Ⅳ
「それで母様は狼を退治したの?」
少女は目を輝かせて男に尋ねた。
「かようにわたしも王妃様も生きておりますれば」
「母様は強かったのね」
「だからこそ父王様も母上様を臣下の列にお加えになったのです」
「でも母様は自分が剣士だってことを一度も話して下さらなかった」
「姫様は平和の象徴でござりますれば、血生臭い話など聞かせたくなかったのでしょう」
クリシア王が初子誕生の報を受けたのは、最後の反徒を鎮圧して凱旋する途上だった。大陸の統一が成った日に少女は生まれたのだ。王は瑞祥が重なったことを喜び、国を挙げての祝祭が挙行された。以来、少女は平和の御子と呼ばれるようになった。でも今は……。
「ある占い師が言ったそうよ。わたしが死ぬとき、この国もまた亡ぶと」
少女は侍女を下がらせると不吉な言葉を口にした。
「王と王妃が安泰である限り、そのようなことは決してございません」
「あなたにそう言われると、なぜか心が安らぐわ。母様があなたの言葉を信じてこの地に赴いたのもわかる気がする」
「吟遊詩人は人を慰めるのが仕事なれば、どのような作り事でも真実味を以て語りまする」
「では母様が狼をやっつけたことも作り事なの?」
「信じるも信じないも、姫様の御心次第」
「意地悪な人」
少女は小首を傾げて考え込んだが、ふと何かを思い付いたように顔を上げた。
「ならば聞かせてほしいの。母様が聞いたという子守歌を。それであなたの話が真実であることを証立ててほしいの」
男は再び竪琴を手にすると、母から伝えられし子守歌を奏で始めた。少女の脳裏に幼い頃の心象風景が蘇った。ベッドで微睡む幼女の傍らには優しい母の姿があった。その口元から零れる歌声が男の奏でる竪琴の旋律と重なった。少女は母以外の口から子守歌を聞いたことがなかった。母だけが好んでこの子守歌を口遊んだ。その瞳は遥か遠くを見つめていた。まるで過ぎ去りし青春を懐かしむかのように。
「そうよ、この歌よ。母様の好きだった歌」
母との思い出が少女の頬に優しく手を差し伸べた。少女は安堵してベッドに微睡んでいる。暖かい木漏れ日が窓から射し込んでくる。小鳥の囀りすら聞こえない白昼夢のような穏やかな世界。母の温もりが少女を深い午睡へと誘ってゆく。
「あなたはわたしの恩人よ」
少女は不意に目を見開いて男を見た。
「なぜにございます?」
「もし母様があなたと出会わなければ、きっとゲルマニアへ向かっていたはず。そうなれば母様と父様は出会うことはなかったし、わたしもこの世に生を受けることはなかった」
「人の縁とは不思議なもの。こうしてわたしと姫様が出会いましたのも、運命の導くところなれば」
「さあ、早く話の続きを」
少女に乞われて男は再び語り始めた。
「二度目の出会いは、そう、わたしが十九歳のときでした」
■■■
女は騎馬に跨り嵐の戦場を疾駆していた。右手には長剣を、左手には手綱を握り、手当たり次第にゲルマニア兵士を薙ぎ倒してゆく。長剣が敵の兵の血を吸って怪しく光る。顔に飛び散った血飛沫は豪雨がすぐに拭い去った。強風になびく金髪と真紅のマントが雷光に美しく輝く。碧色の瞳は炎を湛えてただ一点だけを凝視していた。目指すはゲルマニア王の首唯一つ。クリシア軍の奇襲攻撃にゲルマニア軍は壊乱した。女は逃げ惑う敵兵の間隙に本陣まで伸びる一直線の道を見た。
「行け!」
女は馬に気合を入れると一気に本陣まで雪崩れ込んだ。ゲルマニア王だ。彼は床机に腰を下ろしたまま、怯えた目付きで女を見上げている。鎧を身に付けず、剣すら手にしていない。だが女は剣を打ち下ろすことができなかった。ゲルマニア王を守るべく、一人の男が目に前に立ちはだかった。
「……おまえは」
「お久しゅうございます」
一年前に会った吟遊詩人だ。その手には竪琴の代わりに剣が握られていた。
「どけ! おまえなど出る幕ではない」
「ゲルマニア王には怪我を癒していただいた恩がありまする」
「おまえは戦うべき人間ではない」
「吟遊詩人とて戦場では剣を取りまする」
「まだわからぬか! わたしはおまえを殺したくない」
一瞬、女は自身の言葉を訝しんだ。なぜ敵に情けをかける? 相手は一度会ったきりの名もわからぬ男ではないか?
「ええい! 早くわたしの前から消えうせろ!」
「ならばわたしと共に王もお見逃しくだされ」
男は引き下がろうとはしなかった。だが躊躇している暇はない。ここでゲルマニア王を取り逃がせば、クリシア軍の勝利はない。女は長剣の切っ先を男へ向けた。
「まさか、おまえと闘う羽目になろうとはな」
「これも運命なれば致し方ありますまい」
「ゆくぞ!」
女は素早く男の懐へ切り込んだ。だが男は身軽に女の矛先を躱し続ける。剣がかち合えば苦も無く左右にいなされる。女は自身の剣が宙を彷徨う様を何度も見た。今までは確実に敵を仕留めてきた剣が、たかが吟遊詩人ごときに翻弄されているのだ。自尊心と焦燥感が次第に女の剣尖を鈍らせてゆく。目端には隙を見て逃げ出そうとするゲルマニア王の姿があった。男に時を稼がせてはならない。殺すのだ。
「こやつ、いつまで逃げる気だ」
女は渾身の力を込めて必殺の一撃を放った。だがその一撃は男のマントを掠めて彼方へ泳いだ。刹那、女は相手の剣尖が背中へ突き刺さるのを覚悟した。態勢を立て直す暇はない。勝負を焦った末に、名もなき吟遊詩人に討たれるのだ。女は無念の想いを噛み締めた。だが……。
男の剣を持つ手がわずかばかり動いたように見えた。鋭い金属音と共に女の手から剣が零れ落ちた。男の剣が女の剣を打ち落としたのだ。女の瞳が驚愕に打ち震えた。
「なぜだ、なぜわたしを殺さぬ?」
男は剣を鞘に納めると物静かに呟いた。
「殺さぬことが吟遊詩人の剣なれば」
「殺さねば殺されるぞ」
「……」
女は不可解な面持ちで男を見た。自分は剣の技量で相手に負けたのだ。この男の手にかかって死ねるのなら、剣士として本懐ですらある。だが意外なことに、男は自分の剣を女には向けずに、鞘ごと呆気に取られたゲルマニア王に手渡した。
「義理は果たしました。後はご自分で戦いなされ。王の名に恥じぬご最期を」
男はゲルマニア王に向かって一礼すると帷幕から姿を消した。王は何が起こったのかもわからずに、剣を抱えて震えている。それは女とて同様だった。唖然と佇んだまま男の消えた方向を見つめていた。
「吟遊詩人の気まぐれか?」
不思議と屈辱感はなかった。それどころか満足感さえ込み上げてくる。畏敬の念が敗北の責を浄化したのだ。
やがて本陣の周囲は怒号とクリシア軍の旌旗で埋め尽くされた。味方が間近まで迫ったのだ。女は気を取り直すと剣を拾い上げた。もう彼女の殺意を邪魔する者はいない。