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 男は再び鉄の扉の前に立った。少女との約束を守るために。

 石段を踏む足音が止まって、鉄の扉が軋みを立てて左右に開いた。


「やっと来てくれた」


 少女がやつれた頬に微かな笑みを浮かべていた。母親譲りの碧色の瞳は蝋燭の最後の炎のごとくキラキラと輝いていた。男が戦場で何度も目にした死にゆく者の瞳の色と怪しいまでに酷似していた。


「あなたが来るまで死ねないわ。だって、まだ母様の話をすべて聞いてはいないのだから」


 少女の側に傅く侍女たちが悲し気に顔を伏せた。少女が余命いくばくもないことは誰の目にも明らかだった。少女の容態が急変したのは今日の正午だった。男が王妃のサロンで一篇の詩を朗詠して、クリシア王よりお褒めの言葉を頂いた直後、古城より早馬の知らせが届いたのだ。

 動揺した王妃が駆け出そうとしたそのとき、クリシア王の厳つい手が彼女の肩を押さえた。その双眼が語ったのだ。”我ら二人共、死ぬわけには参らぬのだ。どちらかが死ねば再び天下は乱れる”と。そして男に向かって命じたのだ。


「わたしの名代として娘の死に立ち会ってもらいたい」


 男の瞳が微かな憎悪に揺らいだ。そのとき女の瞳が王に寄り添い懇願した。


 王の命じるままに……。


「御意」


 男は再び少女の前に立った。少女は健気だった。両親が駆け付けないことを毅然とした態度で受け入れた。その気高い姿は乱世を生き抜いた男ですら圧倒した。少女は残された命の灯を、男の話を聞くためだけに繋いでいた。


「さあ、早く! 話を。最後まで、母様とあなたの話を!」


 少女が吐血した。毛布に血の染みが広がってゆく。

 少女が男を見た。その瞳は既に死の色に染まっていた。

 男が苦し気に口を開いた。


「そう、五度目の出会いは、わたしが二十三のときでした」


 ■■■


 王と王妃を乗せた馬車は民衆の嵐のような歓呼に迎えられた。二人の結婚は臣民にとって自由と平和の象徴だった。王族や貴族は結婚を政略の道具と見做していた。結婚する当人の意思など荒波に揉まれる小舟に等しい。だから身分差を越えた王族と平民という二人の結婚は、臣民に新しい時代の到来を予感させた。特に王妃の農民階級という出自が臣民に親近感を抱かせた。王は笑いながら言った。”これも人心を掌握する政略結婚なのだ”と。王妃は冗談と理解しつつ言い返した。”ならばわたしの心も掌握するよう、政略をお考え下さい”と。

 大聖堂まで続く人波に二人は手を振って応えた。男は大聖堂の前で群衆に紛れて女が来るのを待った。男は女の下を去り、再び旅に出ることを決意していた。自分の役目は終わったのだ。女はその高潔な志に相応しい地位を手に入れたのだから。

 やがて二人を乗せた馬車が大聖堂の前に到着した。王が先に降りて王妃に手を差し伸べた。王妃は馬車から降りようとして、ふと傍らに立つ吟遊詩人に目を止めた。男は満足ですと心の中で呟いた。女は幸福だと心の中で呟いた。互いの心が通い合った瞬間だった。女は結婚指輪を外すと手早く男に手渡した。傍らの王の視線が微かに揺らいだ。が、彼は咎めるべき言葉を持たなかった。その指輪は今、男の左手で輝いている。


 ■■■


「母様はあなたを愛していた」


 少女は力なく目を見開いた。焦点の定まらぬ瞳が男の姿を求めてさまよった。


「いえ、あのお方が愛しているのは国王陛下ただお一人。わたしは褒美をもらったに過ぎませぬ」

「もし父様に知られたら、あなたは死罪にされるかも」

「わたしと姫様、二人だけの秘密なれば、ぜひ陛下にはご内密に」

「母様だって覚えているわ」

「お戯れゆえ、覚えてはいないでしょう」

「母様は覚えている。わたしにはわかる」


 少女は夢見るような眼差しで薄汚れた天井を見つめていた。


「昔、話てくれたことがある。竪琴を奏でて美しい詩を詠唱する吟遊詩人のことを。その人はとても雄々しく賢かった、と」

「王妃様がそのようなことを?」


 男の顔に微笑が浮かび上がった。少女も安堵したように微笑を返した。


「あなたも母様を愛していた」

「姫様、お戯れは……」

「きっと母様に似たのよ。だから同じ人を好きになった」


 男の顔から笑みが消えた。少女の瞳は真剣だった。あの時の瞳だ。あの剣を合わせたときの壮絶なまでの瞳の輝き。


「姫様に一介の吟遊詩人など似合いませぬ。いつの日にか必ず、白馬の騎士が花束を手に参上いたしまする」

「わたしに相応しい殿方って、どのような人かしら?」

「父君に似た雄々しく賢き人にございます」

「もし父様と出会わなければ、母様はあなたと結婚したかしら?」

「まさか、そのようなことは……」

「わたし、嫌なの。誰も愛さずに死んでゆくのが」

「父上や母上を愛しておいででしょう。ならば……」

「生まれて初めて早く大人になりたいと願った。昨日、あなたを知ってから」


 少女の顔に穏やかな笑みが浮かんだ。既に蝋燭の残り火は消えつつあった。

 男は耐えきれずに顔を伏せた。


「それは愛の告白にございますか?」

「そう聞こえたらお願い、キスして。あなたが母様にしたように」


 男は少女の瞳を見た。少女は知っていたのだ。男と女のただ一度の口づけを。


「お願い」


 男は少女と唇を重ね合わせた。宿痾(しゅくあ)のせいだろう。少女の唇はささくれ立って燃えるように熱かった。


「ありがとう、母様が愛した人」


 少女は静かに息を引き取った。その死に顔は天使のように穏やかだった。侍女たちが号泣する中を、男は何も言わずに立ち去った。死んだ少女の指には、母親の結婚指輪が輝いていたという。


                           (了)

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