第14話 「濁流」
教室には夕日が差し陰影を形作っていた。
その影は暗く、粘菌が動いているような重苦しい気配がした。
「そう、もっと思いのたけを書きなぐるといい——。」
そういうと男は女性の肩にそっと手を置き耳元で何かをささやいている。
その陰からは暗い影が伸び、闇と同化していた。
まるで、闇から浮き出たようなその姿は輪郭がぼやけている。
その声だけがざらついた質感をともなって脳裏に刻まれてくる。
空気は湿り気を含み湿った布のように体に張り付いてくる。
「さあー・・・、何も心配しなくていいよ、
全ては受けとめ流してあげるから。」
そのささやきを聞いた女子生徒の眼は、光なく——
まるで空洞のようにそこに穴をあけているだけだった。
その声に促されるまま、女生徒はキャンバスに色を乗せていく——
その一筆一筆が、絞り出したような筆の運びをしている。
まるで心の奥底から魂をぶつけるようだ・・・・。
その筆の運びが一つの像を形作っていく。
その像が満たされていくにしたがって、教室の闇が広がり濃くなっていく。
湿った気味悪い感覚の空気が重く体に張り付いてくる。
その様子を満足そうに見つめながら、男は引きつった笑いを口元に浮かべている。
男更に何かを促そうと女生徒の耳元で何かを囁こうとした。
その時、バリバリ———!
まるで、稲光が走ったような衝撃と音が教室に走った。
それと同時に教室を包んでいた闇が切り裂かれる。
裂け目は眩しい青白い光をたたえている。
その裂け目から新鮮な空気がなだれ込んできた。
ひんやりとした心地よい清涼感が流れ込んできた。
激流の様なその清流は、教室の重苦しい空気を吐き出していく。
男の輪郭が光に照らされ鮮明になる。
そして男が、その眩しさに顔をしかめ、裂け目を振り返る。
その時、光と共に裂け目が更に明け広げられた。
「先生よろしいでしょうか。」
落ち着き、潤いのある張りのきいた声が教室中に響いた。
その声は、音叉のように教室の空気を震わせた。
それに合わせて教室の闇は収束した。
まるでブラックホールに吸い込まれたように、闇は収束し何もかもかき消えた。
あとに残されたのは、静寂と夕日に浮かぶキャンパスだけだった。
女子生徒がはじかれたように、顔を上げた。
その眼は先ほどとは打って変わって生気に満ちた光を携えている。
「先生、私今何をして・・・・・・。」
「もう今日は帰りなさい、疲れたのだろう。」
男は、先ほどとは打って変わって甘い優しい声で話しかけた。
促されるまま女子生徒は荷物をまとめ教室を出ていった——。
「どうぞ、入って下さい。」
女子生徒がいなくなると男はそう促す。
美琴は、大きく息を吸い、呼吸を整えると慎重に教室に足を踏み入れた。
「驚きました。こうも堂々と学校で、
生徒の魂を黄泉に吸わせるような真似をしているなんて。
一体何が目的ですか——。
柳原先生。」
美琴ははっきりと相手の名前を呼んだ。
その名前に意味があるとは思えない。
ひょっとしたら偽名かもしれない。
そう思ったが今は考えている時ではなかった。
まごついているよりも、直接本人と対峙してみようと美術室を訪れたのだが・・
その時まさに呪詛が行われているとは思いもよらなかった。
美術室には結界の様なものが出来ていて、
余人では入り込めないようになっていた。
そこで美琴は無理やり入り込んだわけだ———。
改めて男を正面から見据えた。
黒い影は鳴りを潜めている。
しかし、その瞳の奥底は、そこはかとなく黒い闇をたたえている。
時折その輪郭はろうそくが揺らぐように揺らいでいる。
「この男は、実在するのか?
ひょっとしたら、この男自体が、
黄泉から現れた亡者その者なのではないのか?」
そんなことを考えながら、
美琴はゆっくりと呼吸を整えながら相手と対峙した。
片時も相手から視線を外すことはない。
いつでも対応できるように気を張っている。
「何か、勘違いしているようだね。
僕は、生徒をどうこうしようなんて思ってもいないよ・・・・。
だた、その思いの行きつく先を示してあげているだけさ。
導いてるんだよ。」
その無責任な言葉に美琴は憤った。
「はあ、みんな黒い水鏡のせいで衰弱しきってるのに!
何を言ってるの。」
男は薄く笑いを浮かべたままこちらを見ている。
その瞳では黒い光が焔のように燃えている。
滑稽だといわんばかりに男は高笑いをしながら、言葉をつづけた。
「君は、何にも知らないんだね——。
僕は、ただ生徒の強い思いをくみ取って、流してあげただけ——。
それが何色かなんて僕が決めたことじゃない。
皆、自分の欲求に浸りたかったのさ——。
そしてその思いに満たされたかった。
だから僕が導いてあげただけ。
僕は、迷える子羊たちに、道を開いてあげただけじゃないか。
皆僕と同じく、苦しんでいた。
僕はね、かつて彼らのように虐げられたのさ——。
あの時の苦しみなんて誰にも分らない・・・。
分かってもらえなかったのさ。
だからその思いを開放してあげただけ。
皆、気持ちよかったと思うよ。」
「この、外道が!」
美琴は思わず大声を張り上げていた。
「お前が、黒い濁った感情が高まるように誘導したんじゃないか。
皆、純粋に助けを求めていただけ、
何かにすがりたかっただけなのに——。」
「く、くくく、は、ははは!」
男は突然高笑いを始めた。
「何が悪い、人の欲望を流れる方に後押ししてやっただけのこと。
その結果、水鏡は黒く濁り闇に傾き、
黒い底なし沼に飲まれていく!
それも、望んだことだろう。
そうして、現世と黄泉が深いところでつながれば、
人は苦しみから解放される。
それでいいじゃないか——。」
男の周りで黒い影が浮き出している。
それはまるで触手のように蠢き体を覆った。
そして男は、黒い夜叉へと変貌していった——。
さらに、周りの空間も侵食しはじめた。
黒い闇が教室を覆うように渦巻いている。
「させない、ここで断ち切る!」
美琴はそう叫ぶと素早く印を結んだ。
そうして祝詞を唱えていく、
「イザナミノミコトの御前に、かしこみかしこみ申す———
黄泉の国より湧きし穢れ、御身力によりて鎮め、払い、清めたまえ——。」
祝詞を唱え印を結ぶ、美琴の体が青白い光の帯に包まれていく。
まるでそれは羽衣のように美琴を覆った。
神々しい光が闇と対峙していく。
両者は拮抗している。
いつしか、教室は現世とは切り離された空間へと飛んでいた。
その現世と黄泉との境界、幽世とも呼ぶべき場所で両者は対峙していた。
激しい光と闇の押し合いが繰り広げられる。
気を抜くと、まるで激しい濁流にのまれたように吹き飛ばされそうになる。
両腕を大きく前に突き出し、さらに祝詞を唱えていく。
自分の中で清流が湧き上がってくる。
やがてそれは大きな流れとなって美琴から噴き出した。
「せい——。」
まるで、蛇口を一気に開放し最大にするように自分の中の力を開放していく。
激流が自分を通り抜けて排出されていく。
気が付けば、美琴の背後に大きな水鏡が出現している。
その水面は、どこまでも澄んでいて遥か彼方まで見通せるようだ。
その色は明るい緑翠色をたたえている。
底の見えないその水面は全てを優しく包むような静けさをたたえている。
美琴はその水鏡にそっと触れた。
ひんやりした、心地よい清涼感が伝わってくる。
意識を水鏡に集中する———。
美琴の中に清らかな光の束が流れ込んでくるのが分かった。
「それは、体中を駆け巡りやがて大きな光の渦となって美琴の周りにあふれていく。」
やがてそれは大きな球体となって美琴の周りに展開していった。
「な、なに、押し切れない・・・、これほどの力とは・・・。」
反対に苦悶を浮かべる柳原、その表情は夜叉となり壮絶を極めている。
美琴は、かっと目を見開いた。
「払いたまえ、清めたまえ!」
そう叫ぶと両手の平を額の前でクロスさせる。
球体の光が収束していくのが分かる。
収束した光が一本の剣を形作っていく。
光り輝くそれは7本の切っ先に枝分かれし、神々しい光を放っている。
刃は一条の光を思わせ、刀身は白銀の中に虹色の光を放っている。
美琴はしっかりその七星刀を握ると、渾身の力で振り下ろした。
「7つの切っ先から青白い光が放たれた———。
そして、それは迫りくる闇を紙のように切り裂いた。」
あたりが、青白い光で満たされていく。
光が闇を塗りかえ、心地よい静寂があたりを包む。
その中で、頭から唐竹割に断たれた夜叉が、
まるでスローモーションのように崩れ落ちた。
その瞬間、あたりは眩い光に包まれると空間は割れ、
幽世は散り散りに割れて粉雪のようにかき消えていく。
そして、現世へとつながっていった。
完全に教室に戻ると日はとっくにくれ、心地よい闇が包んでいる。
その中で、光をたたえた水鏡が中空に浮かんでいる。
その水鏡に向かって、教室に置かれた、たくさんの書きかけの絵から光が吸い込まれていく。
いろいろな色、本来は黒一色ではなく様々な色を含んでいる。
その光一つ一つから、切実な願いを感じ取れる。
それらは、昇華できなかった思い。
そして、絵という形を得ることで現世にとどまり、
そこに黄泉との繋がる入り口である水鏡を生んでしまった。
本来、水鏡は単なる入り口、その色もまた様々であってしかり。
しかし、誘導されることで黒一色に塗りかえられてしまった。
「最も信頼した教師によって思春期特有の揺れ動く感情を操られたのだ——。」
水鏡に向かって蛍のように立ち上っていく光を見ながら美琴は言い知れない切なさにさいなまれていた。
美琴が、美術室での戦いを終え一応の決着を見たそのころ。
別室では蠢く黒い二人の影があった。
不気味な黒い影が二つ絡み合うように立っている。
その輪郭はぼやけ、夜の闇に溶け込んでしまいそうだ。
「柳原先生駄目だったようですね。」
「まあ、いいさ・・・。かなりの魂魄を集めてくれた。
よしとしないと。」
そう密談する二人の足元では大きな黒い水鏡が渦を巻いて蠢いていた。
むっとする臭気を漂わせ、ぶくぶくと大きな泡をたたえている。
その渦の中央では、黒光りする大きな目がこちらを見据えていた。
その眼は闇の中より何かを訴えかけているようで、目が合うと心臓を鷲掴みにされたようなぞっとした悪寒にさいなまれる。
黒い影たちはそのまま揺らぐと夜の闇に溶け込むように消えていった。




