第一章 死せる王の鍵
小章① デジタル遺品整理士
十一月の冷たい雨が、麻布の高級マンションの窓を叩いていた。 ペントハウスのリビングには、重苦しい沈黙と、線香の匂いが立ち込めている。 部屋の主、五代 剛造は、三日前に急性心不全で急逝した。享年六十五。 表向きはIT投資家だが、その正体は、ビットコイン黎明期から大量のコインを保有し続けてきた、日本有数の「クリプト長者(億り人)」である。
九頭龍 戒は、喪服に身を包んだ遺族たちの視線を背中に感じながら、五代の書斎に入った。 三十五歳。黒いタートルネックに黒いジャケット。長めの前髪が鋭い眼光を隠している。 彼の肩書きは『デジタル遺品整理士』。 故人が遺したパソコンやスマホのパスワードを解除し、データを抽出、あるいは消去することを生業とする「デジタルの納棺師」だ。
「……九頭龍さん、本当に開けられるんですか?」
背後から声をかけてきたのは、五代の若き後妻、美鈴だ。三十代後半、モデル上がりの美女だが、その目は貪欲に輝いている。 隣には、五代の前妻との息子、隆が立っている。こちらは借金まみれの放蕩息子として有名だ。
「やってみなければ分かりません」
九頭龍は短く答え、五代が遺した一台のノートパソコンに向き合った。 ネットから物理的に切断された(エアギャップ)、旧式のThinkPad。 この中に、五代の全財産が眠っている。 推定三千億円相当のビットコイン。 そのウォレットにアクセスするための『秘密鍵』が、このパソコンの中にあるはずなのだ。
九頭龍は特殊なツールを接続し、解析を開始した。 だが、画面には無慈悲なメッセージが表示されるだけだった。
『Enter Passphrase(パスフレーズを入力せよ)』
「……強固な暗号化が施されています。PCのログインパスワードだけではダメだ。ウォレット自体に、別のパスフレーズが設定されている」
「そんな! 心当たりなんてないわよ!」
美鈴が叫んだ。 隆が舌打ちをする。 「親父のクソジジイ……。死んでまで金を独り占めする気か」
三千億円が目の前にあるのに、指一本触れられない。 秘密鍵とは、64桁の英数字の羅列だ。これを失えば、ビットコインは永遠にデジタルの深淵に消える。誰にも取り出せない「電子の藻屑」となるのだ。
「物理的なメモか何か、残していませんか? リカバリーフレーズと呼ばれる、十二個または二十四個の英単語です」
九頭龍が尋ねると、美鈴は首を振った。 「金庫も貸金庫も全部探したわ。紙切れ一枚出てこなかった」
(用意周到だな)
九頭龍は、五代という男の偏執的な性格を垣間見た気がした。 彼は誰も信用していなかったのだ。妻も、息子も。
小章② ハッカーとマルサ
その時、マンションのインターホンが鳴った。 モニターに映ったのは、二人の男だった。一人は作業服姿、もう一人は安っぽいスーツを着た中年男だ。 九頭龍の目が細められた。 スーツの男に見覚えがあったからだ。
「……国税だ」
九頭龍が呟くと、遺族たちが凍りついた。 ドアが開けられると、国税局査察部の男、犬飼が土足で踏み込んできた。 作業服の男は、おそらく国税お抱えの技術官だ。
「五代剛造の遺産相続に関して、重大な申告漏れの懸念がある。これより強制調査を行う」
犬飼は令状を提示した。
「ま、待ってください! まだ葬儀も終わっていないのに!」
美鈴が抗議するが、犬飼は無視して書斎に入ってきた。 彼は九頭龍を見ると、ニヤリと笑った。
「おや、九頭龍じゃないか。またお前か。……ハイエナが死肉を漁るのが早いな」
「人聞きが悪いですね、犬飼さん。私は正式な依頼を受けて仕事をしているだけです」
「ふん。どうせ、秘密鍵を見つけて闇ルートで換金するつもりだろう? だが、そうはさせん。五代の隠し資産は、国庫に納めてもらう」
犬飼は技術官にPCを押収するよう指示した。 だが、九頭龍は動じなかった。
「無駄ですよ。このPCには何もない」
「何だと?」
「先ほど解析しましたが、ウォレットのデータは空でした。……五代氏は、もっと安全な場所に秘密鍵を隠している」
九頭龍は嘘をついた。 PCの中にウォレットデータはある。だが、パスフレーズがなければただのゴミだ。それを国税に渡せば、彼らはスーパーコンピューターを使ってでもこじ開けようとするだろう。 そうなれば、遺族からの依頼料はパーだ。
「隠し場所? どこだ?」
「それを探すのが、私の仕事です」
その時、九頭龍のスマートフォンが振動した。 未知の番号からのメッセージ。 『我々は「アノニマス・ダーク」。五代の鍵は我々が頂く。邪魔する者は排除する』
国際的なハッカー集団まで動き出したか。 三千億円の宝の山に、ハイエナたちが群がり始めた。 九条は、遺族たちに向かって言った。
「PCは国税に渡しましょう。ここにあっても危険なだけだ。……その代わり、私に三日間ください。必ず鍵を見つけ出します」




