16話 気持ち悪くて、吐きそうだ
薄暗い雲が空を覆っている。冷たい風が人々の肌を厳しく打ち付けている。
夏が終わり、秋が過ぎて、ついに季節は冬に差し掛かっていた。寒さと風から身を守るための厚着が欠かせないはずの季節に、
「さむっ……!」
しかし歩は、己の脚を冷たい風に晒していた。
一応は黒のタイツがぴっちりとその細い脚を覆っているが、しかしそれ以外に脚を守る物はなにひとつない。なにせ履いているのが膝丈ほどもないミニスカートなのだ。
しかし上着にはセーターを羽織っているため、冬の寒さを理解しているのは明瞭だ。だったらなんでわざわざミニスカートを? そんなもの決まっている。恋する乙女にとって、答えはたったひとつだけ。
「寒いけど、白とのデートだもんね……1か月ぶりの。頑張んなきゃ」
彼女はそう呟いてから一歩二歩と踏み出して、ついに"外"へ出た。するとその背で自動ドアが静かに閉まる。歩の背には、一軒の酒屋が立っていた。
そこは慧に紹介してもらった歩のバイト先でもあった。そして歩はたった今、今日のバイトを終えたところだった。
このあとはすぐに白とのデートだ。待ち合わせ場所は日登商店街。待ち合わせの時間には十分間に合うが、それでも勝手に足は逸る。わき目も降らずに歩き出して――
「久しぶりですね、歩さん」
愛おしいあの声が、聞こえた。
「……え?」
間抜けな声が出てしまった。思わず足を止めてしまった。考えるよりも先に、声のする方へと顔が向いた。
そこに彼女が立っていた。
着古したセーターにジーンズ。長い体躯に長い前髪。そして髪の隙間から覗く茶色の瞳。
歩の彼女、寿々白がそこに立っていた。1か月ぶりに見るその姿に、胸の鼓動が一気に早まる。
お互い予定が噛み合わず、ここしばらくは会う頻度がめっきり減ってしまったが……だからこそ、出会えたときは以前にも増して情熱が迸るのだ。
「白っ!」
無我夢中でそばに駆け寄って……それからやっと、気づいた。
「って、待ち合わせ場所ここじゃないよね。どうしたの!?」
すると白は、その小さな口で静かにほほ笑みながら言った。
「ちょっとしたサプライズってやつですよ。嫌でした? こういうの」
「全然! 全然!!」
むしろ嬉しい。超嬉しい。だって白が自分のためにわざわざ迎えに来てくれたのだ。自身の心に外付けされた、齢6か月の乙女心がきゅんきゅん疼くのを歩は感じた。
今すぐ白と手を繋いでどこかへと駆け出したい気分だ。というか駆け出していいのだ。なにせ今からデートなのだ。だから歩は、白の手をひったくろうと――
「よぉ白ちゃん! 何か月ぶりだっけ?」
胡散臭いハスキーボイスが、聞こえてきた。
歩は考えるよりも先にげんなりしながら声のした方、酒屋の正門へと目を向ける。すると先ほど自分がくぐった自動ドアからひとりの人物が出てきたのが見えた。
さっぱり爽やかなベリーショート。クールな印象が強い切れ長の瞳。線が細くも端正な顔立ち。そして白に負けず劣らず長い体躯。
裏野慧が、なんか勝手に寄ってきた。それに対して歩は反射的に一言。
「帰れ」
「まだバイト中だからなぁ」
「じゃあ店戻れよ久々のデートなんだから邪魔すんな! 久々じゃなくても邪魔すんな! 白、さっさと行こう!」
歩はそう言って白の方を見た、が。
「慧さん。なんで、ここに」
その声音は、まるであり得ない物を見たかのような驚きに満ちていた。それを聞いて、慧が訝しげな表情を白へと向けた。
「そりゃここでバイトしてるから、てか歩のバイトを紹介したの俺だし……ってなんだよ歩。お前言ってないのかよ」
「言うも何も、慧のバイト情報とか話題に出すだけ時間の無駄じゃない……? てゆーかいい加減に店戻れって。店番の自覚なさ過ぎ。まーた店長にどやされるぞ」
「ばっかお前、俺みたいなイケメンが外出るのだって宣伝の一環なんだよ。つーかさ……」
慧はそのとき、ほんの一瞬だけ白に視線を向けた。白の表情はいつも通りの不明瞭。確認したらすぐに歩へと視線を戻して、それから一言。
「お前こそ彼女の自覚なさ過ぎじゃねぇ? なぁ白ちゃん」
「……いえ。べつに」
白が短く淡々と言葉を返す。その一方で歩は首を傾げていた。慧の言葉の意味がさっぱり分からないからだ。
だがしかし、喧嘩を売られたことだけは分かった。売られた喧嘩は買わねばなるまい。そうと決めたら。
「彼女の自覚ならあるよ」
右の脚で一歩踏み込む。無論、慧に見せつけるために。
「ほら冬なのに生足!」
歩が見せつけたのは、黒のタイツに覆われた脚線美だった。
言ってもモデルのように長くはないが、しかし肉付きよく健康的な脚だった。タイツで引き締められることによって、太ももやふくらはぎに綺麗な曲線を作り出している。
だが見せつけられた慧は、微妙な表情でぼそりと呟いた。
「なんか、発想が男臭いんだよなお前……まぁいいや」
慧はすぐに気を取り直し、それから歩に向き直ってから答えを告げた。先ほどの自身の発言、その真意を。
「早い話がさ……白ちゃんにとって、俺は恋敵なんだよ」
「………………………………は?」
歩は言葉の意味が理解できなかった。
恋敵? 恋の敵? 誰が誰の敵? 慧が白の敵? それはあーだこーだでつまり…………やがて歩の表情に、悲しみが満ちた。そして表情に違わぬ声音を慧に向けて。
「いや、ごめん。慧は絶対そういう目で見れない。ごめん……だってほら、家族とかもそういう目で見れないじゃん……」
「俺がいつお前に惚れたっつってんだ己惚れんなばーーーーーか!」
「違うの!?」
「ちゃうわ! あくまでも白ちゃんから見た場合よ! あー、つまりだな。俺みたいなイケメンと交友関係があって、しかも恋人に内緒でバイトしてたとか、勘違いのひとつやふたつもして当然だろうにっつうことだよ」
「自称イケメンってお前の方が己惚れてるじゃんか……」
なに言ってんだこいつ。歩は咄嗟にそう思った。ちょっと考えてみる……なに言ってんだこいつ。やっぱり歩はそう思って。
「やっぱなんも分かってないの慧の方だよ」
「は? なんで……」
「だって白、嫉妬とかしないでしょ」
慧は、びっくりした。びっくりとしか言いようのない表情で、びっくりしていた。そんでもって、滅茶苦茶呆れた。
「そ、そう来たかぁ……はぁ」
溜息をひとつ吐いて、自分にしか聞こえないような小さな声でぼそりと呟く。
「しゃあない。もう一手ぐらい押しとくか」
「へ?」
慧の行動はいきなりだった。
慧は歩の肩に手を置くと、そのまま彼女の体をぐっと抱き寄せて"見せつけた"のだ。その先には立っている。白ひとりだけが立っている。その顔に表情はない。だが慧は構わず陽気に言った。
「ま、安心しなよ! 俺、いつでもフリーだし"異性の恋人"はいつでも募集中だし、歩にはこれっぽっちも興味ないから! そもそもこいつ、男の頃からこんなにちんちくりんだったし」
ちんちくりん。そう言いいながら歩の腰ぐらいの高さに手をかざす。当然、歩はぶちぎれた。
「なにいきなり!? 宣伝は酒だけにしなよ馬鹿! つーかマジ帰れ! 絶対店長に言いつけるかんな!」
「俺は店長とマブダチだからいいんだよ。てゆーかお前女になってからむしろ背は伸びたんじゃね? もっと早く伸びてりゃワンチャンなー。ま、俺の好みはもっとガタイ良くて頼りがいあるやつだし、お前じゃちょっと伸びたところで焼け石に水か」
「お前に好かれたいとは1mmも思わないけど、それはそれとしてクソ腹立つ……慧のノッポ! コミュお化け! 顔だけいいやつ!」
「おいおいそんな褒めんなよ、嬉しいじゃんか――」
「歩さん」
その呼び声は、妙にくっきりとしていた。
いつもと変わらない淡々とした声音のはずだが、しかし歩と慧の喧騒の中でも掻き消えず、ふたりの耳に届く声だった。思わずふたりが黙ってしまったその瞬間、白はいきなり歩の手を取った。
「そろそろ行きましょう。慧さんにも悪いですし」
やはり、いつもと変わらない声音だった。その所作だっていつもとなにひとつ変わらない。
だから歩はなにひとつ、気づかないまま。
「うん。じゃあね慧、サボるなよ」
「へいへい」
そうして言葉を交わし合った直後、
「わっ」
急に体が引っ張られた。引っ張られて引っ張られて……全然ペースが落ちない。歩の歩幅が全く考慮されてない歩き方だった。
「わ、わ、わ、ちょっと白、ペース落として」
「あ、すみません」
歩がお願いするやいなや、白はすぐにペースを落としてくれた。いつも通り、ふたりで並んで歩ける速度だ……が、ふと歩は気づいた。
(いつもよりも、強く握られてる?)
繋いだ手と手に視線を落とす。意識すれば白の体温を、鼓動を強く感じた。普段の白はもっと優しく手を握ってくるのだが、今は妙に力強い。それは明確な異変だった……はずだが。
(いつもよりしっかり握られてる。嬉しいなぁ)
この色ボケは色ボケなので、にへらと頬を緩めるだけだった。
いつもよりも強く白を感じられるなら悪いことなんてひとつもないのだ……と幸せに浸っていたら、不意にひとつの声が脳裏に響いた。
――彼女の自覚なさ過ぎじゃねぇ?
人を舐めくさったようなハスキーボイスだった。軽くイラッときて、眉根がきゅっと寄った。
(なんなんだよ、彼女の自覚がないって)
一度意識してしまえば小骨のように刺さって抜けないその言葉。しかし刺さるのは、自分もそれを自覚している証だ。
(確かにまだ"遊び"は取れてないし、足りないところだらけなのは否定できないけど)
胸の奥で焦燥感が疼いている。不安で足下が覚束なくなる……すぐにどっちも振り払った。まだ足りないのならやれることはいくらだってあるのだ。今日だって、そのために。
「ねぇ白。そういえば今日のデートでは、なにするか言ってなかったよね」
「そうですね。内緒だって言われてたのであえて聞きませんでしたが、どこか私の知らない場所にでも連れてってくれるんですか?」
「ううん。日登商店街やその近くで僕が知ってて白の知らないところなんてないと思うし……でもある意味では、白の知らないことを体験できると思うよ!」
「ある意味で? それは……興味深いですね。で、なにをするんですか?」
「ふふふ。それはね……?」
◇■◇
日登商店街の一角には、とある古着屋がある。
品揃え良し、店員良し、そしてなにより値段良しとあって特に近隣の学生に重宝されているその店の中で今日もまた、ひとりの少女が運命の服と巡り合う……と、いうよりも。
「はぁぁぁかぁっこいぃ~!」
「そう、ですか……」
強制的に巡り合わされていた。巡り合わされたのは白。巡り合わせてきたのは歩である。
奇声を発して感激している歩の前で、白はただ立ち尽くしていた。
そんな白の服装は、店に入る前とは大きく変わっている。『白』という名前に反して、今の彼女の服装は黒色を中心に纏まっていた。
腰まで伸びる黒のトレンチコートが高い背をピシっと立てて、足首まで覆う黒のズボンが長い足をはっきりと見せる。上下とも歩のチョイスであり、上下ともに白によく馴染んでいるが、しかし歩の拘りは外側の黒ではなく、その内側にこそあった。
ボタンを開け放ったトレンチコート。その間から見えるのはニット素材のインナーだったが……それだけは明るい茶色だった。
周囲の黒に反した配色。インナーだけがくっきりと目立つことまで含めて、歩の計算だった。
選んだ理由はただひとつ……それが白の瞳の色に似ていたからだ。要するにこの服は、歩にとっての白のイメージカラーなのである……なんて、歩自身は一言も言っていない。
だがしかし、白はそういう思考で間違いないと確信を抱いていた。歩が白の瞳に得体の知れない執着を持っていることは白当人も知っていたから。そして今の歩の熱視線が、白の瞳を見つめてくるときのそれとほぼ同じだから。
そんなわけで白は……とても微妙な心地であった。
「自分のイメージカラーを着るって、なんかえらい調子こいてるような……」
しかし歩の方はといえば。
「はぁ~やばい~強い~!」
などと語彙力を無にして、スマホで何度も白の写真を撮っている。その隣にはいつぞや歩を着せ替えた店員のお姉さんが立っていた。
彼女も歩が白を着せ替える時に協力していたのだが、
「うーむ、女の子にしとくのは惜しいくらい……ていうか女の子だったんだ……」
今はそんな感心をしながら白を見物している。しかし彼女はふと思い立ったように歩へと話しかけた。
「でもやっぱ、前髪がちょっとねぇ……いいの切らせなくて?」
歩はその言葉に、写真を撮る手を止めてから返事を返した。
「いいんです。だって……」
か細い声でそう言うと、歩は頬をぽっと赤らめた。その様子に、お姉さんが感心の声を上げる。
「うーん、若い! あなた、春にここ来たよりずっと可愛くなったわねぇ。やっぱ……」
ちらりと白を見て、それからもう一度歩を見て。
「恋のせい? ていうか本当にそういう関係なの? 女の子同士で?」
「ええ、まぁ……えへへ……」
「わぁ、ほわぁ……」
店員は歩の反応に目を輝かせると、今度は白の方に目を向けてきた。私は興味津々ですよと叫ぶような熱視線。根掘り葉掘り聞かれるのが好きじゃない白はその熱視線からすぐに目を逸らした。それから話題を変えるのも兼ねて、歩にひとつ尋ねた。
「歩さん。そもそもの問題として……なにゆえ私は着せ替えられたんでしょうか」
その瞬間、歩の表情が一気に変わった。みるみるうちににんまりと、顔中に笑みが広がっていく……それが臨界点に達したとき、彼女は堂々と断言した。
「僕は君の彼女で、君は僕の彼女だから!」
「……はい?」
白にはさっぱり意味が分からなかった。だが歩の声音も揺るがなかった。
「つまりさ、僕は今までキミに好きになってもらうために……あ、ちょっとごめんなさい。プライベート的な話なので、席外してもいいですか?」
歩がお姉さんにそう尋ねると、彼女は気を悪くするどころかむしろテンションを一段階上げて。
「あ、むしろ私が席外すから好きにしてて! その代わりじゃないけれど、今度ゆっくりお茶でもしましょう!」
「えっと。はい、またそのうち」
(なんかこの人、前よりも図太くなったな……)
数か月前の歩だったら、こういう話になった途端に真っ赤な顔して恥ずかしがっていそうなものだが。
白がそんなことを考えているうちに、店員が離れてふたりきりになった。それから歩は白に改めて向き直って話の続きを始める。
「えっと、それで続きなんだけど……僕はさ、キミに本気で好きになってもらう。そのために僕自身を磨くことばかり考えてたんだ」
それは白にも分かる。なにせ白の為の努力を一番間近で見続けたのは、他ならぬ白自身だったから。白はちゃんと覚えてる。そしてそんな歩の姿勢を、好ましいと思っていて。
「……それの何が悪いんですか?」
「悪いっていうよりも……それだけじゃ足りないんだ。だって一方的すぎるんだよ!」
「?」
「だから、ふたり一緒がいいんだよきっと」
「えーっと、ごめんなさい。ちょっと考えさせて」
白には歩がなにを言っているのか、一体全体分からない。だからまずは考える。
現状その1。ひとりじゃなくてふたりがいい。そう思ったから、歩は自分を着替えさせたらしい。
現状その2。その一方で歩もまた、今日みたいな寒い日でもミニスカートを履くほどオシャレに気合を入れている。
と、いうことは……?
「あー……もしかして、あなたが服装にこだわっているのと同じように私もこだわれ、と?」
(歩さんみたいな可愛い人の隣で並んで歩くのに不格好すぎる、というなら確かに一理あるかもしれない。けど……)
歩の性格を鑑みるに、なにか違う気がする……という白の直感は、どうやら当たっていたらしい。
実際、白の回答に対して歩は苦笑を浮かべていた。
「うーん。ああしろこうしろってわけじゃなくて……あのさ、白。キミって結構前に『その人の魅力が出る方がいい』って言ってたじゃん」
「言ってましたっけ……?」
「言ってたの! だから僕も白の魅力を僕なりに引き出してあげたかったんだ……多分これっておすそ分けなんだよ」
「……よく分からない、です」
「あはは。僕も言っててよく分かんなくなってきた……けど、変わっていくならふたり一緒の方がやっぱりいいんだ。ふたりで一緒にお洒落して、遊んで、色んなことも一緒にして、いっぱい思い出を作りたい……って、結局は僕のわがままだけど……そう思っちゃ、駄目かな?」
歩は照れくさそうに、しかしなにひとつ曇りのない笑顔ではにかみながらそう問いかけてきた。それを目にしたその瞬間。
(なんで、私なんかに)
白の胸がきゅうっと締まる。なにか重いものが、心の上にずしりと乗った。
息苦しい。なのに口からは、勝手に言葉が出てきていた。
「駄目なんて言わないですよ」
(私はあなたを認められないのに)
声にならない言葉と、声になる言葉がズレている。
「折角の恋人同士です。一緒になんでも楽しみましょう」
(本当は恋人同士にも、一緒の気持ちにもなれないのに)
白の"言葉"を聞いて、歩の顔は一層華やいだ。
それが可愛くて、綺麗で、とても魅力的な笑顔だったから……
(気持ち悪くて、吐きそうだ)
こんなこと、思いたくないのに。




