二十一話 大きな邸宅、紗雪の父
今、私と紗雪はネーヴェの車の中にいる。
あの後、ネーヴェの男たちに無理やり車に乗せられてしまった。
大輝のことが衝撃的で、その時は抗うことも出来なかった。
私は助手席にいて、後部座席には紗雪が乗っている。
バックミラーに映る紗雪は、下を向いていた。
私は、大輝が暗闇の底に落ちて行くのを見た。
でも、なぜか大輝が死んだことが、信じきれない。
今も、どこかで生きているんじゃないか、そんな事を思ってしまう。
でも、大輝が死んだことは事実なんだ。
あんな所から落ちて助かるはずがない。
改めて突き付けられた事実に、心が苦しくなって、うまく息ができなくなった。
隣に大輝が何事もなかったかのように座っていて、無邪気に笑いかけてきたらなんてことを考えてしまい、もっと息ができなくなってしまった。
吸い損ねた空気の代わりに目からはたくさんの涙が溢れてきた。
いつしか、虚しい嗚咽が車の中に響いた。
なんで今頃涙が出てくるんだろう。
なんであの時もっと大輝の手を握り締めていなかったんだろう。
涙が溢れる度、後悔の思いも溢れてきた。
隣に座っている男は、泣いている私をちらりとも見なかった。
血も涙もないネーヴェ。
私の大切な人を簡単に奪ったネーヴェ。
憎しみの矛先が、ネーヴェに向いた。
憎しみなんて何の意味もないのに。
なんで、人間は憎しみしか思い出せないんだろう。
もっと、大事なことがあるはずなのに。
大事なことを忘れている。
それを思い出すときは、もう遅いんだ。
私は、何を忘れているんだろう。
紗雪は、何を忘れているんだろう。
分からない。
分からない。
いくら考えても分からない。
私は、これからどうすればいいんだろう。
ネーヴェから逃げる必要もなくなった。
学校にも、行けない。
家も、ない。
私は、何をすればいいんだろう。
「美和。」
突然、後部座席に座っている紗雪に声をかけられた。
「おい、しゃべるな。」
運転席の男に注意された。
すると紗雪はキッとその人を睨みつけた。
男は、その目を見て圧倒されたのか、口をつぐんだ。
「美和。美和は、生きればいいんだよ。」
紗雪は優しい目つきになって私に言った。
「なんのために?」
かすれた声で紗雪にいじわるなことを聞いた。
今の私は、とても性格が悪いと思う。
自分が分からなくなった今、分かることは、『自分が分からなくなった』ことだけだ。
「目的なんてないよ。ただ、生きるの。」
「生きてどうするの?」
「笑う。怒る。泣く。悲しむ。楽しむ。全部やる。死ぬまで。寿命が来るまで。」
紗雪は、真顔で質問する私に一つ一つ丁寧に答えてくれた。
「ありがとう。」
なんのお礼か分からない。でも、紗雪に「ありがとう」を伝えたかった。
そうだ。私は生きなければいけない。
死ぬ理由なんて一つもないから。
生きる理由も一つもないけど、『生』と『死』の二つで自分のためになるのは『生』だ。
だから、私は生きよう。
理由が無くても、生きよう。
車が目的地に着いたみたいだ。
車から降ろされ、目の前に現れたのは、大きな邸宅だ。
外国のおとぎ話に出てきそうな大きな邸宅。
ここが、ネーヴェの本部なのだろうか。
「ここは、天馬誠様の邸宅だ。案内されるからそれについていけ。」
私たちは返事もせずに歩きだした。
紗雪といるから、どんなに大きな邸宅でも怖くはなかった。
「紗雪、待ってよ。」
私はどんどん先へ行ってしまう紗雪を止めた。
「ごめんごめん。つい気合い入っちゃって。」
紗雪は小さく笑った。
眉をひそめて。
お願いだから、そんな顔をしないでほしい。
「今から、実の父に面と向かって会うと思うとなんかね…。」
「大丈夫。私もいるから。」
「そだね。」
私たちは、邸宅の扉まで来た。
開けようとした時、向こう側から扉が開いた。
その先にいたのは、背がスラーっと高い男の人だ。
「ようこそ。紗雪様。美和様。」
その人は礼儀正しく一礼をした。
私にまで『様』を付けている。
年齢は、私たちと同じくらいだろうか、妙に親近感が湧く。
「私は、天馬誠様の側近、九重と申します。これからずっとあなたたちのお世話係を務めさせていただくのでどうぞよろしくお願いします。」
丁寧な自己紹介をされて、私たちは少し戸惑った。
もう少し乱暴に扱われると思っていからだ。
九重という人は『これからずっと』と言っていたけど、私もなのかな。
私は水篠家の人間だし…。
「水篠美和様。あなたは先ほど天馬誠様の命令により、紗雪様と共に連れてくるようになっております。乱暴な真似はありませんが、一応人質という立場になられます。」
私の表情を察したのか、そこのところを丁寧に説明してくれた。
「あ、ありがとうございます?」
ここはお礼を言うべきなのか、迷ってしまい、語尾を変に上げて、疑問形になってしまった。
そんな私を見た九重さんは静かに笑った。
ネーヴェにもこんな人がいるんだ。
「では、私についてきてください。」
九重さんは先の道を丁寧に手で示してくれた。
しばらく歩いた先に、大きな扉が現れた。
「着きました。ここが天馬誠様のお部屋です。」
九重さんはためらいもなく扉を開けた。
扉は不気味な音と共に開いた。
廃屋のような扉の音。
その先は、予想以上に広かった。
遠くには、天馬誠らしき人影が椅子に座っている。
でも、とても不思議だ。
扉から、天馬誠が座っている椅子までの距離が異様に長い。
軽く、百メートルは越えているんじゃないかな。
天馬誠の後ろには壁一面に広がる大きな窓。
カーテンは無く、部屋全体を昼間の日光がちょうどよく照らしていた。
「紗雪。」
小さくささやいたつもりなのに、私の声は部屋中に響いた。
部屋と言えるのかどうか分からないけど。
紗雪は声に出さず、うなずいた。
私もうなずく。
九重さんを振り返ると、右手の親指を立てていた。
『がんばれ!』という意味で受け取っていいのかな…。
扉が閉まり、私と紗雪はピカピカに磨かれた床を一歩一歩進んだ。
一歩進むにつれて、緊張感が高まっていく。
こんなペースで歩いていたら、着くまでにすごい時間がかかりそうだ。
それでも私たちは、ペースを上げることなくゆっくり歩いた。
でも、ちょうど半分くらいまで来た時、紗雪が止まった。
紗雪は私をじっと見つめた。
私は、紗雪に向かってうなずいた。
すると紗雪も、うなずいた。
紗雪は『歩くペースを上げよう』という意味でうなずいた、はず。
「天馬誠。」
紗雪は突然、とても大きな透き通る声で天馬誠の名前を呼んだ。
私は驚きを隠せない。
この部屋は、縦にも横にも大きい。
だから今の声はマイクで言ったように響き渡った。
私が横であたふたしているのも気にせず、
「私は、紗雪。」
と言った。
私は諦めて前を向いた。
「もっと、近くに来い。」
部屋中に響き渡った低い声。
これが、紗雪の実の父親か。
私たちはそれに従って、天馬誠の机まで歩いた。
初めて見るその男の人は、どこか紗雪に似ている気がした。
本人にそんなつもりはないだろうけど、どこか寂しそうな表情。
初めて出会った天馬誠。
強そうな名前だから、もっと怖そうな人かと思った。
でも、予想は全然当たらず、その人にぴったり合う言葉と言えば、『雪』だ。