Ⅶ
男の瞳は穏やかだった。そこに怨嗟の色は微塵もみられない。
「もしわたしの村を焼いた者が、あなたの村の者だとしたら? もしあなたの村を焼いた者が、わたしの村の者だとしたら?」
「ーー!」
「わたしの村からも大勢の若者が徴兵されました。彼らも敵国の町や村を襲ったはず。敵国の民を殺戮したはず。だからわたしは村を焼き、父を殺した敵兵を憎むことができないのです」
「なるほど、お互い様というわけか」
女はきつく唇を噛んだ。そうだ、戦地から帰村した若者たちは酒を飲みながら楽し気に語っていた。他国の村々を侵略して、略奪や暴行に明け暮れたことを。敵国の人間を何人殺したかを自慢し合いながら。
男は杯の酒に歪んだ自身の顔を映した。
「わたしが憎むのは天上の神々です。人々を人形のように操り、戯れに殺し合いをさせて楽しんでおられる。ですが神々もそろそろ戦ごっこに飽きたようで」
「顔に似合わぬ不遜なことを言うやつだ」
女の口端に笑みが浮かんだ。そうだ、この戦に勝ちさえすれば天下泰平の道は一気に開ける。
その碧色の瞳に再び戦意が蘇った。女は杯を投げ捨てると机上の地形図を指さした。
「これを見ろ。我が軍はパストーレ平原に四万五千の軍勢を布陣させた。本隊四万、それに両翼に騎兵隊を二千五百ずつだ。それに対してゴルギア軍は半数の二万五千。数からいえば我が軍の方が圧倒的に有利だ。だが一つだけ懸念がある。敵の騎兵隊の数は倍の一万。史上最強と謳われたゴルギア騎兵隊だ。もし彼らに戦場を縦横無尽に駆け回られたら、我が方が窮地に陥ることになる。そこでだ」
女が探るような視線を男へ向けた。
「何か策はないか? あるなら申してみよ」
「されば……」
男は飲みかけの杯を卓子に置いた。酒気で少し顔が赤らんでいる。
「ゴルギア軍の旌旗に描かれた紋章を覚えておいででしょうか?」
「燦然と輝く太陽だったか。大陸の東端にある国ゆえ、他国の者より早く朝日が拝めるとか」
「もしその太陽が戦の最中に陰ったとしたら?」
「ーー?」
「もし彼らの崇める太陽が昼間の最中に姿を隠せば、それは彼らにとって凶兆となりえるはず」
女が不審げな目を向けた。日蝕という現象を知らなかったのだ。
「そんなことが起こるというのか?」
「天文に関する古文書を調べましたところ、明日は月が太陽を覆い隠す日になるとか。夜の闇が昼の光に代わり地上を支配いたしまする」
女は卓子に目を落とした。太陽はゴルギア軍の象徴だ。その旌旗は赤く輝く太陽で染められている。もし男の言う通り、昼に太陽が陰ればゴルギア軍の士気に重大な影響を及ぼすはずだ。それはクリシア軍にとって又とない好機となる。
「おまえの申した予言だ。当てにしておるぞ」
女はふと男を見つめて呟いた。
「なぜおまえ自ら王に献策せぬのだ? 成功すれば莫大な恩賞がもらえるぞ」
「わたしは吟遊詩人が分相応にございます」
「ではその手柄、わたしがもらい受けるとしよう。まったく、相変わらず欲のない奴だ」
「いえ、一つだけ望みのものが」
不意に男の手が伸びて女の腕をつかんだ。男の燃えるような眼差しが女を捕らえて離さない。女は素直に男の胸に抱かれた。自分でも呆気なく思うほどに。男がそっと女の耳元で囁く。
「これがわたしの望みなれば」
「本当に欲のない奴だ」
天幕に映る二つの影は互いを抱擁して一つになった。
■■■
美しい追憶はしばし時間を忘れさせる。女と交わしたただ一度の口付けは、誰にも語られることなく男の胸奥に秘められている。むろん、少女にも語らなかった。おそらく永遠に……。
「それで太陽は陰ったの?」
薄闇の中で少女の顔色は蝋燭のように白かった。男は暇乞いすべき時刻が過ぎたことを悔やんだ。
「ゴルギア軍の騎馬隊が突撃しようとしたまさにそのとき、太陽は月が欠けるように闇の中に吞まれたのです。突然訪れた深い闇に、まずゴルギアの軍馬が嘶き棹立ちになりました。そしてゴルギア軍の陣中から悲鳴が上がりました。”太陽が陰った。神が我らを見放した”と。すかさずクルシア王が全軍に大声で下命いたしました。”天意は我にあり。全軍突撃せよ”と」
少女の白い頬にポッと赤みが射した。
「素晴らしいわ! あなた、神様の御旨までわかるのね」
「いえ、わたしはそのようなことは一向にわかりませぬ。わかることといえば、書物に書き記された言葉のみ」
「太陽が昼間に姿を隠すなんて……。そんなことまで書物には書き記されているの?」
「書物には世界の半分が詰まっておりまする」
「残りの半分は?」
「自分の五感で探しますれば、吟遊詩人として諸国を巡っているのでございます」
「わたしも旅してみたい。あなたと一緒に」
男の精悍な顔に笑みが浮かんだ。
「ならば早く病気をお治しなされ」
「好きな人と、どこまでも自由に……」
少女は夢を見た。
部屋の中は水平線まで広がる大海で満たされた。彼方に何があるのか、噂に聞く異国の文化を自分の目で確かめたい。少女は憧憬に誘われて波打ち際まで歩んでいく。つま先が波に洗われたとき、手を差し伸べて引き留める者がいた。吟遊詩人だ。少女は不思議に思った。男の瞳に映る少女の顔は母親に瓜二つだった。身長もより男に近づいたように見える。まるで大人になったような。手を握り合っているだけで、この上ない至福感が伝わってくる。
少女が我に返って傍らを見た。控えた侍女が少女に就寝すべき時間がとうに過ぎたことを告げた。その眼には感嘆の色が浮かんでいた。男の語りに誰もが時間を忘却していた。男が暇乞いを告げると、少女は名残惜しそうに呟いた。
「明日、また話の続きを聞かせてほしいの」
「明日は王妃様のサロンに招かれておりますれば、今夜にもここを立たねばなりませぬ」
「城に逗留していきなさい。これはわたしの命令よ」
「王妃様のサロンにて、クリシア王の御尊顔を拝謁する名誉を与えられました。王妃様の御恩情にございます。断るわけには参りませぬ」
少女は淋しそうに肩を落とした。刹那、激しく咳き込んで、顔を上げることができなかった。侍女が介抱して、ようやく咳は収まった。少女の口元に血の跡が残った。
「では最後にもう一曲、聞かせてほしいの。あなたの歌を聴きたいわ」
「では……」
竪琴の紡ぐ旋律に合わせて、男は朗々と歌を口遊んだ。
美しい森に草花が生い茂っている。
ここから馬で去ったあの人は今どこに?
春の息吹の中で、あたしは愛する人を想い悲しむ。
あの人はどこへ行ってしまったのか?
ああ、誰があたしを愛してくれようか。
「美しく悲しい詩。母様にも聴かせてあげたい」
「では明日サロンにてお披露目いたしましょう。あなた様から王妃様への言伝として」
男は膝を折って一礼すると踵を返した。その背中へ向かって少女が叫んだ。
「お願い、約束して! わたしが死ぬ前に必ず戻ってくると」
「誓って」
背中に突き刺さる少女の眼差しは、剣で切られたような痛みを伴った。