6入学式
ロザリアの買収の目的は、入学式における「巫女」の挨拶の阻止にあった。
一週間ほど前にこの世界にやってきた異界の巫女は、この入学式で初めて表舞台に姿を現す。そして、彼女は入学式において紹介され、たった一度の挨拶でそこにいた多くの男子生徒を魅了することとなった。子どもたちの晴れ舞台に来ていた貴族の一部すらもその餌食になった。
そんな巫女の一撃を止めるためのロザリアの買収作戦は、それ以上の価格を提案したイールドにあっけなく敗北することになった。
二億フェルの金貨をハスターに運ばせ、ロザリアはガックリと肩を落として廊下を歩いていた。
その意気消沈した姿はもはや別人に映るほどで、ロザリアの姿を見て、その髪色を二度見して、上級生や教員たちが驚愕の様子でロザリアを目で追った。
「……お嬢様は何をそれほどお望みだったのですか?」
「言ったでしょう?身の程知らずにわからせてやるつもりだったのよ……けれどわたくしがお父様にわからされてしまったわ。やっぱり金の力は偉大ね」
「あまり何でもお金で解決するのはよろしくないかと思いますが……」
ついぽろっとこぼしてしまってから、ハスターはしまったと顔をゆがめた。来るマシンガントークを思ってため息を漏らしたハスターだったが、いつものようにまなじりを釣り上げてロザリアが迫ってくることはなかった。
驚愕と、どこか残念に思う気持ちを抱きながら、ハスターは恐る恐るロザリアの顔を横目で見た。
「お嬢様?」
「……何よ?」
「大丈夫ですか?」
「これが大丈夫に見えるわけ?だとしたらあなたは医者にかかるべきね。このわたしが意気消沈しているのよ?もっと他にかけるべき言葉があるでしょう?」
「それだけ言えるのでしたら大丈夫ですね。それより、そろそろ金貨を運ぶのがきつくなってきたのですが」
「どこかに放っておくのは許さないわよ。紛失したらすべてあなたの借金にしてあげるわ。完遂まで一体どれだけかかるでしょうね」
「どうしてそうも目を輝かせているのですか……」
突然勢いよく顔を上げたロザリアがわずかに頬を紅潮させながらつぶやく姿に、ハスターは思わず頬をひきつらせた。
「それは……」
「それは?」
「……なぜかしら?」
眉間にしわを寄せて心からわからないと言いたげなロザリアを見て、ハスターは首をかしげるばかりだった。
「まあいいわ。作戦は失敗したけれど、次があるのよ」
「今度は一体何をするつもりですか」
「そうね、名付けて『目もくらむ金貨作戦』よ」
「絶対にろくでもないやつですね。それで、こうしておっしゃるということは私の協力が必要ということですよね?」
くいくいと手招きするロザリアへと、ハスターは歩きながら顔を近づける。様式美として周囲へと軽く目をやってから、ロザリアは口元が見えないように手で覆い隠し、ハスターの耳元で小さく告げる。
こそばゆさに身じろぎしたいのをこらえて聞いた内容に、ハスターは頬をひきつらせるばかりだった。
「……本気ですか?というか、そんな情報をどこから入手なさったのですか?」
「乙女には秘密がつきものなのよ?」
「……乙女、ですか?」
「何よ。どこからどう見たって立派な淑女じゃない」
学生服のスカートを指でつまんでひらひらとさせて見せるロザリアを慌てて手で制して、ハスターは深い、それはもう深いため息を吐いた。
「わかりました。協力しますからはしたない真似はおやめください」
ハスターがそう告げれば、ロザリアは満面の笑みを浮かべて見せた。それはもう毒々しい笑みで、けれどその表情はハスターの心臓に突き刺さった。
巨大なホールで行われる入学式も、三十分も続けばどこか弛緩した空気が漂い始める。とりわけ新入生たちは緊張の糸が切れたように背筋を曲げたり、きょろきょろとせわしなく周囲を見回したりしていた。まだ十五歳であり、未成年の少年少女たちにとって、三十分の式というのは十分に長いものだった。
どこか弛緩した空気は、けれど司会が読み上げた言葉とともに一瞬で張り詰めたものへと変化した。
入学生代表、ヴィルヘルム・ロイド。ロイド王国の第一王子。壇上に現れた金髪碧眼の彼の整った顔立ちと筋肉質な脂肪のない高身長を見て、女子生徒の数名がほぅと熱い息を吐いた。
そんな中、成人までの三年間を過ごすことになる学園への夢も希望も感じさせない様子で、ロザリアはただじっと座っていた。ちらりと横を向いたハスターの視界には、どこまでも無関心な瞳のロザリアの姿があった。目の前で力強く宣誓する王子のことなど、その眼は映していなかった。
ロザリアの関心は、この後に向いていた。もし今、ロザリアが王子に意識を向けていたら、激しい殺意を顔に浮かべていただろう。
「……来るわよ」
おざなりな拍手をしながら、ロザリアはぽつりと告げた。いまだに半信半疑だったハスターだが、続く視界の言葉を受けて一層背筋を伸ばした。
告げられたのは、伝承の通り異界から巫女が現れたこと。そして彼女には本人たっての希望により、学園に通ってもらうこと。
ロザリアから聞いていた巫女が本当に実在したことに息をのんで、それから命令のことまで思い出してしまってハスターは重苦しいため息を吐いた。
「何よ?やるのよ。絶対よ?」
「……わかりましたよ」
壇上に巫女が上がる。黒目黒髪。まるで夜に祝福されたような少女は、眼下に並ぶ貴族令嬢たちに負けずとも劣らない美しい容姿をしていた。まるで彼女のためにあつらえたように学園の制服を着こなした巫女が、ゆるりと笑みを浮かべる。朱に染まった頬を見て、今度は男子生徒の多くが感嘆の息を漏らした。
そんな中、ハスターは目を閉じて集中を続けていた。イメージが固まるとともに、その眼が大きく見開かれる。
開かれた視界が、ゆっくりと口を開いた巫女の姿を捉える。
「初めまして、私はミコ・ハヅキといいます――」
そんな自己紹介の一言は、彼女の目の前の空間に突如出現した皮袋によって遮られる。開いた袋の口から、黄金の輝きがのぞく。それは、つい先ほどまでハスターが抱えていたはずの、金貨が詰まった皮袋であった。
ハスターが魔法によって転移させた袋から、黄金の滝が流れ落ちる。ジャラジャラと音を立てて舞台に積もった金貨に、巫女を見つめていたすべての者の意識が集められる。
大きく目を見開いた巫女もまた、呆然と金貨を眺めていた。
肩を震わせつつも背中を丸めて必死に笑いをこらえるロザリアを見て、ハスターは彼女の計画がうまくいったことを悟った。
これにより、巫女は出鼻をくじかれて、ロザリアの取り巻きは入学式の場で巫女に魅了されることはなくなった――はずだった。
「改めて、初めまして。私はミコ・ハヅキといいます。こことは別の世界から来ました」
一瞬にして、金貨に囚われていたホール内のすべての者の意識が巫女に集まった。その鈴の音のような言葉が、人々の心に浸透していく。
ゆっくりと顔を上げたロザリアは、視線だけ動かして周囲を見回して、心の中で罵声をまき散らした。
突然ばらまかれた金貨によって虚を突かれた者たちの心の隙間に浸透するように、巫女の声が彼らの心に響いている様子だった。ただのつたない挨拶。そのはずなのに、話を聞く者たちの多くが感極まったように目を潤ませ、そして巫女が頭を下げると同時に一斉に拍手が鳴り響いた。
それは先ほどの第一王子の挨拶の時よりも激しいもので、目を白黒させながらハスターはロザリアを見た。
「……想定外よ。完全にしくじったわ」
金貨によって張りつめていた緊張が解けてしまったせいか、男性だけでなく女性も、あるいは百戦錬磨の高位貴族当主さえも巫女に魅了されたようだった。
直視したくない現実に頭を抱えたい思いで、ロザリアはどこかぼんやりとした目で舞台を眺めていた。
ふと、周囲を見回す巫女と一瞬目が合った気がしてロザリアは小さく眉間にしわを寄せる。やや潤んだ巫女の眼に怒りと吐き気を覚え、ロザリアは奥歯をかみしめた。
ちなみに、万雷の拍手が響くその中、学園長の命令を受けた教員が舞台に散らばった金貨を回収して去っていった。
それが学園長の懐に入るのは、彼女の金へと執着度合いを知る者にとっては今更考えるまでもないことだった。
いったい誰が金貨をぶちまけるようなことをしたのか――視線の多くは、腹を抱えて笑うヴァンプス侯爵へと向けられていた。