第五話
「今日はおえかきするよー!」
突然部屋の扉が開いたかと思うとスズが画用紙数枚とクレヨンを持って勢いよく入ってきた。
現時刻は太陽の光が窓から斜めに差し込むお昼前。
おそらく仕事をさぼっているであろうスズに悪びれる様子はなく、俺とマルコをベビーベッドから取り出すと床に座らせ、目の前に紙を並べた。
「これ買ってくるの大変だったんだからね。アリガタミを感じなさい!」
腰に手を当て鼻高々なスズ。
コイツまーた適当言いやがって。お前が買い出し行くとこ一回も見たことないぞ。
一言言ってやりたいが、未発達ゆえに物申せないのが赤ん坊の辛いとこだよな。
呆れる俺とは対照的に、紙を挟んで対岸に座るマルコは嬉しそうに手を叩いている。
「それじゃあお絵かきのお手本見せてあげるね!」
スズは紙を一枚取ると、うつ伏せになり鼻歌交じでクレヨンを走らせ始めた。
マルコは指を咥えながら、スズの手元で徐々に形になっていく絵を食い入るように見ている。
さてと、俺はどうするかな。
絵を描いてキャッキャと楽しめる子供のような心を持ち合わせているわけもなし。
せっかくだから左手で文字書く練習でもするか。
右手がコレだから左利きになっとかねぇと。
日本語ならこの世界の住人は何を書いているか分からないはずだから、赤ちゃんがもう文字を!と驚かれる心配もないだろう。
俺は黒クレヨンを手に取り、左手で握りこむ。
とりあえず五十音全部書くか――
「あー! アタシが黒使おうと思てたのにぃ。ほらほら、こっちの色の方がキレイだよ! だから交換しようねぇ、偉いねぇ、アリガト!」
スズはまくし立てるようにそう言うと、俺の手から強引に黒を奪い取り、代わりにピンクを押しつけるように渡してきた。
オマエってやつは本当に……。俺が本当の赤ちゃんだったら狂ったように泣いてたぞ。
まぁ文字書くのに色なんて関係ないし気にはしないが。
俺は再びクレヨンを握りこみ、紙に文字を書き始める。
慣れない左手は満足に動かせず。
ずれていってしまう紙を右腕全体で抑え、何とか書けた”あ”は原型を留めていなかった。
そんな調子でとりあえず”あ行”は書き終えたのだが……全然だめだな。
”い”、”う”はマシだが”え”は微妙、”あ”、”お”は壊滅的だ。
思い通りに体が動かないというのが、こうももどかしいとは。
なんだか元の世界でやった「壺おじ」を思い出す。
始めて間もないが、もうちょっと体が成長してからやろうかと考えるくらいには文字練習が億劫になり始めていた。
「できたー!」
突然スズがそう叫んだ。
急にどうした急に。
上体を起こし女の子座りになると、今度は出来上がった絵を俺たちに見せつけるように胸元で掲げる。
「じゃじゃーん! これなーんだ」
チャームポイントの犬歯を見せつけるようにニッと笑う。
スズ画伯の偉大な処女作は非常に興味深く、茶色く塗りつぶされた丸一つ真ん中にポツンとあるだけで、あとは彼女の笑顔に負けないくらいの真っ白な余白が広がっていた。
まだママすらもともに言えない俺たちに答えろってのは無理だろ、というツッコミは置いておくとして……なんだぁ?コレは。
イメージ的には日本国旗の赤を茶色にしただけの適当な絵。
シンプルゆえに択は多い。泥団子、ズームしたホクロ、メチャクチャ汚い乳首……。
てかよぉ、黒使ってねぇじゃねぇか!
「あーだだあだだ!」
両手をペチペチと地面にたたきつけ、マルコがなにやら発している。
俺の怒りに同調しているのか、それとも彼なりにこの難解な問題に立ち向かっているのか分からないが、なんか思うとことがあるらしい。
よくわからんがもっと言ってやれ。
「ブッブー! 正解は……”ハンバーグ”でしたー!」
あぁ、そういえばコイツ、三度の飯より飯好きな大食いキャラだったな。
というか食い物書くならせめて皿も書いてくれ。俺から奪った黒で、それ囲むだけでもうちょいわかりやすくなっただろ。
……っていやいや、なに真面目にこんなアホらしい遊びに付き合ってんだ俺。
首を振って雑念を落とし、再び文字練習に気持ちを戻す。
「ムムムッ!」
スズの唸りとともに、俺の紙に影が落ちる。
見上げると、スズが俺の書いた文字を覗き見ていた。
「ムムムムッ!」
スズの顔がさらに険しくなる。
ちっちゃい赤茶の眉を目一杯寄せ、あごに手をあてる姿はさながら名探偵。
……まさかとは思うのだが、もしかしてコレ読めてる?
「ムムッ! ムムムッ!? ムッ! ムムムムッ!!」
目をカッと開いたり目を細めたりしながら、あごを擦る手の速度が上昇していく。
そして最後、目を限界まで見開いたかと思うと、俺の書いた”あ”をビシッと指さした。
「”絡まってほどけなくなったミミズ”!」
いやまぁ、そう見えなくもないけどさぁ!
お前の寄越したピンクで書いたのと、俺の字が下手なのが相まって確かにミミズだけどさぁ!
スズの力強い指先が次に”い”を捉える。
「”ほどけたミミズ”!」
物語が続いてやがる!
今度は”う”を指さし
「”親子ミミズ”!」
断たれたストーリーの連続性!
今度は”え”
「”親子ミミズ”!」
連続する親子ミミズ!
今度は”お”
「”絡まってほどけなくなったミミズ”!」
浮き彫りとなるレパートリーの少なさ!
そして一仕事終えたかのように手の甲で額の汗を拭うスズ。
「ふぅ……まっ、ざっとこんなもんかな」
何が?
「アタシも負けてられないねぇ。いっぱいハンバーグ描くよぉ!」
スズは紙をもう一枚とると、また茶色の丸を描き始めた。
ふぅ、それにしても焦ったぜ。
あんなに見てくるから、実は日本語読めるのかと勘違いしてしまった。
さて、また見られたときにミミズ呼ばわりされないよう、しっかりとした文字を描けるよう練習を再開し――ん?
用紙と向かい合うために、正面に視界を戻したところ俺をガン見するつぶらな瞳が二つ。
マルコだ。指をしゃぶりながら、俺のことをじっと見ている。
しばらく見つめ合っていると
「だぁ!」
という掛け声ともにこちらへ前進してきて、俺の紙を奪い取っていった。
ちょっとぉ!何してくれてんだマルコのやつ。
どいつもこいつも邪魔しやがって。なんか悪いことしたか俺?
マルコはさっきまでいた定位置に戻ると、さも自分の物のように紙を広げ、緑色のクレヨンでグチャグチャと描きだした。
何というふてぶてしさ。お前の物は俺の物と言い出さんばかりではないか。
前世はバイキングか何かかコイツは。それともスズのさっきの強奪をまねっこしている……なんてことはないよな。
頼むからスズには似ないでくれ。
まあいい、紙はあと何枚かあるし、それを使うとしよう。
まったく……寛大なお兄ちゃんに感謝しろよ。
次は”か行”だったかな。
赤みがかったボサボサの髪を左右に揺らしながら、ご機嫌そうに鼻歌を刻むスズ。
一心不乱に何かを描いているマルコ。
窓から差し込む日の光が、この部屋にほのかな温かみをプレゼントしてくれている。
一種のほのぼの空間がココに誕生しつつあった。
何とか”け”まで差し掛かったとき
「だぁ!」
マルコの謎の発声に、スズと俺の視線が自然と向かう。
見ると頭上に高々と紙を掲げるマルコの姿があった。
「お! マルコも描いたか!」
マルコが奪い取った俺の紙にいったいどんなものを描いたのか気になるのは当然の摂理だった。
ふと見上げる。
俺の書いたピンク色のあ行の隣。
余っていた空白に緑色でデカデカと、こう書かれていた。
【コレ ヨメル?】