17話 真っ黒で、真っ白な。
白は着せ替えられた服装のまま、歩と一緒に店を出た。
冬の曇天と冷たい風のせいなのか、商店街を行きかう人の数は少なく雰囲気そのものが寂しげだ。だが歩だけはとってもホットだった。そんでもって、白もその温もりを文字通り感じていた。
なにせ白は、歩にがっつりと抱き着かれているのだから。
白の右腕に歩の両腕が絡まっている。全身で抱き着いて、全体重を白に預けて甘えてきている。彼女の重みを、その体を感じることができるのは。
(悪くない)
そして彼女が全身で抱き着いてきているというのはつまるところ、彼女の決して小さくない胸が自らの右腕にぎゅっと押し付けられるということであって……
(悪くない。むしろ良い……なんて思ってしまうから)
どうにも胃の辺りがムカムカしっぱなしだった。まるで暴飲暴食から一晩明けたときのような胃もたれを抱えて、そのせいで喋る気にもなれずただ無言で歩き続ける。すると不意に隣から声が上がった。
「ごめんね、いきなり」
「なにがですか」
(あ、まずい。怒ったような言い方になってしまった?)
実際強めの語調になってしまっていたが、白の心配はしかし杞憂であったらしい。歩はこれといって気にすることなく話を続けた。
「服、結局キミがお金出しちゃって……」
そう。白は歩が選んだ服を自分で買ったのだ。最初は「バイト代が出たから」と、歩が奢ろうとしていたのだが……白はそれを、断固として断ったのだ。それは白なりの"意地"だったのだが、歩は歩でまだ納得できていなかったらしい。
「やっぱ奢らせてよ。僕が選んだものだし。てゆーかキミ、そもそも中学生だしお金もそんな……」
「春に花屋でクッキー買ったの覚えてます?」
「え?」
だが白には意地を張らなければならない理由があった。意地を張りたい理由もあった。
「私が勝手に買って押し付けたのに、あなたは律義にお金を返してくれましたね」
「クッキーは覚えてるけど……キミ、そんな一方的に押し付けてきたっけ?」
「そうですよ。それにあの日の服代もあなた、自分で払ってたじゃないですか」
「そりゃ僕の服だし……」
「じゃあ私の服に私がお金出すのも当たり前ですね」
「う……いやでもキミ中学生だしバイトもできない」
「してますよ? バイト」
白はしれっとそう言って、歩は当然驚いた。
「え!? でも中学生ってバイトとか駄目じゃ……」
「言葉を変えれば家の手伝い。貰ってるのはお小遣いですね。父が絵画教室を開いているんで、その手伝いで小銭稼ぎをしてるんです。最近は事情もあって、その手伝いも余計に忙しいし……」
「はー、なるほど。だから中々予定が合わなかったんだ……でも偉いねぇ。まだ中学生なのに親孝行なんて」
「中学生で時間があるからできるんですよ。それに親孝行じゃなくてバイトです」
「なんでまた言い直したのさ。変なとこにこだわるね」
そう言いながら歩はクスクスと笑う。彼女にしてはちょっとだけ珍しい、からかうような笑い方。ちょっ
とだけ珍しくて、だから心が浮足立つ。そんな白の内心も知らずに、歩はまた語り始める。
「まぁ僕もバイトで忙しかったからお互い様だけど。だから今日は会えて嬉しいし……」
白はそのとき、重みを感じた。自身の体に、歩がより深く体重を預けてきた重み。そして、
「もっとかっこよくなったキミを見れたから」
白の右手。その五指にちょんと触れる物があった。見なくても分かる。
歩の左手の五指。すぐに、己の五指の間に潜り込んでくる。するすると、肌と肌が触れ合う。やがて五指と五指の付け根がくっつき。
「もっともっと嬉しい」
きゅっと、握られた。
「っ!」
白の瞳が大きく開く。夜空のような前髪の奥で。
白の瞳がすぅっと細くなる。前髪の奥で、誰にも知られないままに。
やがて白の口が動いた。
「私がかっこいいと嬉しいんですか?」
その問いに、歩は迷いなく答える。
「うん。だって、かっこいい白が大好きだから――」
次の瞬間、白は歩を抱き寄せていた。
「え?」
歩が驚く一方で、白の黒目がくるりと動いてほんの一瞬辺りを見回す。
(運が良い)
周囲には誰もいなかった。
だから歩の耳元に顔を近づけて、そっと囁いて。
「ほんと、可愛い人」
「なに言って、ひぁ!?」
事はもう済んでいた。白は歩に……噛みついていたのだ。
シミひとつないその首に。肌を傷つけない甘噛みで。
「!?!?」
歩は、あっという間に白から飛び退いた。噛まれた部分を反射的に手で隠し、それから辺りを慌てて見回す。そんな彼女に向けて、白はいつもの淡々とした口調で言った。
「大丈夫ですよ。誰も通ってませんから」
「そういう問題じゃないって! な、なに。ど、どうしたの急に」
歩の問いに白が答えることはなかった。代わりに手を伸ばしていた。自身が噛んだ歩の首元へ。その噛み跡を隠す、歩の手へと。
「手をどけて、よく見せてください」
「え、ちょっとまっ……!」
否応なしに歩の手を引きはがして。
「……大丈夫」
そっと、落胆した。
「この程度じゃ、跡は付きませんよ」
歩の首元は綺麗なままだった。
(たかだか1か月ぶりの歩さん。1か月ぶりでしかない感触。たった1か月ぶりの声。足りない。全然足りない)
胃の中がぐるぐるしている。気持ち悪いのか、それとも高揚のし過ぎなのか。自分でも分からなくて、だけどもう考えるのが面倒だった。
だが知らない。歩は白の"中身"を知らない。
「傷になってないならいいけど、白ってばああいうことするならちゃんと言ってよ……」
そう言いながらも、満更でもないようなことを言うから。
(あなたがなんでも受け入れてくれるから)
いつの間にか、ブレーキがイカれていた。
「ちゃんと言えばいいんですか?」
「え? まぁ時と場合は選んでほしいけど……」
「じゃあ選びます。今から、ウチに来てください」
「………………………………………………」
歩はまだ、白を知らない。
「……………………ぅぇえええええ!!!???」
◇■◇
――心の準備をしなければいけない。歩は硬く決意した。
(でも心の準備ってなにを準備するの!?)
決意をなにひとつ行動に変えられないまま、歩はついに白の自宅へと到着してしまった。目の前にそびえたつ白の家は、ふたつの一軒家から成り立っている。その片方には看板が掲げられていた。
アトリエ・寿々。
それは白の父親が所有しているという工房だ。歩もご近所さんなので噂には耳にするが、白の父親はそこで週数回の絵画教室を開いている他、彼個人の個展なんかもたまに開催しているらしい。
だが今日の目的はそちらではない。アトリエの隣に立つ方。寿々家、その真なる自宅である。
白に先導されて、歩はおそるおそるその玄関をくぐった。
「お、お邪魔します……」
「挨拶はいいですよ。今は父も母も家にいませんし」
「ふ、ふたりきり……!」
歩はその事実に戦慄しながらも、なんだかんだで白の自宅には興味津々。2階にある白の自室に案内される道すがら、家の内装をきょろきょろと観察したのだが。
「なんか、普通に綺麗だ……」
「なんだと思ってたんですか」
「いや、芸術家さんの家だからなんかもっと混沌としてるのかと……」
「そういうのが見たいならアトリエの方に行ってください。ま、父だけならともかく母がしっかりしてるんで案外どーにかなってます」
「へー。じゃあ白ってお母さん似?」
「よくそう言われますね」
他愛ない会話をしているうちに、少しは気が楽になってきた。そうやって心を落ち着かせた辺りで、
「ここが私の部屋です」
白がとある一室のドアを開けた。当たり前といえば当たり前だが、白は躊躇いなく部屋へと入っていく。
そしてその後ろで。
「ごくり……」
歩は息を飲んだ。目の前にある。恋人の部屋がある。いいの? 入っていいの? むしろ誘われたのなら、やらいでか!
決意を固めて、ついに部屋へと踏み込んで。そしたら世界が広がった。
「わっ……!」
一目で分かった。そこは確かに、白の部屋だった。
ベッドがある。勉強机がある。テレビがある。箪笥がある。そのどれもがシンプルisベストな代物だった。極めて飾り気の少ない部屋の中で……しかしたったひとつだけ異物が混じっていた。扉を開けて真正面。部屋の最奥に、それは鎮座している。天井まで届かんばかりの巨躯を持つその正体は。
「すごい……本棚が超でかい!」
それは真っ黒な本棚だった。巨躯を支える頑強な木組み。深く渋い漆塗り。そして所々にさりげなく施された木彫りの意匠。この部屋の王と呼ぶに相応しい、立派な本棚だった。
その中には小説から漫画から図鑑まで本の種別もジャンルも問わず、なおかつ整理整頓は欠かされることなく詰め込まれている。そんな本棚へと白が近づきながら言った。
「ちなみに二列式です」
白が本棚の真ん中に手をかけて両側に開いた。するとまるで引き戸でも開くかのように本棚が真っ二つに割れて、後ろから新たな本棚が堂々登場。歩が興奮に声を上げた。
「うおー!」
(なんてかっこいいギミック! さすが白の部屋!)
などと白への尊敬の念を一層募らせて、
「ていうか白の部屋じゃん!」
それから自分の置かれている立場を思い出した。白の部屋。そうだここは彼女の部屋だ。
「えっと、し、し、し、し、し、白さん」
「緊張しすぎですよ。べつに取って食うわけじゃ……あっ」
「あっ!?」
「いえ、まぁそれは置いといて」
「置いちゃうの!?」
「置きます。それよりも……あなたに見て欲しいものがあるんです。実は、そのために呼んだんです」
「見て欲しい物……?」
話の風向きがいきなり変わった。
きょとんとする歩を置き去りにして、白は部屋の一角にある勉強机へと歩いていった。それから勉強机の上に置かれている一台のノートPCを手に取って、今度はベッドまで行ってその上に座る。最後に自身の隣をぽんぽんと手で叩き、歩に向かって言った。
「ここに座ってください」
ベッドの上。彼女の隣。
思わず身を固くしながらも、歩は指示に従っておそるおそる腰を下ろした。白はそれを確認してから、自らの膝の上でノートPCを開いて起動した。
それから白が行ったことは、そう多くない。
パソコン内蔵のタッチパッドを使ってカーソルを操作。テキストソフトを起動して、それからひとつのファイルを開く。たったそれだけで文字が、単語が、文章が、物語が画面いっぱいに広がった。
白が呼び出したのは、ひとつの小説だった。
「これ、は……?」
歩はそう口にしながら、隣に座る白へと顔を向けた。だから歩にはそれが見えた。
白がごくりと、喉を鳴らしたその瞬間が。
(白、もしかして緊張しているの?)
そんな白の姿は初めて見た。歩にとって白はいつだって正直で、自由で、揺るがなくて、誰よりもかっこいい恋人だから。正直、緊張なんて無縁だと思っていたのだが……。
(白でも緊張することってあるんだ)
そんなことを考えている間も、白はなにかに迷っているかのように押し黙ったままだ。それが歩にとっては不思議だった一方、そんな白の姿にひとつの期待も感じていた。
(この小説がもし、白にとってそこまで大事な物なら……もっと白に近づける。いや、むしろ白に近づけたって証かも――)
「これは、私が描いた小説なんです」
不意に、白の言葉が耳に届いた。
「……へ?」
雑念に思考を割いていたせいで歩の反応がワンテンポ遅れる。彼女は白の発言、その意味をすぐには飲み込めなかった。
白。描いた。小説。上手く消化できない単語を頭の中でぐるぐる回しながら、歩はなんとか問いかける。
「白。小説なんて描いてたの……?」
白は言葉ではなく、こくりと小さな頷きを返した。その所作がいつもの白よりも露骨に控えめで、だからこそ真実味があって……歩の中でむくむくと、好奇心が首をもたげてきた。
白が小説を描いている。
その事実はすんなり納得できるようで、しかしとても奇妙なことに思えて、つまりとにかく"そそる"ことだった。
(読みたい。すごく読んでみたい。お願いしてもいいのかな)
歩が迷っている間にも、白は話を進めていく……まるで自分が後ろめたいことでも言っているかのように、その顔を伏せながら。
「それは私の描いたもので一番新しい小説です。あなたと出会う直前に描いたもの。今までは自分ひとりで、どこに公開することもなく描いてきたんですが……」
白はそこで面を上げた。歩と顔を向き合わせて、そして視線も交わらせて。前髪の隙間から、茶色の瞳で真っ直ぐに歩を見つめて。
「これを歩さんに読んで欲しいんです。私の、初めての読者になってほしいんです」
ノートPCを歩に差し出した。その瞬間、歩は自らの体がぶるりと震えるのを感じた。
確信したのだ。このノートPCには、白の想いが詰まっているのだと。
「僕が、初めて……」
目の前にある、この世のなによりも重いそのノートPCを……歩は躊躇なく両手でしっかり受け取って宣言した。
「分かったよ! 頑張る!」
「だから、読むのは頑張らなくていいんですってば」
白がくすりと笑う。その微笑みは歩をからかうときのそれよりも随分と弱々しい物だった。
だが歩の目にはもうノートPCしか映っていない。膝の上に置き、胸いっぱいの期待と共に白の小説を読み始めた。
(白の描く小説ってどんなんだろう)
小説を読み進めながら、白のことを思い返していく。
独特な感性を持っている。
芸術家夫婦の娘でもある。
色んなことをよく見ていて、本だってたくさん読んでいるのだ。
(絶対にすごいはずだ。躍動感とか、独創性とか、僕なんかには想像のつかないほどのどんでん返しとか……)
ワクワクしながら読み進めていく。
読み進めていく。
読み進めて。
(あれ……?)
そのうちに、自然と眉根が寄っていった。
なにかがおかしい。強烈な違和感を感じる。
なにがおかしい? 設定に不備がある?
ジャンルは恋愛。舞台は学校。主役は心に傷を負った男女ふたりで、物語の内容は彼らの心の交流や再起を描く物だ。
平凡過ぎる? シンプル過ぎる? あるいはそれも一因かもしれない。
だが世の中、学園だろうと恋愛だろうと面白く独創的な物を描く人はきっとごまんといる。だったらなんだ。これはなんだ。
(なんだろう。なんでこんなに響かないんだろう)
起伏がある。理屈もある。どんでん返しもしっかりしてる。それなのに、読み進めるほどに違和感が激しくなっていく……。
やがて最後まで読み終えて、歩はようやく気づいた。
(なんか、すごい遠いんだ)
心の交流を描く恋愛物。この小説はお題目に反して、心情描写が"欠落している"と言ってしまえるほどに少ないのだ。
妙に淡泊で無機質な登場人物たち。特に主役がふたりの行動がどうにも合理的過ぎる。心の傷という設定がどこか置き去りにされている。そんな気がしてならないのだ。
この小説は矛盾している。心を描く小説なのに、心からあまりにも遠い文体。それは歩の、素人の目から見てもあまりに歪な小説で――
「つまらなかったでしょう?」
まるでこの小説に"相応しい"、淡々とした声が聞こえた。




