第12話 遭遇
美琴は、思いつきを実行に移すために、昔の古い記憶を呼び起こしていた。
「お魚さんはね、美琴が心から呼びかけたら必ず聞いてくれるんよ。
どんなお魚さんがいいかな・・・。
金ぴかのが良いかな——。
思い浮かべてごらん。
心で呼びかけるんよ。」
幼いころに聞いた祖母の声が思い出されてくる。
遊びに交じって聞いた、困ったときに助けになるおまじないの一節だ。
美琴は自分に言い聞かせた。
誰もいなくなった体育館の真ん中で、震える両腕を無理やり折り曲げ、こわばる指を両手で無理やり形作るように美琴は印を重ねていた。
空気は冷たく澄んでいて、薄暗い照明が美琴の姿を闇に浮き上がらせていた。
心臓が鋼のように激しく打ち鳴らされている。
自分の中でその音が聞こえるのではないかというくらいだ。
美琴は、高ぶった感情を鎮めるようにゆっくりと息を吸いこんだ。
冷たい空気が肺へと流れ込み、やがてその渦は冷たい水気となって体からあふれ出ていく。薄く目を開け気分を整えたまま自分の中の流れだけを感じ取て行く。
指先や足などの末端の感覚が消えていき、全身を流れる渦と意識が一体化していく。
その中で、美琴はゆっくり祝詞を唱えた、
「かしこみかしこみ申す—イザナミノ尊におかれましては 千々和の魂を集め 愛で 遥か高天原に詣でる神々の御前に導きたまえ 払いたまえ清めたまえ——」
祝詞の一節を奉じながら、美琴は心の中で雷魚の象を結んだ。
それは、漆黒の闇の鱗を持ち、沼の底を思わせる沈んだ大きな黒い瞳を持っていた。
美琴は水気の流れと化した自身の心の中でそれを泳がせた。
そしてその像をより強くはっきりと大きく意識していく。
その鱗の刺すような冷たさ。その表面はぬめっとした粘膜に覆われ、指に絡みついてくる。
そしてその眼は、魂を映し出すように心の奥底を覗いてくる。
美琴の心の中の像がその体をくねらせ大きく跳ねる。
その時、体育館の中央の空間に一滴の波紋が走った。
何かを告げるようなその大きなゆっくりとした波紋は、だんだんその間隔を狭めていく。
それに従って、波が大きくざわめいていく。
大気が凍り付いたように冷たくなっていく。
波がざわつくたび滑っとした質感が肌に伝わってくる。
そこに現れ始めた水鏡は、まるで底なし沼のように見えた。
それは冥府が口を開いたかのような濁った色だった。
そのまま見ていると捕らわれ吸い込まれてしまいそうな感覚になる。
その中で、大きな何かが蠢いている。
「きた」
美琴の思った通り、学校という独特の空間が檻となりこの現世に出る際は学校の中だけに捕らわれているのだ。
美琴は確信していた。
「学校は異質な空間だ。」
しかし、この中だけに捕らわれるには何かの因果があるはずだ。
もしくはそうさせた何か、誰かがいるはずだと思った。
美琴は、雷魚に集中し直した。
それは、滑っとした黒光りする鱗に覆われ、不気味に輝いてる。
それが動くたびに、冷気が漂うように空気が凍り付いていく。
ゆっくりと水面に上がってくるにしたがって凍り付いた空気が重くのしかかる。
そして、水面よりギイギイという耳障りな音が響いてくる。
その像が心の中で跳ねたその瞬間——
美琴はその全身が暗い水鏡より躍り出るのをみた。
巨大なその体は、体育館いっぱいに広がった黒い水鏡の中を飛び跳ねている。
飛び跳ねるたびに、鈍い雷光が走る。空気には振動が走り、ビリビリと建物を震わせている。普通の人間では立っていることができないほどの重圧が体育館全体に広まる。
美琴の体には青白い帯の様な印が浮かび始めた。
羽衣のように体を包んだそれは、ゆっくりと雷魚の方へ伸びていく。
淡く眩しい光が、月光のようにその黒い体を優しく包み込んだ。
光の衣を通じて、美琴と黒い巨大な雷魚は繋がっている。
美琴は雷魚に問いかけた。
「お前の見てきたものを見せてごらん。」
そう念じた。
美琴の脳裏に映像が流れ込む。
思いを寄せる少年にぞんざいな扱いを受け、傷つき悲しむ情景・・・・。
成績が上がらず、進路に悩む少年、部活でレギュラーになった友に嫉妬する少女。
様々な情景が美琴の脳裏に流れ込み消えていく。
やがて、一つの情景が見えてきた、
学年一位の座を奪われ苦悩する少年、そしてそれを奪った少年を嫉妬と羨望が混在した心で見上げる少年。
中野だ、今まで見てきた情景は、どれも負の感情に近い色あせた感情だった。
しかし、決してそれ自身が黒いまがまがしさを放つものではなかった。
どこで変わったのだ。
美琴の意識はさらに深く潜っていく。
「思い悩む中野の心の隙間、そこに黒い稲光が走る。
そして、亀裂から大きな影が染み込むように入り込んでくる。
その影はぼんやと人の形を形作る。
その影はささやく、君は悪くない、悪いのは君を塗りつぶそうとする者だ——。
そんなものは、君の色で塗りつぶしてしまえ———。」
その言葉はまるで音叉のように二重にダブって聞こえる。
それは、言葉を紡ぎながら同時に鐘のように響いてくる。
その響きは、どす黒い軟体動物のように広がり中野の心を侵食していく、
「これは・・・・呪だ———。」
全ての色を塗りかえる黒。
この呪をかけた影は全てを黒一色で塗りつぶそうとしている。
その言葉の裏で響く鐘、その響きに耳を凝らす。
それはぞっとするようなくぐもった声で、古の呪を唱えていた。
美琴の頭の中で、天地が万華鏡のように周り蠢いている。
意識がだんだんと希薄になってくる。
美琴を包んだ光が徐々にその光を失い、その衣がくすんだ灰色に染まっていく。
びくびくと、黒い雷魚が震えている。
その表面は何とも言えない生暖かい感覚がする。
周りの空気もそれに合わせて生暖かくむっとしたような熱気に包まれていく。
まるで巨大な沼に包まれているような感覚だ。
やがてそのまとわりつくような感覚で全身が麻痺してくる。
雷魚が全てを飲み込むような黒い大きな目で、じっとこちらを見据えている。
「もうこのまま飲まれていたい・・・・。」
美琴がそう思った時、何かを突き破るような音と共に、体育館の空間を切り裂いたものがあった。
それは一筋の雷光となって美琴めがけて飛び込んできた。
美琴に体に飛び込むと、再び激しい稲光を周囲に振りまいた。
「駄目、起きないと——— 。
穢れを、清め、払いたまえ———。」
美琴はその稲光に、打たれ正気に戻った。
そおして、再び祝詞を唱える。
「イザナミノミコトの御前に、かしこみかしこみ申す———
黄泉の国より湧きし穢れ、御身力により鎮め、払い、清めたまえ——。」
同時に、水気の水流が爆発的に膨れ上がっていく。
青白い光の衣がまるで七星刀のように縦横に走る。
それは、黒い水鏡に突き刺さりその闇を切り裂いていく。
「おおお———」
いつしか美琴は声を上げ、両手に握られた七星刀を振り上げていた。
その刀から発せられた光は黒い水鏡を浄化していった。
そしてその中で泳ぐ黒い巨大な雷魚に突き刺さると、その鱗が割れ始めた。
バリバリと音を立てながら割れていく。
そしてその下からは、七色に輝く鱗が見えてきた。
「もう少し。」
そう思った時、突如として水鏡が割れ、その黒い底が広がると雷魚を飲み込んでいった。
あまりの出来事に、美琴は反応することができなかった。
そして、
「バリバリ——」
黒い水鏡の底より、黒い雷が走る。
その衝撃に美琴の体は投げ出されてしまった。
集中が途切れ、七星刀が消えた。
投げ出された美琴を見下ろすように、黒い水鏡の中央に影が立っていた。
その視線はまるで突き刺すように黒い光をたたえている。
そして激しい威圧感を放っている。
そのはく息からは黒い霧が漏れ、その表情を覆い隠している。
その呼吸と共に周囲に冷気が放たれていく。
全てを凍りつかせると息。
その姿は大きくぼんやりとした像を結んでいるだけだ。
しかし、美琴の直感がそれがだれだか告げていた。
その男は、ゆっくりときびを返しながら溶けるように水鏡の中に消えていく。
それと同時に冷気と周りを切り裂くような威圧感が消えていく。
しかし、消える最後の瞬間まで、その全てを凍てつかせるような視線は美琴に向けられたままだった。
美琴はその視線を脳裏に刻み込んだ。
まるで全てを憎悪する、刺すような凍てついた目線を。
そしてその傍らには、青白い炎を放つ護符が落ちていた。
そして、ゆっくりと美琴に近づいてくる者がいた。
その者は、白い衣をまとい、美琴と同様に青白い光の衣をまとっていた。




