Ⅰ
澄んだ夜空に星がきらめいている。心地よい夜風が森をそよいでゆく。もしここが野外であれば、いい詩の一つも浮かんでこよう。気が乗れば竪琴を爪弾いて詩を詠唱していたかもしれない。だがゴシックアーチの二連窓から眺める情景は詩神も心を留めることはない。
男はホッとため息をつくと、再び重々しい足取りで石段を登り始めた。王宮の離れにあるこの石塔に導かれてから、どれほどの時が経過したのだろう。足音が石の壁に反射するたびに、炬火に浮かび上がった影が揺らめく。石段は螺旋状に上昇しながら、いつ果てることもなく続いてゆく。それは天国への階段を想起させた。なぜなら、その行き着く先には死の床にある病人が待っているのだから……。
男は石段を踏みしめながら三日前のことを思い出していた。クリシア王国の王妃より王宮に来るよう請われたのだ。
「姫に昔語りをしてほしいのだ。わたしとおまえの出会いと別れの話を」
女は玉座から傅く男へ声をかけた。十二年ぶりの対面だ。女は金の装飾を施した絹の衣装を身にまとい、穏やかな笑みで男を謁見の間に迎え入れた。かつて剣士として王に仕えていた頃の面影は微塵もない。王妃としての気品と威厳が女をより美しく彩っていた。
「承りましてございます」
男は女の希望に応えた。女の辛苦を幾分なりとも慰撫したい。それは平和な時代を成就した女へのささやかな返礼でもあった。
姫は労咳に侵されて、暗い森の塔に隔離されていた。元は高貴な出自の犯罪者が幽閉されていた場所だ。男は最後の一段を踏み締めると、鉄の扉の前に立った。左右に控えていた侍女が頭を垂れて男を迎え入れた。いずれも口元を白布で覆っている。伝染病の予防だった。
「姫様、吟遊詩人がこれに」
「入りなさい」
扉の中から声がした。弱々しいが決して気品を失ってはいない。病室の主だ。
男は部屋へ入ると唾広帽を取って片膝をついた。歳の頃は三十くらいだろうか。切れ長の目に蝋燭の炎が映える。口元には穏やかな笑みが浮かんでいた。
「王妃様の命で参りました。姫様に詩歌などを楽しんでいただくように、と」
ベッドの上で幼い少女がほほ笑んだ。歳の頃は十二、三歳くらいだろうか。その顔色は蝋燭の炎に照らされて、なお白くみえる。
「医者でなければ歓迎します」
「医者はお嫌いですか?」
「そうよ、医者は苦い薬ばかり飲ませるから」
少女は激しく咳き込んだ。口元に小さな拳を当てて苦しそうに顔を歪めている。後ろに控えた侍女は俯いたまま少女の咳が止むのを待っている。労咳という病気が容易に人を近寄せなかった。だが男は臆することなく少女の背中に手を伸ばした。人の温もりを感じたとたん、少女は咳を止めて男を見た。
「あなた、病気が怖くないの?」
「わたしは各地を放浪してまいりましたが、未だに病気一つしたことがございません」
「羨ましい。わたしはもう一年近くもお日様を見ていない」
少女は淋し気な表情をみせると、男から視線を逸らした。
「もう二度とお日様を見ることができないかも」
あるいは死の予感が言わせた言葉かもしれない。男の笑みに陰りが生じた。
「そんなことはございません。病気さえ治せば晴れの日には、いつでもお日様を目にすることができましょう」
「嘘ばっかり」
少女は傍らの陶器人形に手をかけた。
「みなはそう言うけど、わたしの病気は重くなってゆくばかり。この人形の肌と同じように」
少女は手にした陶器人形の頭を慈しむように撫でた。
「この人形、ルイーズっていうの。肌が抜けるように白いのよ。ねえ、とてもきれいでしょ?」
少女は卓子の上に人形を安置した。卓子の上には他にも数体の人形が安置されていたが、それらはみな陶器の肌が青みががった緑色をしていた。男は白磁という物を初めて見た。
「ほう、これは美しい」
「母様がくれたの。今では唯一の友達よ。この子だけがわたしを恐れずに接してくれる。わたしが病気になってから、誰も会いに来てくれないの。父様や母様さえも」
「まだ姫様の御名を聞いてはおりませぬが」
男は帽子と竪琴を卓子に置いた。その諂いのない自然な態度が、少女の目には新鮮に映った。野を渡る風のような峻烈な野生の匂いを嗅ぎ取った。少女は男に興味を持った。
「なぜ、母様はあなたにわたしの名を教えなかったのかしら?」
「謎かけですか?」
「あなた、本当にわたしの名を知らないの?」
「ええ、この国に足を踏み入れたのは三日前でありますれば」
男の言葉に微かな失意を覚えたのか、少女の長い睫毛が陰を作った。
「もう、誰もわたしを覚えていない。わたしが生まれたとき、民は国を挙げてお祝いしてくれたのに。わたしが馬車で町を巡るときは、誰もが道端で頭を下げたのに」
「頭を下げたのでは、姫様の顔が見えませぬ。顔を知らねば名などすぐに忘れてしまうもの。姫様は民に頭を下げられる者ではなく、民に手を振られる者になりなされ」
少女の陰のある表情に光が射した。
「素晴らしいわ。病気が治ったら、また馬車で町を巡れるようになったら、わたしの方から民に手を振るの。そうしてわたしの方から民に好きになってもらうの。そうなれば名だって忘れないでもらえる」
急に話し込んだせいだろう。少女は再び咳き込んだ。
男は白く透き通った少女の顔に、母親である王妃の面影を重ねていた。
やはり似ている。
少女は侍女に介抱されてようやく笑顔を取り戻した。そして自分の名を囁いた。
「せめてあなたにだけは忘れないでいてほしい」
「誓って。生涯この胸に留め置きまする」
少女は安堵してベッドに横たわった。