転移と混乱
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1
「――え?」
目の前の景色が、ぐにゃりと歪んだ。
教室の蛍光灯が溶けるように流れ、黒板の文字が滲み、窓の外の校庭が渦を巻く。
「うわっ、何これ!?」
「地震!? 違う、これ――」
クラスメイトたちの悲鳴が耳を劈く。机が床ごと傾き、重力の方向が分からなくなる。俺――桐谷蒼太は、とっさに机の脚を掴んだ。
頭が割れそうな轟音。
視界が真っ白になって――
次の瞬間、世界が変わっていた。
2
「……は?」
最初に気づいたのは、床が土だということだった。
教室の床は、冷たいリノリウムのはずだ。なのに今、俺の手のひらに触れているのは、ざらついた乾いた大地。
ゆっくりと顔を上げる。
青い空。
石造りの柱。
遠くに見える城壁。
そして――剣を構えた、鎧姿の兵士たち。
「……嘘、だろ」
教室がそのまま、どこか別の場所に移動していた。机も椅子も黒板も、全部そのまま。ただし周囲の建物は消え失せ、俺たちは見知らぬ広場のど真ん中にいた。
「きゃああああああ!」
悲鳴が上がる。女子たちが泣き叫び、男子たちは呆然と立ち尽くす。
担任の田所先生が青ざめた顔で立ち上がった。
「落ち着いて! みんな、落ち着きなさい!」
だが、その声は震えていた。
3
兵士たちが、じりじりとこちらに近づいてくる。
三十人ほどだろうか。全員が革鎧と金属製の胸当てを着込み、楕円形の盾と短剣を携えている。統率の取れた動き。訓練された軍隊だ。
その中央から、一人の男が進み出た。
深紅のマントを羽織り、鍛え上げられた体躯。白髪混じりの髪を短く刈り込み、鋭い眼光を湛えた初老の男。腰には華美な装飾が施された長剣。明らかに指揮官クラスだ。
男が何か言った。
聞き取れない。言語が違う。
だが、その声音には威厳があった。
「え、ええと……」田所先生が震える声で言った。「私たち、敵意はありません。ただ、突然ここに……」
兵士たちが盾を構える。
まずい。
俺は直感した。このままでは――
「待って!」
俺は立ち上がり、両手を高く掲げた。
「武器は持ってない! 俺たちはただの学生だ!」
当然、言葉は通じない。
だが、ジェスチャーは伝わったようだ。指揮官が手を上げ、兵士たちの動きが止まる。
男の鋭い視線が、俺を捉えた。
値踏みするような目。
そして男は、ゆっくりと口を開いた。
「……ウァレティウス帝国、第三軍団長、マルクス・アウレリウス・グラディウスである」
流暢な日本語だった。
4
「え……」
クラス中が、息を呑んだ。
「言葉が……通じる?」
「なぜ日本語を?」
ざわめきが広がる。
マルクスと名乗った男は、表情を変えずに言った。
「我々の世界では、"異界の者"が使う言語は、自動的に理解できるようになっている。これは神々の加護によるものだ」
異界の者。
つまり、俺たちのことか。
「あなたたちは、何者だ」マルクスは問うた。「なぜ、皇帝陛下の居城近くに突如出現した」
田所先生が答えようとしたが、言葉に詰まる。
俺は一歩前に出た。
「俺たちは、日本という国から来た学生です。意図してここに来たわけじゃない。突然、教室ごと転移してきた」
「転移……」マルクスは眉をひそめた。「魔術の類か」
「分かりません。でも、俺たちには何の力もない。ただ――」
俺は周囲を見回した。
石造りの建物。遠くに見える巨大な城壁。整然と並ぶ兵士たち。そして、その背後に広がる広大な都市。
「ここは、どこですか」
マルクスは短く答えた。
「ウァレティウス帝国、首都カピトリア。世界の中心にして、皇帝陛下が君臨する永遠の都だ」
5
その後、俺たちは「保護」という名目で、兵舎に連れて行かれた。
実質的には拘束だ。
広い石造りの部屋に、クラス全員が押し込められた。窓には鉄格子。出入り口には武装した兵士が二人、常に見張っている。
「どうなっちゃうの……」
「家に帰れるのかな……」
女子たちが泣いている。男子たちも、半分はパニック状態だ。
田所先生は必死にみんなを落ち着かせようとしているが、自分自身が動揺を隠せていない。
俺は部屋の隅に座り、状況を整理した。
事実:
クラスごと異世界に転移した
ここはウァレティウス帝国という国
軍隊に保護(拘束)されている
言語は自動翻訳される
帰る方法は不明
推測:
中世ヨーロッパ風だが、組織はローマ帝国的
兵士の装備は古代ローマのレギオン(軍団)に酷似
マルクスは高位の将軍。第三軍団長という肩書き
「異界の者」という概念が存在する = 過去にも転移者がいた可能性
懸念:
敵対勢力と見なされる可能性
奴隷として扱われる可能性
クラス内でパニックが広がり、集団としての機能が失われる可能性
最悪のシナリオを想定しておくべきだ。
「……桐谷」
声をかけられて顔を上げると、クラス委員長の白石麗華が立っていた。
成績優秀、スポーツ万能、誰からも信頼される優等生。こんな状況でも、彼女は冷静さを保っていた。
「みんな、パニックになってる。先生も限界みたい」麗華は小声で言った。「あなた、こういう状況、ゲームとかで慣れてるでしょ? 何か、アドバイスない?」
俺は苦笑した。
「ゲームと現実は違うよ」
「分かってる。でも、何もしないよりマシでしょ」
麗華の目は真剣だった。
俺は少し考えてから、言った。
「まず、パニックを抑えること。全員が冷静にならないと、交渉もできない」
「どうやって?」
「情報を整理して、みんなに伝える。"分からない"が一番怖い。今分かっていることと、分からないことを明確にする」
麗華は頷いた。
「それから」俺は続けた。「向こうの意図を探る必要がある。俺たちを敵と見ているのか、それとも別の何かと見ているのか」
「どうやって?」
「多分、もうすぐ向こうから接触してくる。その時に――」
扉が開いた。
マルクスが、二人の兵士を従えて入ってきた。
「話がある」
低い声が、部屋を静まらせた。
6
「皇帝陛下が、お前たちに会いたいと仰っている」
マルクスの言葉に、室内がざわついた。
「皇帝……?」
「何のために?」
「俺たち、何もしてないのに……」
マルクスは手を上げ、静寂を求めた。
「お前たちは、"異界の者"だ。過去の記録によれば、異界の者は時に、この世界にない知識や力を持っている」
やはり、過去にも転移者がいたのか。
「陛下は、お前たちがどのような存在なのか、知りたいと考えておられる。特に――」
マルクスの視線が、教室を見回した。
「戦える者はいるか」
沈黙。
誰も答えない。
「剣を扱える者。弓を射ることができる者。魔術を使える者。戦場で役に立つ技能を持つ者はいるか」
また沈黙。
当然だ。俺たちはただの中学生だ。剣なんて触ったこともないし、魔術なんて使えるわけがない。
「……いない、と」
マルクスは、わずかに失望したような表情を浮かべた。
「では、他の技能は? 治癒の術、鍛冶、建築、学問――」
「待ってください」
俺は立ち上がった。
マルクスの視線が、俺に向けられる。
「何だ」
「戦えるかどうかは分かりません。でも、知識ならあります」
「知識?」
「俺たちの世界の歴史、戦略、技術。もしかしたら、この世界では知られていないことがあるかもしれない」
マルクスは興味深そうに俺を見た。
「具体的には?」
俺は一瞬迷ったが、言った。
「例えば、軍団の布陣。この兵舎に来る途中、外の訓練場が見えました。あなたたちの軍は、ローマ軍団に似ている」
「ローマ?」
「俺たちの世界にあった、古代の帝国です。彼らは三列陣形を基本とし、ハスタティ、プリンキペス、トリアリィという三段階の配置で――」
「待て」
マルクスが手を上げた。
その目には、驚きと興味が混じっていた。
「お前、それをどこで学んだ」
「本とゲームです」
「本と……ゲーム?」
マルクスは困惑したようだったが、すぐに表情を引き締めた。
「お前の名は」
「桐谷蒼太です」
「桐谷、か」マルクスは俺をじっと見つめた。「明日、皇帝陛下の前で、その知識を披露してもらう。期待しているぞ」
そう言い残して、マルクスは部屋を出て行った。
7
扉が閉まった後、クラス中の視線が俺に集中した。
「桐谷……お前、何やってんの」
サッカー部の山田が、呆れたように言った。
「目立ったら危ないだろ。大人しくしてた方が――」
「大人しくしてたら、どうなると思う?」
俺は静かに言った。
「俺たちは、何の価値もない異界の者だ。戦えない、魔術も使えない、特別な技能もない。そんな存在を、この国がどう扱うと思う?」
沈黙。
「最悪、奴隷か捨て駒だ。そうならないためには、俺たちが"使える"存在だと示さないといけない」
「でも……」麗華が心配そうに言った。「もし、その知識が使えなかったら? 皇帝に失望されたら?」
「その時は、別の手を考える」
俺は窓の外を見た。
夕陽が、異世界の空を赤く染めている。
「とにかく今は、生き延びることが最優先だ」
その夜、俺はほとんど眠れなかった。
明日、皇帝の前で何を話せばいいのか。
どうすれば、クラス全員の命を守れるのか。
答えは出なかった。
ただ一つだけ、確信していたことがある。
この世界は、ゲームじゃない。
現実だ。
そして、現実には、リセットボタンがない。
8
翌朝、俺たちは宮殿に連れて行かれた。
白亜の大理石でできた巨大な建造物。柱の一本一本に精緻な彫刻が施され、天井には神々の絵が描かれている。
古代ローマのパルテノン神殿を思わせる壮麗さ。
だが、その美しさが、かえって不気味だった。
この世界の技術レベルで、どうやってこんなものを?
「進め」
兵士に促され、俺たちは謁見の間へと導かれた。
広い。バスケットコートが三つは入りそうな空間。
そして、その奥の玉座に、"彼"はいた。
9
皇帝ガイウス・ウァレティウス・カエサル。
金の王冠を戴き、深紅のローブを纏った中年の男。整った顔立ちだが、その目には冷たい光が宿っている。
「これが、異界の者どもか」
皇帝の声は、意外なほど若々しかった。
「はい、陛下」マルクスが膝をついて答えた。「昨日、首都近郊に突如出現した者たちです」
「ふむ」
皇帝は、退屈そうに俺たちを眺めた。
「どれも、貧弱な体つきだな。武器も持たず、鎧も着ていない。これで戦えるのか?」
「それが……」マルクスが俺を指した。「この少年が、戦略の知識を持っていると申しております」
皇帝の視線が、俺に向けられた。
「ほう。お前か」
「はい」
俺は頭を下げた。敬意を示しておいた方がいい。
「面白い。では、試してみよう」
皇帝が指を鳴らすと、兵士が大きな地図を持ってきた。床に広げられたそれは、この帝国とその周辺国を描いたものらしい。
「ここだ」
皇帝が地図上の一点を指した。
「北方の蛮族が、国境を侵している。我が第五軍団が迎撃に向かっているが、苦戦しているという報告が上がってきた」
地図を見る。
山岳地帯。川が二本、複雑に入り組んでいる。
「第五軍団は、ここで敵と対峙している」
皇帝が示したのは、川と山に挟まれた狭い平地。
まずい配置だ。
「お前なら、どうする」
皇帝が俺を見た。
試されている。
ここで無能だと判断されたら、クラス全員が――
俺は深呼吸をして、地図に目を落とした。
冷静に。
これはゲームだ。いや、ゲームじゃない。でも、考え方は同じ。
地形を読む。
敵の配置を予測する。
補給線を考える。
「……この位置では、第五軍団は不利です」
俺は言った。
「なぜだ」
「川に挟まれているため、側面からの攻撃に弱い。もし敵が渡河してきたら、挟み撃ちにされます」
「では、どうすべきだった」
「後退して、この平原で戦うべきでした」俺は別の場所を指した。「ここなら視界が開け、軍団の機動力を活かせる」
皇帝は黙って聞いている。
「そして――」俺は続けた。「もし私が敵の指揮官なら、川を渡らず、この山道を使います」
別のルートを指で辿る。
「迂回して、第五軍団の背後を突く。補給線を断てば、戦わずして勝てます」
沈黙。
長い沈黙。
そして――
「面白い」
皇帝が笑った。
「マルクス、どう思う」
「……的確です、陛下」マルクスが答えた。「実際、昨夜入った報告では、敵が山道を使って迂回を試みているとのことでした」
「ほう」
皇帝の目が、興味深そうに輝いた。
「お前、名は」
「桐谷蒼太です」
「桐谷。気に入った」
皇帝は立ち上がった。
「お前を、マルクスの副官とする。第三軍団の参謀補佐だ」
「え……」
「断る理由があるか?」
皇帝の声には、有無を言わさぬ威圧感があった。
「……ありません」
「よろしい」
皇帝は満足そうに頷いた。
「他の者どもは、それぞれ適性を見て配置する。使える者は使い、使えぬ者は……まあ、それなりに」
それなりに、という言葉が、不吉に響いた。
「では、マルクス。この少年を連れて行け。第三軍団は三日後、東方への遠征に出る。その準備を整えよ」
「御意」
こうして、俺の異世界生活は始まった。
望んだわけでもない。
選んだわけでもない。
ただ、生き延びるために。
俺は、帝国軍の参謀となった。
次回もお楽しみに




