三十三話 ガラスの日記、美子の見た未来
涼しい。
気持ちのいい風が横たわっている私を優しくなでた。
ゆっくりと目を開けると、そこはどこかの部屋だった。
体を起こすと、目の前の大きな窓が開け放たれていた。
大きなカーテンが風に揺らいでいる。
「あんた、誰だ?」
その時、右から男の人の声がした。
さっとそちらを向くと、そこには大輝と瓜二つの、『輝』さんが立っていた。
「え、見えるの?」
私と完全に目が合っていた。
どういうことだろう。
ネーヴェさんの記憶に飛ばされいた時は、あの図書室でしか見えていなかったはず。
もしかして、この家自体にもなにか魔法がかかっているのかな。
「もしかして、美子なのか!?」
輝さんは急いでこちらに走ってきた。
「い、いや、美和です。私は。」
慌てて手を振りまわして輝さんを止めた。
「そう、だよな…。美子は、ついこの前…。」
「亡くなったんですか?」
思わずそんなことを聞いてしまった。
「ああ。でも、なんでそれを?それに、美子の幽霊じゃないなら、あんたは誰だ?」
私、幽霊だと思われてたんだ…。
謎のショックを頭から振り払って…
「私は、美和です。今は、それしか言うことはできません。」
「そう、か。もしかして、美子はあんたのことを言っていたのかもな。」
「どういうことですか?」
輝さんは近くの椅子に座った。
「美子が双子を生む前、俺は美子に会ったんだ。美子がどうしても会いたいと言ってきたから………
✱ ✱ ✱
『急に会いたいなんて、どうしたんだよ。』
『輝に、言っておかなきゃいけないことがあって…。』
美子は思いつめた顔で下を向いた。
俺は、とりあえず椅子に座るよう促した。
美子は素直に座った。
『私に、三つの力があることはもちろん知ってるよね?』
『ああ。俺たちの日記だって、時間を操る力を使って作ったんだろ?』
『うん…。』
美子のいつもの元気な様子は無く、ただただ思いつめた顔をしていた。
『どうしたんだよ。さっきから。』
俺は下を向いた美子の顔を覗きこんだ。
すると美子は思い切り椅子から立ち上がった。
『ど、どうしたんだよ!?』
『輝、私はもうすぐ死ぬ。だから、輝に言っておく。これから言うことは、何があっても誰にも言っちゃダメだよ?たとえ自分の子どもにも。』
『お、おう。』
『もっと大きな返事で!』
『おう!……って俺たち何してんだろな。』
美子はその言葉を聞いて、顔の筋肉が和らいで、大笑いし始めた。
白い歯を見せて、目尻に涙さえ滲んでいる。
おまけに赤ん坊の入った大きなお腹を抱えながら。
しばらく二人で大笑いしていた。
『はあ。』
『ふう。』
俺たちは同時に一息ついた。
美子は笑いすぎて出た涙を指でぬぐい、椅子に座った。
『この大笑いも、私にとっては最後か…。』
『お前、さっきから何言ってんだよ。お前は死なねえよ。』
美子がどこかに行ってしまう気がして、慌てて言った。
『そっか。』
『ああ。』
美子は座り直した。
『私、未来を見る力があるの。輝には、時間を操る力を見せたことがあるけど。他に、未来を見る力と、記憶を操る力があって。私は昨日、ある未来の光景が見えた。』
『それは、どんな?』
『とても遠くの未来。私達の日記を使って、この時代の記憶を見ようとしている人たちがいるの。輝の記憶の中には輝がスパイをしてきた貴族の重要な情報などがある。それをその人達は見ようとしているの。他にも、私が嫁いだ水篠家の情報。ネーヴェの屋敷で行われている宴会の中での政治の話とか。全てを見られてしまう。』
美子は真剣な顔で言ってきた。
『でも、日記って俺たちがおじいちゃんおばあちゃんになったら三人で割るんだろ?その時代まで残るのか?』
『私は、あと少しで死ぬの。ネーヴェも。ネーヴェは息子を生んだあと、暗殺される。』
俺は耳を疑った。
美子とネーヴェが死ぬ?
そんな事は絶対にない。
『何言ってんだよ。お前らは死なねえよ。俺も。みんなでおじいちゃんおばあちゃんになろうぜ?』
『アハハ。そうだね。おじいちゃんおばあちゃんね。』
美子は言いながら、涙を流した。
本当に、どこかに行ってしまいそうだ。
俺は二人に、置いていかれている気がする。
それを、見届けるのが俺の仕事なのか?
寂しい人生だな。
悲しい役目だな。
人には必ずひとりひとり役目を持って生まれてくる。
俺は今、それを見つけてしまったのかもしない。
寂しいな。
『輝。そんなに暗くならないで。私達の中で太陽みたいな存在は輝なんだから。太陽が隠れたら、夜になっちゃうよ。』
『そうだな。』
俺は無理やり笑って見せた。
美子の顔が、一番寂しそうなのに。
『輝。今から、一番大事なことを言うね。その時代に、私達の日記を悪用する人たちがいるのは事実だけど、それを食い止めてくれる子たちもいるの。』
『子たち?』
『うん。それは、私の子孫、ネーヴェの子孫、そして輝の子孫。その三人が、私達の日記を壊してくれる。ずっと続く負の連鎖を、その三人が終わりにしてくれるの。』
美子の目は、希望に満ち溢れていた。
✱ ✱ ✱
そして美子は数日後、双子を生んでからすぐ死んじまった…。」
輝さんは一通りのことを話してくれた。
「私達が、この記憶を終わらせるんですか?」
私はゆっくりと言った。
「ああ。どうか、美子の思いを継いで、俺たちの記憶を綺麗なまま終わらせてほしい。」
輝さんは深々と礼をしてきた。
「ネーヴェさんは?今どうされているんですか?」
「ネーヴェは今、お腹に新しい命を宿している。生んでから少し経ったら、ネーヴェは暗殺されると美子は言っていた。でも、俺はそれを黙っては見ない。人がどこまで運命に抗えるのかを、俺は試す。あんたの時代では、もうこの出来事はとっくに終わっているんだよな。不思議な感じだぜ。」
輝さんは寂しそうに笑った。
「でも今、輝さんがやっていることは、決して意味のないものではないと思います。私、頑張ります!絶対に日記を壊します。紗雪と私と………大輝で。」
『大輝』という名前を口にした。美子さんの見た未来では三人で壊していた。
でも、大輝はもういない。
「美和って言ったっけ?頑張れよ!」
まるで、大輝に言われたようだった。
私は思わず泣きそうになった。
けど、流れる寸前のところで涙を堪えた。
堪えると同時に胸がぎゅっと締めつけられて、心が物凄く痛かった。
「輝さん。銃はありますか?」
たしか前にも、輝さんの銃で帰った気がする。
「ああ。あるけど、銃でなにをするんだ?」
「この本の裏表紙を、撃ってください。そしたら私は私の時代に帰れます。」
床に置いてあった、表紙の割れたガラスの日記を持ちあげて輝さんに言った。
「分かった。」
輝さんはそばにあった小さなタンスから銃を出した。
その銃を出したタンスを見て、一瞬固まった。
そのタンスは、あの長い廊下の壁沿いに置いてあったタンスと同じだった。
もしかして、と思って輝さんの後ろにあった扉を開けた。
「やっぱり……。」
扉を開けた先の廊下が、あの廊下だった。
あそこは、輝さんの家だったんだ。
でも、実際の廊下はとても短かった。
突き当りに、あの部屋があった。
「輝さん、あの部屋は?」
銃を持ってきた輝さんはこっちに来てくれた。
「この部屋は、俺の書斎だ。馬鹿そうに見えるけど、実は俺結構本読むんだぞ?」
輝さんはもう一度タンスを開けて、あの鍵を持ってきた。
そして、書斎の扉を開けてくれた。
「わあ…。」
あの部屋と全く同じだった。
真ん中の机の上にはタイプライターと蓄音機。
「ガラスの日記は、あそこですよね?」
私が奥の本棚を指さして言うと、輝さんは目を見開いて驚いた。
「なんで分かったの!?」
「私、未来から来てますから。」
自信満々に言うと、輝さんは笑った。
「なんか、性格まで美子に似てるな。」
私は少し恥ずかしくなった。
輝さんはガラスの日記がある本棚の前に立った。
私も近くに行って、表紙の割れたガラスの日記を床に置いた。
輝さんは私の方を見て、銃の安全装置を解除した。
そして、引き金を引いた。
銃声と共に、ガラスの表紙が割れた。
空間がぐにゃりと歪む中、目の前の本棚が見えた。
そこに並んでいるガラスの日記が、だんだんと薄くなっていき、ついには跡形もなく消えた。
そうか、私の時代の日記が消えれば、この時代の日記も消えるのが普通か。
「さようなら、輝さん。」
私はそう言って、再び歪みに身を任せた。