Ⅴ
「姫様はこの戦をご存じで?」
男は少女が傷付くことを恐れた。病身の心に母の鎧姿はどのように映じたろうか? だが王妃が男に命じたのだ。道化話などせずともよい。二人の出会いと別れの話をするように、と。母は悔いなく生きたことを娘に伝えたいのだ。男はその生き証人なのだ。
「この戦の事は知っているわ。でも母様がゲルマニア王の首を挙げたなんて」
少女はふと視線を落とした。何かを逡巡しているようだ。
「恐ろしいお方だとお思いですか? 王妃様を」
「いいえ、そうは思いません。このクリシアを救ったのですから。でもわたしは平和な時代に生まれたことを幸運と思います」
「今の言葉を聞けば王妃様もさぞやお喜びのことでございましょう」
「母様を救ってくれたことに感謝します。これで二度目ね」
「一介の吟遊詩人には過ぎた言葉なれば」
男は頭を垂れて少女に応えた。その双眼は澄んだ湖面を想わせる。
少女が感嘆して呟いた。
「あなたほどの剣の腕なら、どこの王とて欲したでしょうに」
「わたしの願いは美しき詩歌を生み出すことにございます。剣は飽くまで身を護るためのもの、出世の道具ではありませぬ」
少女の目の前に出世を望まぬ男がいた。権勢渦巻く王宮では、誰もが他人の失墜を願っている。作り笑顔の裏に地位と金を欲する素顔を隠している。それは少女の前に伺候する道化や町人とて同じこと。だがなに不自由なく育った少女にとって、金や地位は興味の埒外にあった。だからこそ人生の意義を自らに問い続けたのだ。
「あなたは生きる意味を知っている。何をすべきかも。でもわたしには……」
少女がそっぽを向いて呟いた。
「わたしには何もない」
少女の愛らしい容貌や美しい装飾を褒める者は多い。だが死の足音を間近に聴く者にとって、それがどのような価値をもたらすのか? 男は阿諛追従を口にすることの虚しさを知っている。
蝋燭の炎が揺れて二人の影が歪んだ。薄暗い室内に重苦しい沈黙が忍び込む。
男は頃合いを見計らって少女に話しかけた。
「姫様、人はいつ死ぬかわからぬもの。現にわたしも王妃様も戦場で九死に一生を得たことがありますれば」
少女が目を輝かせて男を見た。
「聞かせてくれる? 母様の生きた証を!」
「三度目の出会いは、そう、わたしが二十歳の時でした」
■■■
女は男と共に敵の包囲の中にあった。
クリシア軍は敵国パルミアへの侵攻中に同盟国シラメンの裏切りにあい、腹背に敵を迎える危機的状況に陥った。そのシラメン謀反の一報をクリシア軍陣営にもたらしたのが吟遊詩人だった。帷幕で一報を受けたクリシア王は即座にパルミアからの撤退を決意。女の指揮する部隊に殿軍を下命した。味方の最後部にあって敵軍の追撃を防ぐのだ。生還は期しがたい任務だ。諸将の視線は一斉に女の顔に突き刺さった。
「喜んで拝命いたしまする!」
女の言葉に嘘はなかった。たとえ自分の命を失おうとも王を安全に逃がす。その想いは王に対する畏敬の念ゆえだ。女は帰陣すると大声で叫んだ。
「王より殿軍を仰せ付かった。功を遂げ、名を上げる一戦ぞ。皆の者、命を惜しむな!」
部隊の各所から歓声が沸き上がった。部下の戦意は旺盛だ。女は頼もし気に整列した兵士たちを睥睨して、その隅に男が佇んでいることに気が付いた。
「なんだ、おまえ、まだいたのか?」
「帰れとは言われませんので」
「早く逃げるがいい。わたしと一緒にいては生きて帰ることは叶わぬぞ」
「剣を一本、拝借したく存じます」
女は馬を進めようとして思わず手綱を引き絞った。
「なに、剣だと?」
「あなた様をここで死なせるわけには参りませぬ」
女は含み笑いを漏らした。
「フン、そんな義理などなかろうに」
「あなた様は美しき光を宿す方なれば、いずれその気品に相応しい地位に就くと言ったはず。その言葉が嘘ではないことを証し立てねばなりませぬ」
「わたしはクリシア王によって一軍の将に取り立てられた。もう十分に出世したと思っている。おまえの予言は当たったのだ」
「あなたは一軍の将で終わる方ではありませぬ」
「……」
女の瞳がふと和んだ。
「おまえの好きにするがいい。ただし命の保証はないと思え」
女は腰に下げた剣を投げ与えた。
「おまえに貸してやろう。王より下賜された業物だ。もしわたしが討ち死したら自分の物とするがいい」
「この剣が再びあなたの腰に戻りますよう」
男は剣を受け取ると馬に跨り女の傍らに馬首を並べた。彼方には土煙を上げて突進してくるパルミアの騎兵隊が見えた。
「来たな。よし、全軍突撃!」
女は剣を振り下ろすと先頭に立って突撃した。女の部隊は疾風となって敵陣の中央へ切り込んだ。その俊足に抗しきれずに敵陣は左右に裂け始めた。
「今だ! 一気に敵を揉み潰せ!」
金髪を振り乱して闘う女の首を狙って、数え切れぬほどの槍や剣が突き出された。だが女の身体が傷付くことはなかった。男が絶妙な剣捌きで敵兵の鋭鋒を片っ端から薙ぎ払った。男の剣舞は余りにも美しかった。剣の名手たる女ですら嫉妬と羨望を禁じ得ないほどに。女は男と馬を違えると四方の敵を睨みつけた。
「わたしにまた貸しを作る気か?」
「はい、大きな貸しを作ろうと思っております」
「わたしから何を奪おうと言うのだ?」
「平和にございます。戦なき世の中こそ我が望みなれば」
女の背筋に戦慄が走った。私心なき言葉に胸を打たれたのだ。戦場にあって立身出世を望まぬ者はいない。女とて例外ではない。だが胸奥には確かに平和を希求する自分がいた。
「よし、その借り、幾千倍にして返してやろうぞ!」
女と男の剣が一つとなったとき、敵は恐れをなして自ら囲みを解いた。自軍に数倍する敵が今や分断され壊滅状態にあった。敵軍の戦意は喪失した。もはや撤退するクリシア軍を追撃して来ることはないだろう。女は馬首を翻すと大声で下命した。
「全軍、引け―!」