【二】
満天の星、闇を切り裂く青い三日月、頬を撫でる風は乾き埃っぽい。
いったい、ここはどこだろう。どこへ向かっているのだろう。ただ白い砂が、地平線の向こうまで続いている。生まれて初めて谷を出たセラは、世界の広さに圧倒された。
「もうすぐ都につく。これからおまえが暮らす街だ」
皇帝マティアス・ラウリ・ヴァルティアは機嫌よく笑う。
背後には二十名ほどの騎兵隊。彼らは皇帝がみすぼらしい少女をさらってきたことにとりたてて動じず、いつものこととばかりにつき従っている。
見知らぬ土地、完璧な警護……逃げることなど不可能だ。何より、慣れない馬に揺られたせいで、もはや気力も体力も限界だった。
「お、お願いです……わたしを帰してくださ……」
幾度めかの懇願も、強引にくちびるを奪われかき消される。身をよじって抗おうとすればするほど、ますます抱きしめる腕の力が強くなった。苦しい。息ができずに目眩を起こす。
「……それほど帰りたいのなら、歩いて帰れ」
皇帝はおもむろに手を離し、セラを砂の上に落とした。
「砂漠の夜は冷えるぞ。その薄着で耐えられるか。砂には毒虫が多くひそんでいる。せいぜい噛まれないように気をつけろ」
無慈悲な瞳、抑揚のない声。立ち上がることさえできないセラは、力なく泣いた。
「水も持たず、方角もわからず、さてどうやって帰るか見ものだな」
冷酷な笑みを浮かべ、じっとセラを見下ろす。セラは肩を震わせ、平伏した。
「身も心も、俺に捧げると誓え」
「……身も心も、陛下に……捧げます」
「名は?」
「……セラフィーナ……」
皇帝マティアスは満足そうにうなずき、騎兵隊に合図する。彼らはほっと息をつき、下馬して休憩の用意をした。
「まったく、なかなか強情なお嬢ちゃんだ」
「このまま休みなしかと思ったぜ」
それまでの無表情から一転、屈託のない笑顔で荷をほどく。着ていたマントを敷物の代わりにして、皇帝とセラを座らせた。
「来い、セラフィーナ。水を注げ」
セラはおとなしく言われた通りにする。マティアスは一気に水を飲み干し、しかし不服そうに杯を眺めた。
「石切りの男たちは、美味そうにおまえの水を飲んでいたが。何かまじないでもかけていたのか?」
「……いいえ」
無知で無教養な奴隷の娘に、まじないなど扱えるはずがない。もし水の味を変えるものがあったとしたら、それは……母を、優しい仲間たちを想い、また涙があふれた。どれほど耳を澄ましても、谷を吹き抜ける風の音すら聞こえない。
マティアスはそっと手を伸ばし、髪や顔に付いた砂を払ってやる。
「都に戻ったら、おまえの親には相応の金銀を送ろう。少しは暮らしが楽になるはずだ」
それでもセラは泣きやまない。大金を手にしたところで、あの狭い谷で何ができよう。
「……お願いがあります」
「言ってみろ」
「お金ではなく、お薬をいただけないでしょうか。母が……足にひどい怪我をしているんです」
ふむ、とマティアスは考える。金があれば薬を買うことも、医者にかかることもできるだろうに。やはり阿呆か。いや、この状況で親を案じるとは、大物なのかもしれない。
「いいだろう。医師を派遣しよう。それと、食糧の配給を増やしてやる。これで、心残りはないか?」
「はい、ありがとうございます……!」
ようやくセラは、かすかに笑った。途端に胸が鳴り、マティアスは誤魔化すように乱暴に抱き寄せる。抗うことなく、そっと体重を預けてきた。
「疲れただろう。少し眠れ」
まぶたにくちづけると、恥ずかしそうに頬を染めてうつむく。髪を撫でてやるうちに、吐息が寝息に変わった。