十九話 取引実行、終わりの崖
銃の安全装置を外す音が、一斉に森に響いた。
そこには総勢、十人くらいいるように見えた。
「お、俺の言い方が悪かったよ。『取引き』をしないか?」
大輝は慌てて言い直した。
森にしばらく沈黙が続いた。
この緊張した空間。
私と紗雪は手をぎゅっと握りしめてこの嫌な沈黙が終わるのを待っていた。
「天馬紗雪様を、こちらに渡したら、お前ら二人は逃げてもいい。」
沈黙の中、低い声で言ったのは、ネーヴェの刺客を引き連れていた先頭の男だった。
「ちょっと、時間をくれないか。」
大輝が言うと、その男はにやりと悪い笑みを浮かべた。
「ああ。五分だけやろう。」
茂みの中からしか見ていない私だけど、男の金歯が光を反射して、よりいっそう不気味に見えた。
大輝はゆっくりと茂みに戻った。
「紗雪、落ち着いて聞いてくれ。」
大輝は紗雪の目を真っ直ぐ見つめて言った。
紗雪は、とても落ち着いているように見える。
大輝への強い信頼が目に見えて分かった。
私たちの作戦は、こうだ。
まず、紗雪をおとなしくネーヴェに渡す。でも、その後すぐに動くのは、ネーヴェにばればれの作戦だ。だから、私と大輝はあたかも遠くに逃げたように走っていく。そして、油断したネーヴェの後をゆっくりと着いていき、隙を狙う。
「ネーヴェに隙なんてあるのかな…。」
紗雪が心配そうに言った。
「大丈夫だ。あの男は警戒心が強そうだが、他は全員、雑魚だ。警戒心なんてないな。」
大輝は余裕な顔で言った。
「なんでそんなこと言いきれるの。」
私が疑うように聞くと、
「あのな、俺を誰だと思ってる。四年間もネーヴェにいたんだぞ。プロと雑魚の差なんて一目瞭然だ!」
大輝は自信満々に言った。
「紗雪の命は?危なくないの?」
「紗雪は天馬誠の娘だぞ?殺されるわけない。かすり傷一つ付けただけでそいつはおしまいだな。」
「そうだ、紗雪様だったんだ!」
私は紗雪に『様』をつけて納得した。
「はあ。この二人って危機感感じたことあるのかな。」
紗雪は呆れた声で独り言のように言った。
そりゃ怖いけど、二人と居れば不思議と心が落ち着く。
だから、『生きよう』と思える。
もし二人がいなかったら、私はあそこで諦めていた。
「五分経ったぞ。」
茂みの外から男の声が聞こえた。
私たちは出来るだけ暗い顔を装った。
「紗雪…。本当にごめんね。」
私は演技で謝った。
「いいよ。これで二人が助かるなら。」
紗雪の演技は女優級だ。
私は心の中でこっそりと感心してしまう。
それを見たネーヴェの男たちはにやりと笑った。
「まさに、悲劇だな。」
広い森に男たちの嫌な笑い声が響いた。
本当に、雑魚だ。私は大輝の言葉を借りて思った。
紗雪は、ゆっくりとネーヴェの方に向かって歩いた。
「待て。」
そこで、リーダー的存在のあの男が紗雪を止めた。
「後ろの二人、武器を捨てろ。」
男は鋭い目つきで私たちを睨んだ。
大輝はゆっくりと銃を出して、地面に置いた。
そして、大輝の目の合図でゆっくりとそこから離れた。
その様子をしっかりと見た男はうなずいて紗雪を歩かせた。
紗雪がネーヴェの方にたどり着くまで、その男はずっと私たちの方を睨んでいた。
「お前ら、バカな真似はするんじゃねえぞ。したところで何も変わらねえ。」
その男は吐き捨てるように私たちに言った。
なにか、この人だけ雰囲気が違った。
周りの男たちとは、全く違う威圧感。
私はその人の前だけ、唾をごくりと飲み込んだ。
紗雪を連れたネーヴェが去っていき、森に再び静寂が訪れた。
「ねえ、大輝。さっきの男の人だけ、なんか違ったよね。」
「ああ。美和にも分かったか。あいつはプロだ。周りの雑魚とは違う。用心しねえと。」
大輝の表情は真剣だった。
それに、男たちに悲劇と笑われた時、その人だけ笑っていなかった。
その顔が、今でも目に焼き付いている。
「まあ、美和。心配すんな。俺が守るから。それに、早くしないとマジでただ渡しただけになるぞ。」
その言葉で我に帰った私は、先を急いだ。
匂いや、何となくの空気でネーヴェを追って、やっと辿り着いた。
そこは、休憩場所なのか、崖の所に車が止まっていた。
大きな木に身を隠しながら、様子を確認すると、紗雪を見つけた。
紗雪は、木に縛り付けられていた。
「紗雪にあんなことして…!」
私が怒りを沸々と湧きあがらせていると、
「美和、感情的になるのが一番ネーヴェの思うつぼだぞ。」
と大輝になだめられた。
「ご、ごめん…。」
「いいか。今から俺があの木に向かうから、お前はここで静かに待ってろ。」
大輝は流れを教えてくれた。
ここは、私も紗雪を助けに行きたかったけど、今の私じゃ何もできないし、大輝の足手まといになるのも嫌だったから、素直にうなずいた。
そして、大輝はゆっくりと紗雪の木の方へ歩いていった。
大輝、がんばれ。
心の中で応援した。
「おい。」
その時、後ろから肩を叩かれた。
その瞬間、全身の血の気がさーっと引いていくのが分かった。
私は固まって振り向くこともできない。
大輝は、この状況に気づいてない。
そして、頭に何かを当てられた。
それが何かすぐに分かった。
銃だ。
声も出せずにただ大輝に視線を送る。
でも、大輝は気づかない。
『死にたくない。』
そんな気持ちが、一直線に心を貫いた。
『生きるのを、簡単にあきらめてはダメよ。』
また、あの一言が思い浮かんだ。
ゆっくりとその言葉を言ったお母さん。
深く、よく通る声で。
透き通った声で。
その言葉が、何度も何度も頭に響いた。
セメントで固められたように動かなかった足は、だんだんと柔らかくなっていった。
この銃、まだ安全装置を外していないはず。
時が、止められたらいいのに。
でも、止める方法が分からない。
今は、能力には頼れない。
なら、自分で行動するしかない。
私は、左足を軸に、右足を思い切り回して、後ろにいた男を蹴り飛ばした。
どこを蹴ったか、ちゃんと当たったか、そんなことを気にする余裕はなかった。
すぐに前方向にダッシュした。
でも、前は崖だ。
もうここでおしまいだ。
いくら足掻いても、泣いても、笑っても、怒っても。
もうここでおしまいなんだ。
ついに、私は終わるんだ。
突然やってきた終わりがとても怖かった。
振り返ると、大輝と紗雪が目を見開いてこちらを見ている。
紗雪のロープは、ほどき終わっているようだ。
私は振り返って、蹴り飛ばした男を見た。
私は固まった。
あのリーダーだった。
その男はもう体勢を整えて、銃をこちらに向けている。
そして、引き金を引くのが見えた。
ばいばい、みんな。
「美和っ!!」
目をつぶった時、前から大輝の声が聞こえた。
目を開けるとあっちから、紗雪と大輝が走ってくるのが見えた。
そして私は大輝に突き飛ばされた。
バンッ