第3章 動き出した過去
夜勤という初めての世界に足を踏み入れた主人公。
仕事に慣れ始めた矢先、静かに、しかし確実に“何か”が動き出す。
あの日の夢の記憶を避け続けてきた彼は、やがて思いもよらない過去と向き合うことになる。
あの日の夢から、数か月が経った。
俺はあれ以来、夢の内容を思い出さないように、ひたすら仕事に打ち込んでいた。
仕事にもようやく慣れてきた頃、市長に呼び出された。
「汐原さん。もう仕事にも慣れてきた頃だと思うから、夜勤やってみない?」
「はい。やってみたいです。」
「最初の二回くらいまでは、先輩の後ろについていく“カルガモ”みたいな感じで大丈夫だからね」
そう言われて、少しほっとした。
初めての夜勤の日。
俺はこれまで病院に泊まったことがなく、少しワクワクしていた。
病院に到着すると、先輩たちが笑いながら声をかけてくる。
「初めての夜勤、頑張ってね。今日は“出なきゃ”いいね。」
「出るわけないですよ。幽霊なんて信じてませんから」
そう強がって返した。
先輩たちから日勤帯の患者の様子を聞き、プリセプターの先輩のもとへ向かう。
「申し送り、聞いた? 一応、夜勤の流れも簡単に説明しておくね。」
「はい! 聞きました。よろしくお願いします!」
説明を受けた後は、夕食の準備や薬の配薬などであっという間に時間が過ぎ、気づけば消灯の時間になっていた。
先輩が嬉しそうに言う。
「さあ、病棟内を回ろうか。まだ明るいし、一人で行けそう?」
「はい、大丈夫です。」
「よかった。まだ寝ていない患者さんもいると思うから、『消灯時間ですよ』って声をかけてね。病室の電気だけ消してきて。廊下の電気は、戻ってきたら一緒に消すから。もし何かあったら呼んで。」
「了解です。」
先輩と二手に分かれ、患者の様子を見ながら病室の電気を消して回る。
北野さんの病室に入ると、彼女はベッドの上で何かを書き物をしていた。
「北野さん、就寝時間です。電気消しますね」
「もう少し待ってくれ。今、神様のお告げを聞いているんだ。終わったら必ず消すから、お願いだ」
「分かりました。約束ですよ」
そう言って次の病室へ向かう。
全ての部屋の電気を消し終えたとき、ふと思った。
――今は廊下の電気がついているからまだいいけど、これが全部消えたら……絶対無理だ。
その後、ナースステーションに戻り、廊下の電気をすべて消す。
あまりの暗さに、「俺、次は絶対ひとりで回れない」と心の中で絶望した。
見回りの時間になり、懐中電灯を片手に病室を一つずつ確認していく。
俺は情けないことに、先輩の後ろをずっとついて回るだけだった。
夜の病院が、こんなにも怖いものだとは思わなかった。
朝になり、日勤の職員がやって来た。
「おつかれ。初夜勤どうだった?」
「怖すぎて、ずっとプリセプターの先輩のあとをついて回ってました。」
そう照れながら答えると、先輩たちは大笑いした。
俺はその日、逃げるように病院をあとにした。
数日後、日勤で出勤したとき、先輩に呼び止められた。
「汐原さん、大変だよ」
「どうしたんですか?」
「北野さん、亡くなった」
「え……!? いつですか?」
「汐原さんが夜勤した次の日の夜。
『QRコードを全部集められたら願いが叶うんだ。QRコードを集めてくれ。』
って家族に言ったのが、最後の言葉だったみたい。」
その瞬間、背筋が凍った。
――まるで、俺に言っているみたいだったから。
夜になり、家に帰ると美味しそうな匂いが漂ってきた。
「ただいま。」
「おかえり。今日は栗が安かったから、栗ご飯にしたのよ。」
「マジで?やった!」
夕食を食べながら母さんと今日の出来事を話していると、妹が声をかけてきた。
「お兄ちゃん、地理得意? 課題で経度と緯度の問題が出たんだけど、よく分からなくて教えてほしい。」
「問題を見てみないと分かんないな。ご飯食べ終わったら見せて。」
「うん、わかった。ありがとう。」
母さんが笑いながら言う。
「ありがとうね。私も教えようとしたけど、さっぱりで。……あ、そういえば、亡くなった方って何か最後に言ってたりしたの? ドラマでよく見るじゃない? ちょっと気になっちゃって。」
「QRコードがどうとか言ってたみたいだよ。俺、妹の部屋行ってくるわ。」
階段を上がる途中、母さんが誰かと電話しているのが見えた。
お父さんかなと思いながら、妹の部屋へ向かう。
ドアをノックして言う。
「お待たせ。宿題見せて。」
ドアが開き、部屋に入る。
「この問題をまず教えてほしいんだ。」
「ここはこうやれば解けるよ。」
「あー、そっか。」
妹が少し顔を上げて言った。
「あと応用問題で、“家の緯度と経度を調べろ”ってあるんだけど、ネットで調べたら数字がいっぱい出てきたの。」
「数字?」
「うん、ほらこれ。」
妹のスマホの画面には、家の場所とたくさんの数字が表示されていた。
「あの数字は……建物の位置を表してたのか。」
「どうしたの? 一人でブツブツ言って。」
「え? あ、いや、ごめん。こう書けばいいよ。」
「ほんと? なーんだ、簡単じゃん。ありがとう。おかげで終わった!」
「よかった。じゃあ、俺自分の部屋に戻るわ。」
部屋に戻ると、鍵をかけた引き出しを開けた。
もう二度と開けることはないと思っていたが――。
紙に書かれた数字を入力すると、ある病院の名前が表示された。
「……ここに何かあるのか? 明日仕事休みだし、行ってみるか。」
翌日。
ナビに病院の住所を入力すると「車で30分」と表示された。
「まあ、ドライブだと思えばいいか。」
病院に着いたが、平日だったせいで駐車場がいっぱいだった。
ようやく空きを見つけ、車を停めて建物へ向かう。
その時、背後から声をかけられた。
「汐原君? 大きくなったね。私のこと覚えてる?」
振り返ると、優しそうな女性が立っていた。
「ごめんなさい。俺、幼い頃の記憶がなくて。」
「ああ、そうだったね。私、汐原君が入院してた時に看護をしてたの。」
「ここじゃあれだし、よかったらお昼一緒にどう?」
「ぜひお願いします。子どもの頃の話、聞きたいんで。」
「じゃあ、近くのカレー屋さんね。ここのカレー美味しいのよ。」
「カレー好きなんで嬉しいです。了解です。」
店に着き、メニューを眺めていると、彼女が「店長、いつもの二つお願い」と言った。
奥から「はいよ、ちょっと待ってな」と声が返る。
「今いくつになったの?」
「22です。」
「大きくなったね。病院で初めて会った時は、4歳だったのに。」
「俺、なんで入院してたんですか?」と尋ねると、彼女は少し言葉を選びながら話し始めた。
「潤君には、いつも一緒にいた2歳上のお兄ちゃん、健君がいたの。二人は本当の兄弟みたいに仲良くてね。でも……18年前の地震で、全てが変わってしまったの。遊んでいる時に地震が起きて、避難しようとした瞬間、建物が倒壊して健君が下敷きになったのよ。潤君は急いで大人を呼んできてくれて、救急車を呼んだけど健君は――間に合わなかった。潤君はそのショックで、記憶を失ってしまったの。」
気づけば、頬を涙が伝っていた。
彼女は何も言わず、ハンカチを差し出した。
「すみません、お借りします。」
涙を拭うと、ちょうどカレーが運ばれてきた。
店員が笑いながら言う。
「なんだ、おばさんにいじめられたか?」
「おい、おばさんじゃなくて“お姉さん”だからね!」
そのやり取りに、思わず笑ってしまった。
カレーを食べながら、他愛もない話をした。
「ご馳走さまでした。ハンカチ、洗って返しますね。」
「いいのよ。返さなくて。それと……潤君、これ。」
白い封筒を手渡された。
「なんですか?」
「家を片付けてたら見つけてね。“潤へ”って書いてあったの。渡しておくわ。」
「ありがとうございます。」
「気をつけて帰ってね。またね。」
彼女と別れ、車に乗る。
「カレー、美味しかったなぁ。……この封筒、なんだろう?」
気になって封を開けると、中には二枚の紙が入っていた。
一枚目は、QRコードの一部。
もう一枚には、雲の中を突き進むカラスの絵が描かれていた。
――これは、いったい何を意味しているんだろうか。
物語を通して描かれたのは、恐怖でも謎でもなく、記憶と向き合う勇気だったのかもしれない。
主人公が拾い集めた小さな断片が、読む人それぞれの心にも何かを残せていれば嬉しい。




