛感情というものも生まれうるのではないのかと」


 その言葉に歩は理解した。自分の想いが白に届いたことと、まだ届いていないことを。

 心臓がきゅっと締まる。その苦しみから、思わず表情を歪めてしまう。


「っ……」


 しかしその直後、白が頭を下げてきた。


「ごめんなさい、自分本位が過ぎました。このような試す真似は二度としません。だから、あなたが許してくれるなら……」


 その声音は相変わらず淡々としているが、しかしいつもよりもわずかに低く弱気であった。その差が歩に感じさせた。白が本当に申し訳なく思っていることを。だから、咄嗟に正直な気持ちを口にした。


「いいよ! 白は白のしたいようにやればいい。だって僕は、そんなキミが好きなんだから」

「……良かった」


 それは心の底から安堵したような呟きだった。その声音も、その口元が緩んだのも。


(信じて、いいんだよね)


 歩が心の中だけでそう呟いたそのとき、白の手がそっと伸びてきた。その手は歩の前髪を払い、その額を露わにしてきた。不意の行動に歩が驚く。


「白?」

「動かないで」


 白もまた、自身の長い前髪をもう片方の手で掬い上げて額を、そして目を露わにしてきた。アーモンド形の輪郭。明るい茶色の瞳。

 歩が鼓動をどきりと高鳴らせた次の瞬間――


 こつん。小さな音が鳴った。

 

 気づけばふたりの額と額はもうくっついていた。瞳と瞳がわずか指二本分の距離で向かい合うその距離で、白が囁くように言った。


「キスの代わりです」

「!」


 胸の鼓動が一際大きく高鳴った。応えるように、白が話を続ける。


「たとえ遊びでも私が初めて付き合った人。デートしたのも、こんなに触れ合ったのも、部屋に上げたのも、小説を見せたのも……なにもかもが初めてだった。あなたのおかげで私の毎日が色鮮やかになった。あなたを選んで良かった。それだけは本当に本当だから」


 それは力強い言葉だった。それ以上に瞳が力強く訴えてきた。これは、これは。


(これは白の本心なんだ、きっと。だったら僕は白の中で特別になれたの?)


 少し前とは違う意味で、胸がきゅうと締まって苦しくなった。

 だって嬉しくて、嬉しくて。ちゃんと前に進んでいるという実感がどうしようもなく嬉しくて、それでも……悔しくて。これが口と口じゃないっていうのがやっぱり悔しくて――。


「そーいえば、父がどっかから妙に高い茶菓子を貰ってきたんでした」


 気づけば、目の前には誰もいなかった。

 考えるよりも先に白を探して首を動かす……居た。白はすでにベッドから降りていた。彼女はもう歩に背を向けていた。歩に顔を見せることなく、一言だけその場に残して。


「さっきのお詫びがてら持ってきますから、ちょっと待っててください」


 白の背中が遠ざかっていく。


「あ……」


 歩は思わず手を伸ばしたがそれが白に届くことはなかった。

 白が部屋を出て、扉を閉めて、そうして歩は取り残された。


◇■◇


 トントントン。

 階段を降りていく。

 1階の廊下を渡った。

 リビングに続くドアを開けた。

 リビングに入った。

 それからドアを閉めて、ひとりぼっち……ガクンッ!

 膝から勝手に力が抜けた。思わずその場にへたりこんだ。両手を髪に差し込んで頭を抱えると、言葉が喉から勝手に出てきた。


「違う」

 

 白は、否定した。

 

「違う。私はまだ恋をしていない」

 

 白は自分を否定していた。

 

「違う。この気持ちは、恋じゃない」


 たったひとつの大事な物を肯定したがっていた。

 

 ――二匹の猫は、二匹の絆は綺麗だった。まるでお互い以外が見えていないように彼らは振る舞う。二匹で起きて、二匹でじゃれ合い、二匹で寄り添って眠る。毎日、毎日、それを眺め続けていた。揺るぎない絆がただただ綺麗だった。私の中で、いつまでも変わらない光景……。


「違う……!」


 白は心臓の上、茶色のニットに手のひらを当てた。黒いコートから見える明るい茶色。歩が選んでくれた衣装。白はそれを……ぎゅっと握った。まるで自らの心臓を握りつぶすように、ありったけの力を込めて。


「私が知りたかったのは、こんなものじゃない……!」


◇■◇


「つっかれたぁ~」


 ひとりきりになった途端、歩の体がベッドの上にぽてっと倒れた。


(なんだろう。この数十分で色々あり過ぎた気がする……)


 白の家にお邪魔した。白の部屋に入れてもらえた。小説を読ませてもらった。押し倒された。謝られた。おでここつんもされた。色んな白を短時間で見せつけられた。

 きっとどれも本物の白なのだろう。だって白は嘘をつかないから。でも、その一方で。


(きっとまだ遠いんだ)


 白の小説を思い出す。歪なまでに心を遠ざけるあの小説が、今の白とダブっていた。

 白が遠い。不安が勝手に両腕を動かしていた。ベッドに乗っていた枕を、気づけば引き寄せ抱きしめていた。顔をうずめると白の匂いがした。もっと、白に近づきたい。さらに深く顔をうずめる。


「恋を教えて、か……」


 歩はそれを『白が惚れるくらい魅力的な人間になること』あるいは『白ともっと親密になること』と解釈していた。だが白は歩を人として好ましいと言いつつも、恋愛感情は抱けないと拒絶してもいる。


(なにかが足りない。僕は白の全部をまだ知らない。知りたい、キミのことをもっと知りたいよ。知りたい、知りたい、知りたい……)

「……そうか! 知りたいんなら!」


 歩は閃き、がばりと起き上がった。

 早い話が知りたいのなら見ればいいのだ。それこそ白がなんでも観察していたように。

 だから歩はすぐ立ち上がって部屋の中心に立った。ここは白の部屋だ。そうだ、白のことを知るにはうってつけ……と思いながら見回してみたが。


「……さっぱり分からない」


 でかい本棚がある以外には、質素過ぎるほど質素な部屋。どことなく歪に見えるが、あるいは単に本好きなだけかもしれない。

 歩には白ほどの洞察力も考察力もない。この部屋だけじゃさっぱり情報が読み取れない――


「!」


 歩の視点が不意にある一点へと注がれる。そこは勉強机の上……正確には、その上に置かれた一枚のチラシだった。

 大事な予定だから机の上に置いてあるようにも、あるいはどーでもいいから無造作に放っておかれたようにも見えるが、いずれにせよ見ない理由はない。だから歩は手に取った。


 寿々黒斗水彩画展。チラシの一番上にはそんな見出しがでかでかと描かれていた。


「寿々、黒斗……って、まさか」


 上から下へと急いで視線を動かしていく。開催時期は迫る1週間後。開催場所も描かれていた。

 アトリエ寿々。

 その名前はどこかで聞いた、もなにもない。なにせこの家の隣に建っているわけで。

 視線の動きがさらに加速して、しかしすぐに止まった。やたらとポップな書体でこう書かれていたからだ。


『14時からサイン会もあるよ! みんな来てネ!』


 隣にそっと添えられた、ディフォルメされたおっさん(お兄さん?)の絵が若干謎だが、しかしツッコミを入れている場合ではない。なぜならこのチラシの全貌を、その価値を理解したから。


「白のお父さんに、会える……?」


 白をもっと知りたい。チラシを握る手に、自然と力がこもった。

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