Ⅱ
「わたし、怖いの。このまま誰にも顧みられることなく土に還ることが」
「人間、誰もが最後には土に還るもの。決して死を恐れてはなりませぬ」
「死は怖くないわ。だってわたしは天国へ行けるのだから」
「姫様が天国へ行けないのなら、誰が天国へ行けましょうや」
「父様は? 戦場で大勢の人を殺したのよ。それでも?」
「戦場では死を友とする者が勇者と称えられます。天国の門は力の限り生きた者にのみ開かれるのです」
男の優しい微笑みに、少女の瞳が輝きを帯びた。
「父様も天国の門を潜る資格があるのね」
「姫様も力の限り生きなされ。心に剣と盾を持って」
「わかったわ。わたしも精一杯病魔と闘うわ」
少女は虚空の一点を睨みつけた。そこに病魔が巣食っているとでもいうように。
「さすがは姫様。死を恐れぬ者に死は近づきませぬ。必ずや病魔も退散いたしましょう」
少女が微かにほほ笑んだ。
「あなた、まるで聖騎士みたい。彼らの誓いにそっくりよ」
聖騎士とはクリシア王の供回りの者たちを指す。いずれも剣や槍に秀でた若者たちだ。
「汝、死を恐れずに王に付き従うか」
少女は真顔で聖騎士の誓いの一節を諳んじてみせた。
「聖騎士の誓い? わたしは吟遊詩人でありますれば、そのようなことは一向に」
「あなたは剣を持ったことがないの?」
「鍬や鋤を持つ者がいなければ、誰が腹を満たすことができましょう」
謎かけ? 少女は小首を傾げた。そしてほほ笑んだ。
「農夫の鍬や鋤が騎士の剣というわけね。つまり、吟遊詩人であるあなたの剣は、その竪琴というわけね?」
「然り」
「ならば聞かせてちょうだい。その竪琴の音色を」
少女は卓子に置かれた竪琴に目を移した。粗末な四弦の小さな竪琴だ。普通なら美しい音色など期待できようはずもない。だが男の紡ぎ出す旋律は不思議と聴く者の涙を誘わずにはおかなかった。
少女は目に涙を浮かべて天井を見つめていた。侍女の一人がそっと服の袖で涙を拭いた。扉の外に控えている侍女の忍び泣く声も聞こえてくる。男が一曲引き終えた後、部屋は長い沈黙に包まれた。やがて少女は瞑目したまま呟いた。
「美しい音ね。でもなぜこんなに悲しくなるのかしら?」
「音は生まれては消えてゆく儚きもの。人の命も同様なれば、それゆえに悲しいのです」
「永遠なるものに美は宿らない」
「そもそも永遠なるものなど、この世にありましょうや?」
「一つだけ、時だけが永遠に過ぎてゆく」
「時ですら、感じる者がいなければ存在を許されませぬ」
「わたしは生きながらにして既にこの世から消えている。なぜなら感じてくれる人がいないのだから」
それは声なき悲鳴だった。あるいは両親から見捨てられた悲哀かもしれない。
侍女の一人が思い余って声をかけた。
「姫様、そのようなことは決してございません。国王陛下も王后陛下も、それはもう心配のご様子で」
それは真実なのだと男は思う。だが少女の孤独な魂には届かない。
「ではなぜ父様も母様もここへ来てくれないの?」
「それは……」
侍女が口ごもって顔を伏せた。病気が伝染するから来ることができない。理由は誰の目にも明らかだ。詰問した少女ですら知っていることだ。それでも口にせずにはいられなかった。
「そうよ、父様も母様も自分だけが大切なのよ」
興奮したせいだろう。少女の息は荒かった。自分の我が儘だとは知っている。両親に対する非難がましい言葉を恥じているようにも見える。 王が死ねばこの国の平和は破れ、再び天下は騒乱の渦に巻き込まれる。諸侯は領地を巡って敵対し、多くの民の命が失われる。少女は父王の苦悩を知っている。国家統一が脆弱な基盤の上に成り立っていることも。
「戦乱は五十年の長きに渡り続きました。そして平和は未だ十年足らず」
男が少女の苦衷を察して呟いた。
「ええ、わかっています。父様を死なすわけにはいかない。でも母様は……」
少女は捨てきれない母への思慕を口にした。無理もないと男は思う。まだ両親の愛情が必要な年頃だ。孤独な死など耐えられるわけがない。これが市井の娘であれば、両親に看取られて息を引き取ることもできよう。だが現実は貴賎を問わず非情だった。
「王后陛下も国王陛下と共に戦い天下を平定いたしました。そして今も諸侯との折衝役として、なくてはならぬ人なれば」
男は言うのが辛かった。国王と王妃、二人揃わねば国は保てない。それは娘への愛情よりも国家への忠誠を優先した政治指導者の姿だった。
「せめてもう一度、母様に会いたかった」
その厳しい現実の前に、少女は双眼をきつく閉じて泣くまいと堪えた。彼女は幼少の身でありながら、その心は王家の誇りを立派にまとっていた。
侍女たちの間から忍び泣きが漏れる。男は俯いたまま時が過ぎるのを待った。
少女の唇から諦観のため息が漏れる。彼女は悲しみと折り合いをつけた。
「ねえ、もう一曲聞かせてくださる? 今度は楽しい曲を」
少女の希望に男は再び竪琴を爪弾いた。部屋の中は春の息吹で包まれた。燭台の炎は瞬時に澄んだ空の陽光へと変化した。少女は指先でリズムを取り始めた。侍女たちも楽し気に肩や腰を揺すっている。もし似合いのパートナーがいたら、その場で踊り出していたかもしれない。
あちらの地方で娘さん。
若者たちは優しいけれど、
わたしの故郷の若者たちは、
優しいことでは一枚上手!
軽やかに足を踏み鳴らす山育ちの娘。
高らかに足を踏み鳴らす石畳の上で。
男は一曲引き終えると立ち上がって頭を垂れた。姫と侍女たちが拍手で応える。
「ああ、楽しかった。その曲、なんて言うの?」
少女の問いに男は答えた。
「オーヴェール地方の民謡でございます」
「オーヴェール地方? 確か母様の生まれた……」
「はい、わたしはかの地で初めて王妃様と出会いました」
「母様と?」
「わたしは王妃様に乞われてこの地へ参りました。わたしと王妃様の出会いと別れを、娘に話して聞かせるように、と」
「母様が、あなたと?」
「姫様はご存じないので?」
「母様は昔のことを話したがらないわ。あなたは平和の時代を生きるのだから、戦乱の時代など知らなくてもよいと」
男は理解した。これから話すことは、母から死にゆく娘へ手向けられた弔辞なのだと。
「なぜ母様は今頃になって、あなたのことを……」
少女はそれっきり口を閉ざした。話さずともよい話を、なぜ今になって話そうとするのか? それは過酷な沈黙だった。やがて少女は男と同じ結論に至った。理解し決断するには余りにも幼い年齢だった。だが身体に流れる高貴な血が、嘆きや悲しみを毅然とした態度で否定した。
「さあ、話して! あなたと母様の出会いと別れを」
「最初の出会いは……、そう、わたしがまだ十八の時でした」
男は物静かな口調で竪琴を爪弾き始めた。