初陣1
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1
第三軍団の兵舎は、想像以上に巨大だった。
石造りの建物が整然と並び、中央には広大な訓練場。五千人を超える兵士たちが、規律正しく動いている。
「ここが、お前の新しい職場だ」
マルクスは、兵舎の一角にある将校用の建物へと俺を案内した。
「待ってください」俺は立ち止まった。「クラスメイトたちは? みんな、どうなるんですか」
マルクスは振り返った。
「それぞれの適性に応じて配置される。医療の心得がある者は治療院へ。計算ができる者は物資管理へ。体力がある者は訓練を受けて兵士に」
「兵士……」
「安心しろ。いきなり最前線に送ることはない。それに――」マルクスは俺を見た。「お前が参謀として結果を出せば、お前のクラスメイトたちの扱いも良くなる」
つまり、人質だ。
俺が役に立たなければ、みんなの立場が悪くなる。
「プレッシャーに感じる必要はない」マルクスは歩き出した。「お前は昨日、皇帝陛下の前で能力を証明した。それを戦場で再現すればいい」
そんな簡単な話じゃない。
地図を見て意見を言うのと、実際に戦うのとでは、全く違う。
だが、拒否権はなかった。
2
将校用の部屋に案内された。
質素だが清潔な空間。ベッド、机、椅子、本棚。必要最低限のものが揃っている。
「今日はゆっくり休め。明日から、軍団の運用について学んでもらう」
マルクスがそう言って去ろうとした時、俺は尋ねた。
「マルクス将軍。一つ、聞いてもいいですか」
「何だ」
「なぜ、俺なんかを副官に? もっと優秀な、この世界の人間がいるはずです」
マルクスは少し考えてから、答えた。
「お前は、地図を見た時、何を考えた」
「え?」
「昨日、皇帝陛下の前で地図を見た時だ。お前の目は、何を追っていた」
俺は記憶を辿った。
「地形、川の流れ、山の位置、補給線、敵の動き――」
「そうだ」マルクスが頷いた。「お前は、一瞬で戦場全体を"盤"として見た。それができる者は、意外と少ない」
「でも――」
「多くの兵士は、目の前の敵しか見ない。将校でさえ、自分の部隊のことしか考えない。だが参謀は違う。全体を見て、先を読み、勝利への道筋を描く」
マルクスは窓の外を見た。
「お前には、その素質がある。経験は足りない。だが、それは戦場で学べばいい」
「……なるほど」
「それに」マルクスは少し笑った。「異界の者の知識は、時に我々の常識を覆す。お前が何を見せてくれるのか、私も楽しみにしているのだ」
そう言い残して、マルクスは部屋を出て行った。
一人になって、俺はベッドに座り込んだ。
重い。
責任が、あまりにも重すぎる。
3
翌朝、早朝の鐘の音で目が覚めた。
外では、もう訓練が始まっている。剣と盾がぶつかり合う音。号令の声。
慌てて服を着て外に出ると、一人の若い将校が待っていた。
「桐谷殿ですね。副官のルキウスと申します」
二十代半ばくらいだろうか。精悍な顔立ちで、礼儀正しい態度。
「将軍の命により、貴方に軍団の構成を説明するよう申しつかっております」
「お願いします」
ルキウスは訓練場へと俺を案内した。
「第三軍団は、総勢五千二百名。十個コホルス(大隊)で構成されています」
訓練場では、兵士たちが整然と隊列を組んでいた。
「一つのコホルスは、約五百名。さらに六つのケントゥリア(百人隊)に分かれます」
まさに、ローマ軍団の編成だ。
「武装は?」
「前列はグラディウス(短剣)とスクトゥム(大盾)。投槍兵はピルム。弓兵は約三百名。騎兵は五百騎」
古代ローマと中世の混合型だ。興味深い。
「では、戦術は?」
「基本は亀甲陣。盾を組み合わせて壁を作り、前進します」
「敵の騎兵に対しては?」
「槍衾を形成します。前列が膝をつき、盾を並べ、槍を構える」
完璧だ。
理論上は。
「実戦経験は?」
ルキウスの表情が、わずかに曇った。
「第三軍団は、三年前の南方遠征以来、大きな戦闘には参加していません。主に国境警備と訓練です」
つまり、実戦慣れしていない。
それは不安材料だ。
4
午後、マルクスに呼ばれて作戦室に入った。
大きな机の上には、詳細な地図が広げられている。
「桐谷、これを見ろ」
マルクスが指したのは、帝国の東部。山岳地帯の向こう側。
「我々の遠征目標だ。東方連合の砦、フォルティス」
「東方連合?」
「かつて帝国の属州だったが、十年前に独立した。以来、国境で小競り合いが続いている」
地図を見る。
フォルティスは、山の麓にある要塞都市。周囲を川と崖に守られた天然の要害だ。
「兵力は?」
「敵は約三千。ただし、守備に徹すれば厄介だ」
「攻城戦になりますか」
「できれば避けたい。第三軍団に攻城兵器は少ない」
マルクスは地図上の別の場所を指した。
「ここ、セルウィア峠を抜けて、敵の補給線を断つ。そうすれば、フォルティスは孤立する」
「補給線を断たれた敵は、降伏するか打って出るかですね」
「その通り。お前なら、どちらを選ぶ?」
俺は考えた。
「敵の指揮官次第です。降伏を潔しとしない者なら、総攻撃に出る可能性が高い」
「ならば?」
「迎え撃つ準備を整えておく。有利な地形で、敵の突撃を受け止める」
マルクスは満足そうに頷いた。
「良い答えだ。では、その"有利な地形"をこの地図から探してみろ」
地図を凝視する。
山、川、森、平原――
「……ここです」
俺が指したのは、セルウィア峠から少し南下した場所。なだらかな丘陵地帯。
「なぜだ」
「丘の上から敵を見下ろせる。視界が開けているので、敵の動きが把握しやすい。そして――」俺は川を指した。「背後に川がある。逃げ道がないことで、兵士たちは必死に戦う」
「背水の陣、か」
「はい。項羽の故事にもあります」
「コウウ?」
「俺たちの世界の、古代中国の武将です」
マルクスは興味深そうに俺を見た。
「お前の世界には、多くの戦いの記録があるのだな」
「はい。何千年分もの戦争の歴史が」
「それを、すべてお前は知っているのか」
「すべてじゃありません。でも、有名な戦いは、だいたい」
マルクスは腕を組んだ。
「桐谷、お前は我が軍にとって、宝だ」
「……そんな」
「だが」マルクスの表情が厳しくなった。「知識だけでは、戦場で生き延びられない」
マルクスは腰の剣を抜いた。
「これを握ってみろ」
5
渡された剣は、想像以上に重かった。
「うっ……」
「重いだろう。これでも軽い方だ」
マルクスは俺の手を取り、剣の持ち方を教えた。
「戦場では、参謀であろうと、剣を振るう時が来る。敵が陣に侵入してきた時、護衛が倒された時――お前は自分の身を守らねばならない」
「でも、俺は――」
「剣術の達人になる必要はない。ただ、最低限の自衛ができればいい」
マルクスは俺に基本的な構えを教えた。
足の位置。重心の置き方。剣の振り方。
「毎日、一時間だけでいい。訓練しろ。それだけで、生存率は格段に上がる」
「……分かりました」
その日から、俺の日課が増えた。
朝は軍団の訓練視察。
午前は地図と報告書の分析。
午後は作戦会議。
夕方は剣の訓練。
夜は、クラスメイトたちのことを考える時間。
6
出陣の前日、俺はクラスメイトたちに会うことを許された。
兵舎の一角に設けられた宿舎。男女別々の部屋だが、待遇は悪くないようだった。
「桐谷!」
麗華が駆け寄ってきた。
「みんな、無事?」
「うん。私は物資管理の手伝いをしてる。計算が得意だからって」
「山田は?」
「訓練兵になった。最初は文句言ってたけど、意外と楽しそうにしてるよ」
他のクラスメイトたちも、それぞれの配置についていた。
医療補助、書記官補佐、厨房、清掃――
みんな、この世界で役割を与えられていた。
「桐谷は、大丈夫?」担任の田所先生が心配そうに尋ねた。「参謀なんて、大変でしょう」
「まあ、何とか」
本当は、毎日が緊張の連続だ。一つ間違えれば、多くの命が失われる。
だが、それを言っても、みんなを不安にさせるだけだ。
「あのね」麗華が小声で言った。「一部のクラスメイトが、変なこと言ってるの」
「変なこと?」
「桐谷が、帝国の犬になったって」
心臓が、ギュッと締め付けられた。
「誰が」
「直接は聞いてないけど……佐藤とか、その辺のグループ」
佐藤健吾。クラスの問題児。反抗的で、教師にも反発していた。
「他にも、"帝国を倒して元の世界に帰ろう"とか言ってる子がいるらしい」
まずい。
帝国への反抗は、クラス全員を危険にさらす。
「麗華、頼みがある」
「何?」
「みんなに伝えてくれ。今は、大人しくしていろって。余計なことをすれば、全員が危険になる」
「分かった。でも……」麗華は不安そうに俺を見た。「みんな、帰りたいんだよ。家族に会いたい。元の生活に戻りたい」
「俺だってそうだ」
でも、方法が分からない。
転移してきた理由も、帰る方法も、何も分からない。
「とにかく、今は生き延びることが最優先だ。それだけは、忘れないでくれ」
7
出陣の日。
夜明けとともに、第三軍団が動き出した。
五千人を超える兵士たち。馬車に積まれた物資。整然と並ぶ隊列。
俺は、マルクスの横に馬で並んだ。
馬に乗るのも、人生で初めてだった。最初は何度も落ちそうになったが、ルキウスが丁寧に教えてくれて、何とか乗れるようになった。
「緊張しているな」
マルクスが笑った。
「初陣だ。当然だろう」
「でも、顔色は悪くない。見込みがある」
軍団は、ゆっくりと首都を出た。
市民たちが、道の両脇で声援を送る。
「第三軍団、万歳!」
「マルクス将軍、勝利を!」
華やかな光景。
だが、俺には重苦しく感じられた。
これから、人が死ぬ。
敵も、味方も。
そして、その責任の一端を、俺が負っている。
「桐谷」
マルクスが声をかけた。
「戦場で大切なのは、三つだ」
「三つ?」
「冷静さ、判断力、そして――」マルクスは前を見据えた。「自分を信じる心だ」
「自分を信じる……」
「お前の知識は本物だ。皇帝陛下の前で証明した。ならば、それを信じろ。迷いは、兵を殺す」
俺は頷いた。
「分かりました」
軍団は、東へ向かって進んだ。
道は整備されていて、行軍は順調だった。
三日後、俺たちはセルウィア峠に到着する。
そこから、本当の戦いが始まる。
8
初日の夜、野営地が設営された。
テントが整然と並び、見張りが配置され、焚き火が灯る。
俺は、マルクスのテントで夕食を取った。
硬いパンと干し肉、薄いスープ。質素だが、腹は満たされた。
「明日は、峠の手前まで進む」マルクスが地図を広げた。「そこで斥候を出し、敵の動きを探る」
「斥候は何人ですか」
「十名。精鋭だ」
「敵に発見される可能性は?」
「ある。だが、情報がなければ動けない」
もどかしい。
情報収集の手段が、限られている。
俺たちの世界なら、衛星写真やドローンがある。でも、ここには何もない。
「何か考えがあるのか」
マルクスが俺を見た。
「……一つだけ」
「聞かせてくれ」
「斥候を、二手に分けるんです」
俺は地図を指した。
「一つは正面から。もう一つは、この森を迂回して、敵の背後から」
「背後から?」
「正面の斥候が発見されても、背後の斥候が無事なら、敵の配置が分かります。逆も然り」
マルクスは考え込んだ。
「リスクが高い。背後に回る斥候は、孤立する」
「でも、情報の精度は上がります」
「……やってみるか」
マルクスは決断した。
「明日、そのように手配する」
9
翌日、斥候隊が出発した。
五名ずつ、二手に分かれて。
俺は、野営地で待った。
待つことしかできない。
無力感が、胸を締め付ける。
「桐谷殿」
ルキウスが声をかけてきた。
「将軍が、訓練場に来いと」
「訓練場?」
野営地の一角に、簡易的な訓練スペースが設けられていた。
そこで、マルクスが剣を構えて待っていた。
「来たか。手合わせをしよう」
「え、でも――」
「斥候の報告を待つ間、何もせずにいると不安になる。体を動かせ」
言われてみれば、確かにそうだ。
俺は木剣を受け取り、構えた。
「来い」
マルクスの構えには、隙がなかった。
俺は、教わった通りに踏み込んだ。
一太刀。
あっさりと受け流され、カウンターで胴を打たれた。
「っ!」
「力みすぎだ。もっと自然に」
何度も何度も、打ち込んだ。
そのたびに、防がれ、反撃される。
だが、不思議と気持ちが落ち着いてきた。
体を動かすことで、余計な不安が消えていく。
「良くなってきた」
マルクスが笑った。
「お前は飲み込みが早い」
「そんなことないです。全然、当たらない」
「当てる必要はない。生き延びればいい」
その時、報告が入った。
「将軍! 斥候が戻りました!」
10
テントに戻ると、斥候のリーダーが報告を始めた。
「敵は、フォルティス砦に約三千。ただし――」
「ただし?」
「セルウィア峠に、五百ほどの前哨部隊がいます」
マルクスと俺は、顔を見合わせた。
「峠を抑えられているのか」
「はい。通過するには、戦闘が必要です」
「敵の装備は?」
「弓兵が多い。峠の高所に陣を張っています」
最悪だ。
高所から弓で狙い撃ちされたら、大損害を受ける。
「桐谷、どうする」
マルクスが俺に尋ねた。
全員の視線が、俺に集中する。
俺は、地図を見た。
峠は狭い。正面突破は困難。
迂回路は――あるが、時間がかかる。
ならば――
「夜襲です」
俺は言った。
「夜襲?」
「敵は高所にいるため、夜間の視界が悪い。月が出る前に、精鋭部隊で奇襲をかけます」
「だが、夜の山道は危険だ」
「だからこそ、敵は警戒を緩めます。まさか夜に来るとは思わない」
マルクスは考え込んだ。
長い沈黙。
そして――
「やろう」
マルクスが決断した。
「今夜、決行する」
俺の初陣が、始まろうとしていた。
次回もお楽しみに




