(1)
霧雨が降りしきる中、鏡子は一人立ちすくんでいた。
眼前には列をなす人々。そしてその先にあるのは白と黒の鯨幕。
皆、喪服に身を包み神妙な面持ちで鏡子の家の前で待っている。
群衆の中には鏡子がよく見知った顔もあればそうでないものもあった。
学生服の一団の中で女子生徒たちがハンカチを手にすすり泣いている。
いずれも鏡子と親しくしていた友人たちであった。
知らぬ顔は遠い親類か、あるいは両親の知り合いや会社の人間なのだろう。
鏡子はまるで絵画を鑑賞するかのような心境でそう解釈した。
「鏡子ちゃん、まだ中学生だったんだって?」
「俊郎さんも最近昇進したばかりだったって」
「かわいそうに」
父方の法事で何度か見たことのある顔がそう囁き合う。
あちらこちらで鏡子の家族を悼む声が聞こえるが、皆人集から離れた場所にいる鏡子には話しかけない。
「御前様は神楽巫女たちの中から嫁をお取りになることがある。鏡子ちゃんはきっと御前様のもとでなに不自由なく暮らしとるよ」
「お袋! こんな時に言う言葉じゃねえだろう?! すまんね長谷川さん。こんな時に……」
「いえ、私たちも鏡子ちゃんが向こうで幸せに暮らしているのならと思っていますから……」
そう答えたのは父方の伯父であった。
やや疲れの色を見せる顔で、黒い留袖を着た老婆と喪服姿の中年男性に頭を下げる。
久方ぶりに見た伯父は以前よりもいっそう老けたように見えた。
その傍らにいるのは伯母だ。こちらも疲れた様子で弔問客を見送っている。
「鏡子ちゃんはなにもしてないんでしょう? なのに連れて行くなんてひどい神様だよ」
「やめなよ沙耶。今は叔父さんたちの葬儀の最中なんだから」
伯父たちから遠くにいた従姉妹たちがそんなことを言い合った。
雨脚は強くなることもなければ弱まる気配もない。
傘も差さずに家の外に立つ鏡子は、こんな天気だと傘を差すか困るなと考えていた。
未だ、鏡子は己の目の前で繰り広げられている出来事がなんなのか理解していなかった。
否、理解したくなかったのかもしれない。
自分が死んでしまったことなど、もはや未来への道は永久に閉ざされてしまったことなど、意識の端にも上らせたくなかったのかもしれない。
「鏡子」
その声に鏡子は傍らを見る。
そこには白い狩衣を着た男性が経っていた。
その肌は恐ろしいほどに白く、長く垂らした髪も同様である。
黒目がちの瞳はよく見ると瞳孔が縦に割れていた。
薄い唇が開かれると、その隙間から鋭い犬歯のようなものが覗く。
「ひどい姿だ。私の屋敷に来るといい」
「あなたは――」
「私はこの地にある社の祭神。人々からは御前様などと呼ばれておる」
「あなたが、御前様?」
鏡子は「御前様」という名前を良く知っていた。
鏡子は二ヶ月ほど前に地元の神社で催された「御前祭」で巫女神楽の舞い手として神楽殿に立ったばかりである。
無論、その日を前に何週間も舞の練習を行い行儀作法の手ほどきを神社の神主から受けていた。
その中で「御前様」の由来とその社の歴史についても学んだのだ。
鏡子は改めて目の前にいる男性を見る。
年の頃は二十も半ばだろうか。背は当然ながら十四の鏡子よりも高い。
狩衣に隠れて見えぬが体つきは華奢なように感じた。
そしてなにより彼にはなんとも言えない雰囲気が纏わりついている。
そんな動物的な直感が鏡子を不安にさせた。
清らかな空気を感じるが、同時にどうしようもなく恐ろしいと鏡子は思ったのだ。
一歩後ずさり、鏡子は「御前様」と名乗った男性から距離を取る。
「鏡子。そんな姿でどこへ行く」
鏡子はふと自分の体へ視線を落とし、小さく悲鳴を上げた。
白いフレアスカートはずたずたに引き裂かれ、焦げ付き、ところどころ赤黒い染みがついていた。
紺色のトップスもよく見れば焦げた臭いが染み付いている。
仲の良い友人と遠出をして買ったミュールはどこへ行ったのだろう。素足は墨のようにまっ黒だ。
己の惨状に言葉も出ない鏡子へ男は緩慢な動作で近づく。
「未だ気付かぬは哀れなこと。両の親ともどもそなたは泉下の客となったのよ」
男にそう告げられた途端、鏡子の脳裏に今までの記憶が過ぎ去って行く。
久々の家族水入らずの旅行。運転席に座る父、助手席には母が。鏡子は後部座席から外を眺めている。
窓ガラスは水滴だらけだ。フロントガラスではワイパーが忙しなく動いている。
前の座席から形容しがたい声が上がる。
体が浮くような違和感が鏡子の体を襲う。
タイヤがスリップし、ハンドルは制御を失う。
両親の焦った声が聞こえたかと思うと――。
鏡子はたまらずその場にしゃがみ込んだ。
男性は鏡子の前で膝をつくとその体を優しく引き寄せる。
「わたし……どうして……」
静かに涙を流す鏡子の背をさすりながら、男は甘やかな声音で言う。
「本来ならば黒不浄は忌避すべきものであるが、そなたを私の妻として迎え入れよう。さすればそなたも私と共に過ごせる」
「え……?」
「そなたの美しき舞いに心奪われたのだ。どうか首を縦に振ってはくれぬか」
混乱のさなかにある鏡子にはその言葉がどんな意味を持っているのか、正確に理解することは出来なかった。
それでもただ己が寄る辺ない存在になったということだけはわかっている。
だから鏡子は男に促されるまま頷いた。
そうして六年前の雨の日、鏡子は御前様に嫁いだのだった。