19ハスター、天に上る
くすんだ鏡面の前でハスターは何度も服装を確認する。服にしわはないか、ゆがんでいないか、汚れはついてないか、服は似合っているか。少し跳ねていた髪を押さえつけて、ハスターはもう一度鏡面に映る自分の姿を確認する。
グレーのスーツに身を包んだ青年がそこにいた。かつて、孤児として路地に生きていたころからは想像もつかないハスターの姿がそこにあった。
「デート……」
言葉にするとくるものがあり、ハスターはしゃがみこんで頭を抱えた。
「落ち着け、落ち着いてください、私。大丈夫です。あのお嬢様のことなのですから、特に深い意味はなく、ただ外出をデートと表現しただけでしょう。だってあのお嬢様ですよ?朴念仁の代表格ですよ?お嬢様のことなのですから『わたくしの時間を上げるわ』程度の考えでこれから一日私と二人きりで……二人きりっ!?」
自分の言葉に打ちのめされてハスターは地面に膝をついた。普段からハスターはしょっちゅうロザリアと二人きりなのだが、デートという言葉に意識を奪われたハスターはその事実に気づかない。最近切っていなかったせいで目にかかる黒髪をかき上げて、ハスターは震える膝を抱えるようにして顔を上げて鏡に映る自分を再確認した。
浅黒い肌に、黒髪、鋭い金の瞳。この国では珍しい、異国の雰囲気を放つ自分の容姿が嫌いだった。ストリートチルドレン時代も、容姿のせいで爪弾きにあってひどい目を見た。ヴァンプス家に仕えるようになっても、ぶしつけな視線が絶えることはなかった。皆が、一度はハスターの異国の血が混ざった容姿に反応を示す。けれど、ただ一人だけ、違う人がいた。同じ孤児たちによる攻撃を受けて倒れていた幼い自分に、差し伸べられた傷一つない真白な手。隣に立つメイドに日傘を差してもらう少女は、絶望の中にあったハスターを澄んだ目で見つめていた。
その少女の名前を、ロザリア・ヴァンプスといった。
モスグリーンのワンピースドレスに身を包み、キャノチェ帽子をかぶったロザリアは、ハスターの服装を上から下まで眺めて、満足そうにうなずいた。
「……お嬢様、本日はどのような計画なのでしょうか?」
「え?ハスターへのお礼のための一日なんだから、ハスターの好きなようにすればいいのよ。せいぜいわたくしを振り回して楽しむといいわ」
完全にノープランだったハスターは、無垢なロザリアの視線にさらされて、とりあえず歩きますか、とロザリアに手を伸ばした。
「意外と様になっているじゃない。貴族の地位が重いと感じていたらどうしようかと考えていたのだけれど、杞憂みたいね」
「おかげさまで、幼少の頃より十分な教育を受けてきましたので」
ロザリアの手を取って貴族街を歩きながらも、ハスターは過去のことを思い出していていた。ロザリアが差し出した手を無意識のうちに握って、次の瞬間には意識を失って。気づけば幼いハスターはヴァンプス家にいて。献身的に世話をしてくれたロザリアに心を開き、そしてヴァンプス家に――ロザリアに仕えることを決意した。
その決意は、魔法への覚醒に後押しされることとなり、ハスターはこうしてロザリアに仕える地位を手に入れた。
ハスターが若くして魔法を手に入れたのは、ひとえにロザリア・ヴァンプスという存在があったからだった。そんなハスターの命題は――
「ハスター?ぼうっとしてどうしたのよ?せっかくのデートなのよ?少しは楽しみなさいよ」
やっぱり何も気負うことなく、ロザリアは「デート」という単語を使って見せる。ロザリアの言葉が、ハスターの頭の中でこだまする。デート、デート、デート……慌てて首を振るハスターに、ロザリアの視線が突き刺さる。
「本当、今日はどうしたのよ?」
「いえ、正直お嬢様の貴重な時間をいただくのは心苦しくてですね」
「別にわたくしの時間に大した価値はないわよ」
「ですが以前、第一王子殿下には『あなたに割く時間はない』というようなことをおっしゃっていたと思うのですが」
ハスターがそう告げれば、ロザリアはどこか呆れたような目でハスターを見上げた。以前は見上げる側だった気がするのに気づけば二人の背丈は逆転していた。それでも、立場が変わることはない。自分は使用人でロザリアは仕えるべき主だ――そう、ハスターは己に言い聞かせる。
「よく覚えているわね?わたくし自身すっかり忘れていたわよ。でも、そうね。確かあの時はあなたに割く無駄な時間はない、みたいなことを言ったんじゃなかったかしら?」
「はい、そのように記憶しています」
「そこよ!つまり、ヴィルヘルム王子との時間は無駄なのよ。誰が好き好んで殿下との蔑み合いに時間を割かないといけないのよ」
「……では、私とは蔑み合いにならないから時間を割いてもいいということでしょうか?」
目をしばたたかせるロザリアは、にやりととどこかからかいめいた笑みを浮かべ、そしてハスターを手招きする。不思議そうに首をかしげながらも、ハスターは腰をかがめてロザリアの口元へと耳を近づける。
「――ハスターと一緒にいるのは楽しいからいいのよ」
ささやくようにそう告げたロザリアは、呆然と目を見開くハスターに満面の笑みを浮かべ、ハスターを引っ張るようにして歩き始めた。
「……ハスター?」
はっと意識が舞い戻ったハスターは気づけば見知らぬ店舗に入っていたことに気づいて慌てて周囲へと意識を向けた。
そこはどうやら時計屋らしく、大小さまざまな時計が大量に並べられていた。ハスターの身長を優に超える高さの振り子時計があったかと思えば、手のひらにすっぽり収まるくらいの懐中時計もあった。どうやらロザリアのお目当ては懐中時計の方らしく、ガラス棚に飾られた小さな時計たちを順番に見て回っていた。
「そういえばハスターは懐中時計を持っていないなって思ったのよ。何か理由はあったりするのかしら」
「……いえ、とくにはありませんね。もともと時間を見るという習慣はありませんでしたし、屋敷には自室を含めてあちこちに掛け時計が設置されているので特に必要ではありませんでしたから」
「それに学園にも時計はあるものね」
思い出したようにつぶやいたロザリアの頭の中には、学園の中央にそびえる真っ白な時計塔の存在があった。四面全てに針を持つ時計は、およそ学園のどこからでも見ることができる高さをしていた。人によって白亜の巨塔などと呼ぶそれは、王立学園の象徴として認識される建物でもあった。
「ハスターにはやっぱり銀色が似合うわね。あら、残念?」
「いえ、別に残念ではありませんが……どういうことでしょうか?」
「金色が似合わないっていうのが嫌かなって。まあもっとエキゾチックさを求めるのならありかも知れないけれど……ハスターはそういうのが嫌いでしょう?」
「ご配慮感謝します。とはいえお嬢様や旦那様ではないのですから、そこまで金色に執着はありませんよ。」
「な、だめよハスター!?金を嫌うものはお金に嫌われるのよ!?」
「どういうことですか?」
「嫌いだ嫌いだって言い続けていると、周りの者がそれに配慮してさりげなく嫌いなものを遠ざけてくれるでしょう?そうしてお金を手に入れるチャンスが遠ざかっていくのよ」
「……別にお金が嫌いだというわけではありませんよ」
「そうね。お金が好きだと言い出せない恥ずかしがり屋なハスターに代わって、私がハスターのためにお金を使ってあげるわ」
言いながら、ロザリアはハスターの制止の声を無視して店員を呼びつけ、一つの懐中時計をガラスケースから取り出してもらう。シンプルな鎖付きの銀の懐中時計。ハスターの瞳に近い色合いをしたイエローガーネットがつけられたものにも惹かれたけれど、研ぎ澄まされたような仕事人間のハスターにはシンプルな方が似合うと判断した。
蓋の表面には蔓のような曲線が軽くアクセント程度に彫られ、開いた中は歯車などが見えるスケルトンタイプ。ハスターにぴったりなそれを手にもって、ロザリアはハスターの隣に並べてみて満足そうに頷く。店員の「よくお似合いですよ」という言葉がハスターにはひどく遠く感じられた。その視界には、ただロザリアは一人が映っていた。
「いいわね。これにするわ」
あっさりと大金を支払ったロザリアが、ハスターのポケットに懐中時計を入れて店を出る。
それからもロザリアはハスターのために散財を続けた。