Episode:32 意思
◇Rufeir
「そういえばルーフェイア……いつから泳げるように?」
先輩の何気ない言葉が、ぐさりと胸に突き刺さった。
さっきのことを思い出す。
自分が自分でなくなる感覚。
人ならできないはずのことを、やってしまう恐怖。
涙がこみあげてくる。訊かれたくない。思い出したくない。
「え、あ、その……すまない、何か悪いことを言ったか?」
声が詰まって、先輩の質問に答えられない。
いつものことだけれど、恐ろしくて仕方がなかった。
――自分が、自分でなくなるなんて。
「どうしたんだ?」
答えようとしたけど、やっぱり涙ばっかりで、声にならなかった。
ほんとうにこのままで、大丈夫なんだろうか?
「あの」力がいつか、あたしを乗っ取ってしまうような気がして、とても怖かった。
次々と涙があふれてくる。
こんな力いらない。
あたし普通が良かったのに……。
いちばん最初は、3つの時だった。
あの頃あたしはまだ戦場にはいなくて、どこかの町に住んでいた。
父さんはいなかったから、たぶんどこかへ傭兵として出てたんだろう。母さんとあたし、それに住みこみのお手伝いさんの、3人だったはずだ。
あの日、母さんはどこかへ出かけて、家にはあたしとお手伝いさんの2人だった。
ベッドの中でうとうとと昼寝をしていて、目を覚ました。
悲鳴が聞こえたのだ。
でも寝ぼけていたせいなんだろう、たいして怖いとも思わずに階段を降りて、居間をのぞいた。
そしてあたしが見たのは、血溜まりと、背に短剣を突き立てたまま倒れたお手伝いさんと、知らない男たち。
何が起こったのか分からず立ち尽くすあたしを、振り向いた男たちの視線が捕らえる。
何かの罵り声と、振り上げられる短剣。
当然どうしたらいいかわからなくなって――けれど身体が動いた。
あたしの中の「何か」は、あまりにも冷静に身体を動かし……さっきみたいにあたしの身体は、片手を上げた。
手から吹き上がる、「黒い炎」。
それはうねりながら虚空を走って、男は炎が触れた場所から、塵になって消えて行った。
もう一人の男がそれを見て、腰を抜かしながらあたしに言った。
「化け物」と。
ちょうど母さんはそこへ帰ってきて、即座に残る男を叩き伏せて、それからあたしのやったことに気づいた。
呆然とした表情で、あたしと室内とを見ていたのを、覚えてる。
ただ記憶はそこまでで、あとははっきりしない。ひたすら母さんの腕の中で泣いて、慰めてもらっていた気がする。
でもあの言葉、「化け物」というそれを、あたしは今も否定できなかった。あの時あたしがやったことは、明らかに人の範疇を外れていたのだから。
いずれにしてもこの一件であたしが「グレイス」だと発覚し、その後は戦場で暮らすことになった。
理由は簡単。
とっさの行動で人を殺しかねないこの幼児は、そういう場所に置いておくに限る。
戦場なら普通の社会と違って、何人殺したって問題はないのだから。むしろそうして磨き上げた方が、シュマーの次期総領 としてはふさわしい。
そうやって、どれほどこの手を血に染めたのだろう……。
終わることのない、悪夢。
「……こんな力、いらない……」
虚しい呟きが、あたしの口から漏れた。