20回帰
「……お嬢様?」
気づけばハスターはすっかりロザリアの買い物に振り回される形になっていた。くたびれていた靴の代わりを買い、万年筆を買い、美容院に行って散髪してもらい、さらには調子に乗ったロザリアの支払いで化粧までされてしまった。
見違えるような美丈夫へと変貌を遂げたハスターは、いうなれば野性味を持った冷徹美男子といったところだろうか。その鋭い瞳からのぞく黄金の瞳には隠しきれない熱があり、ソフトワックスをつけられた髪を軽く撫でつける姿に、道行く女性たちの視線が集まる。
その姿を満足げに眺めて頷いていたロザリアは、すでに日が落ちようとしていることに気づいて目を見開いた。それから突然意気消沈した様子で肩を落とした。
「今日はハスターのための日だったのに……全くデートじゃなかったわね」
困ったように笑うロザリアの顔を見ながら、ハスターは考える。今日は、デートではなかったのかと。
自分を着飾らせるロザリアを見ているのは、楽しかった。ハスターと名前を呼ばれるたびに、くすぐられるような感覚が体を走り抜けた。楽しそうに笑って自分に似合うという品を持ってくるロザリアの姿が、愛おしかった。学園でも時折耳にする高級料理店での昼食でロザリアが挑戦した正体不明の料理は不味くて、けれど無言で料理を交換した際のロザリアの笑みと「ありがとう」の言葉は頭から離れることはなかった。
今日という日が終わらなければいいのにとハスターは思った。このまま、自分たちの関係が変わらずにいつまでも続けばいいのにと、思った。
そしてふと考えた。自分たちの関係とは、どんなものなのかと。
決まっていた。それは、主人と執事という関係だった。
それなのに、ハスターの心はそれじゃないと叫んでいた。それ以上の関係を、求めていた。
そんな心の叫びは、なまじ貴族位を手に入れてしまったがゆえに、そしてそれをロザリアが行ったことにより、燃料を投下されて激しく燃え上がっていた。
もしかしたら、ロザリアもまたその言葉を、その関係を望んでいるのではないか――そんな自分勝手な思いから、言葉が口から出そうになった。
強く、強く、ハスターは奥歯をかみしめて、その言葉を飲み込んだ。
関係のその先を求める言葉を、心の奥に埋めた。
不思議そうに自分を見つめるロザリアへと視線を返し、ハスターは小さくかぶりを振った。
「いいえ、今日は確かにデートでしたよ。楽しかったので」
そう告げれば、ロザリアは心からの笑みを浮かべて見せた。蕩けるようなその笑みを、西日が赤く染める。
恥ずかしげに頬を朱に染めているように見えるロザリアへと、ハスターは無意識のうちに手を伸ばしていた。
「これ以上を、求めてはいけませんか?」
一度飲み込んだはずの言葉は、するりと喉の奥から零れ落ちた。
「これ以上って、何かしら?」
困ったように目を伏せるロザリアを、気づけばハスターは抱きしめていた。
「期待しては、いけませんか?私のために、お嬢様自身のために、私に爵位を与えてくださったと、そう思っても構いませんか?私は、お嬢様に、お嬢様以外のあり方を求めてもいいのでしょうか?」
「ちょっと、どうしたのよ?」
からかわれているのかと、そう言いたげな声音で、ロザリアはハスターの腕の中で見上げながら尋ねる。
思いが、溢れる。守ると誓ったロザリアの体は、とても小さかった。平気そうな顔に隠したその熱が、鼓動の速さが、確かにハスターに伝わってきていて。
同時に、ハスターの全ても、ロザリアに筒抜けになってしまっていることが、ハスターには手に取るように分かった。ロザリアの目が、潤んでいた。揺れるその眼は、言葉の続きを待っているようにハスターには思えた。
唾を飲み、口を開く。
「お嬢様、私は――」
駄目よ、と鋭い言葉がロザリアの口から零れ落ちた。ハスターのすべてが、止まる。視界にはただ一人、ロザリアの姿があった。それ以外のすべてが、ハスターの意識からは抜け落ちていた。小さく、ロザリアの首が横に振られる。
「わかっているでしょう?私は、ロザリア・ヴァンプスなのよ」
ハスターにはわからない。わからなかった。
自分は男爵を継ぐ立場になった。養子とはいえ、男爵家の一員になった――
「私は、ハスター・ラズライトですよ?」
だから、さらに上を、ロザリアとの関係の進展を、求めてもいいはずではないのかと、告げるのに。
ロザリアは静かに首を振り、そっとハスターの胸元を押して腕の中から抜け出した。
「ハスター、あなた、今日は何度も照れたわね?」
いきなり何を言い出すのか――困惑と焦りと絶望にさいなまれたハスターは、それでも勝負のことを思い出した。それは、ハスターがロザリアに照れている姿を見せたら罰を与えるというもの。
罰――その言葉が、ハスターの心にのしかかる。どこか悲しみに満ちた目でハスターを見つめながら、ロザリアは告げる。
「命令よ。わたくしのことなんて気にせずに、自由にありなさい。そうして――幸せになりなさい」
日が落ちる。闇の中、ロザリアはくしゃりと顔をゆがめて、ハスターに笑いかけた。そして、ロザリアは一人、背を向けて歩き出す。
その隣に、ハスターの姿はなかった。当たり前のように享受していた立場は、ロザリアによって断ち切られた。
どうして――言葉が、ハスターの胸の内に溢れる。
どうして、私を捨てるようなことをするのですか?
どうして、そんなに悲しそうな顔で私を突き放すのですか?
どうして、私があなたを気にせずに、あなたなしで幸せになることができるなんて、そんなことを思うのですか?
どうして、私にあなたを幸せにさせてくれないのですか?一緒に、幸せになる道はないのですか?
伸ばした手は、届かない。歩き去るロザリアの背中が遠くなり、やがて闇の中に消えた。
自分はなにを間違ったのだろうか――ハスターは考える。
想いを、行動に移したからだ。あるいは、お嬢様の期待を裏切るような何かをしたのかもしれない。何か、お嬢様のことを理解できていないのではないか――どれほど考えても、これという答えは出なかった。
魂が叫ぶ。心が悲鳴を上げる。もっとお嬢様の隣にいたい。たとえかなわぬ想いであっても、いつかお嬢様の隣に自分以外の人が立つのだとしても、それでももう少しだけ、もうこれ以上何も望まないから、もう少し――
心が、動く。口が、ゆっくりと開く。
震える声で、言葉を紡ぐ。そこに、あふれんばかりの想いを乗せて。
【タイム・シフト】
瞬間、ハスターの見る世界の輪郭があいまいになる。糸のようにほつれた世界が、揺らぎ、うねり、動き始める。
無数の糸だけになった世界で、ハスターは一人、確かにそこにいた。
ぐらりと、世界が揺れた気がした。
そして次の瞬間、ハスターの視界が赤に染まった。夕日の、赤。
目の前にはロザリアの姿があった。
「今日はハスターのための日だったのに……全くデートじゃなかったわね」
聞き覚えのある言葉を、ロザリアが繰り返す。否、それは繰り返しではなかった。
ロザリアにさえ秘密にしている、ハスターとヴァンプス侯爵だけが共有する、ハスターの魔法の正体。
ハスターの魔法は、空間魔法ではなく時空魔法という、時と空間を操る恐るべき力だった。
巻き戻った世界、意気消沈したロザリアはうつむいたままハスターの足先を見ていた。そこには、ロザリアが購入を決めた真っ黒な革靴があった。ロザリアとの時間の結晶は、思い出は、確かにそこにあった。
これ以上、一体何を求めようとしているのか――ハスターは欲張りな自分が無性に恥ずかしくなって、顔をゆがめた。
ひどく口の中がかわいていた。今度は失敗しない――そんな覚悟を胸に、ハスターは口を開く。
「デートではなかったかもしれませんが、本当に今日は楽しかったですよ。……お嬢様、そろそろ帰りましょう」
これ以上何も言わせないというように手を差し出せば、ロザリアは困惑を顔に浮かべながらもハスターの腕を取った。
そうして、二人並んで歩き出す。
腕に感じる小さな温もり、隣を歩く足音、時折見上げる視線、それらすべてを感じながら、ハスターは繰り返し自分に言い聞かせた。
これでいい、これで十分なのだと。ロザリアの拒絶の理由から目を逸らし、自分を解放しようとしたその行動と原動力となった想いを封じ、思考を放棄して蓋をして、すべてをなかったことにして。
ハスターは自室につくなりベッドに倒れこんだ。それは力量以上の魔法の無茶な使用による疲れでもあり、同時に忘れようと必死になっているロザリアとの行動と会話のすべてによるショックによるものでもあった。
体に残る疲労感が、心の疲れが、ハスターの意識を眠りへと引きずり込んでいく。暗い海の底に沈みながら、ハスターは決意する。
もう二度と、繰り返さないと。この想いは、心の中にしまい続けると。
今日も、そして明日も、ハスター・ラズライトはロザリア・ヴァンプスの執事として生きていく。いつか、どうしようもなくロザリアと別れる以外の選択肢が存在しなくなる、その時まで。