11忠犬ハスター
「おはようございます、お嬢様」
扉の先から、寝ぼけた声が聞こえてきて、もぞもぞと動く音が響く。その音を聞きながら、ハスターはふぅと息を吐いた。
やがて、再び音は消え、小さな寝息が聞こえ始めた。もう一度ノックをして声をかければ、やっぱり寝ぼけたロザリアの声が聞こえた。
「開けますよ……はぁ。いつまでふてくされているのですか」
眉間に深いしわを寄せたロザリアは、掛け布団を抱きしめながらじっとハスターを見ていた。
「……淑女の部屋に勝手に入って来るなんてありえないわね」
「それは失礼いたしました。それよりもお嬢様、早く起きて下さい。学園に遅刻しますよ」
「別に多少の遅刻くらい問題ないでしょう?」
ふあ、と隠すこともなく大きなあくびをするロザリアが涙のにじんだ目でハスターを見上げる。ぐ、と心の中で小さく悶えたハスターは、熱い思いを吐き出して細めた目でロザリアを見つめた。
「今のイリーナ様がお嬢様の遅刻を許すとは思えませんが。またうるさくてかなわないとおっしゃいませんか?」
「……そうだったわ。あの教師、どうしてくれようかしら」
ロザリアが神を煩わせたとして憤るクラス担任のイリーナは、現在ロザリアを目の敵にしていた。金で雇った人間を招待することでお茶会の課題を達成しようとした自分にも問題があることは理解していたためにロザリアは強く出ず、そのことが一層イリーナの言動を苛烈なものにしていた。
これまでのストレスを発散するように高圧的にわめくイリーナの姿を思い出して、ロザリアはくしゃりと顔をゆがめる。
「やっぱり解雇かしら。あの若作り婆に袖の下を渡せば簡単よね」
「どうでしょうね。お嬢様を制御できる可能性のある者を簡単に手放すとは思えませんが?」
ロザリアは「はっ」とハスターの考えをあざ笑って見せた。
「あの研究中毒にして金に執着する女が金と雇用維持のどちらを取るかなんて明らかじゃない」
「もちろん雇用でしょうね。たまには金を断っておくことで裏金の額を引き上げる工作ができると思えば、いくら彼女でも雇用をとると思いますよ」
「……そう、かしら?」
「ええ。ですから、本当に鬱陶しくお思いでしたら私が対処しますよ」
「へぇ、あなたが、ねぇ?」
「はい。私の手にかかればイリーナ様に対応を変えていただくことなどたやすいことです」
「……で、珍しく私に提案するのは、何が目的なわけ」
「経費の請求をさせていただこうかと」
そう言って、ハスターはあらかじめ準備していた請求書をロザリアに突き付けた。ロザリアがそれに目を通している間に、魔法でロザリアを着せ替え、座ってもらって髪を整え始めた。
「ジャイアントブラウン……って何よ?」
「蜘蛛ですよ。全長十センチを超える大きな蜘蛛です」
「で、なんでそんなものを十匹も購入してるのよ。それで三百万フェルって何よこの買い物」
「お嬢様のお茶会を確実に行うために必要だったものですよ」
自分の普段の散財を棚に上げて告げるロザリアだったが、ハスターの購入理由を聞いて口をつぐんだ。苦い顔を浮かべるロザリアが失態の記憶を思い出しているのは明らかで、やや言葉を後悔しながらも、ハスターは視線で求められるままに詳細を語った。
「……つまり、わたくしの邪魔をしてこようとしていた邪魔ものを排除するために蜘蛛を頭上に転移させたってことね」
「はい。ほかに蛇やカエルも使用しましたが、そちらは旦那様より預かった資金によって行いました。蜘蛛の方は保険的な意味合いが強かったので自腹で購入しております」
「ドSね……悪くないわ」
「お嬢様?ドエス、とは何でしょうか?」
あ、と声を上げたロザリアはハスターの質問から逃れるように視線を虚空にさまよわせた。巫女によって今後広まっていく、まだ存在していない言葉を使ってしまったことに気づいたロザリアの焦りは相当なものだった。
「ああ、その、鬼畜とか、情け容赦がないとか、そんな意味ね」
冷や汗を流しているロザリアを、ハスターは不思議そうに見つめていた。
「全く、わたくしもその場にいられればよかったのに。すごく楽しそうね。蛇にカエル……蜘蛛は見たくないから別に要らないわね」
「お嬢様のための行為であって、別に私は楽しくて行っていたわけではないのですが」
「そう?案外あなたもやっているうちに楽しくなってきたんじゃないかしら?」
ハスターは首を横に振って否定するが、己の心に問いかけても確実な否定の言葉は帰ってこなかった。自分は実は途中から楽しんでいたのではないかと、ハスターは愕然とした。
「お嬢様のせいですね。自分が染まっていっている気がします」
「わたくしのせいにしないでよね。まあ、ハスターがわたくしの影響を受けているというのは嬉しい気もするけれど」
鼻を鳴らしたロザリアが立ち上がる。扉の前まで歩いて行ったところで振り返って、不思議そうにハスターへと視線を向けた。
「……おいていくわよ?」
慌てて後を追おうと歩き出したハスターは、その数秒後、テーブルの脚につま先をぶつけて呻くことになる。
「イリーナ様。少々よろしいですか?」
授業後。先に訓練場へ向かうと告げて去っていったロザリアを見送ったハスターは、学園に設けられた自室へと戻ろうとするクラス担任のイリーナに声をかけた。
これまで特に一対一で話した記憶のないハスターが声をかけてきたことに不思議そうにしながら、イリーナは目をしばたたかせた。
「私に様付けはいりませんよ。貴族とは言え子爵家の三女ですし、何より今は生徒と教師という立場なのですから、さん付けか、あるいは先生と呼んでください」
「それはともかく、少しロザリアお嬢様への対応を改めていただきたいのですが」
直球で告げたハスターの言葉を受けて、イリーナはすっと顔から表情を失った。暗い瞳を向けられて、ハスターは自分が気圧されたのを感じた。けれどそのことを顔には出さず、冷静を装って口を開いた。
「お嬢様も反省しておられますし、何よりここ数日のイリーナ様の言動は教育者として相応しくないものではありませんか?」
「あなたはロザリア様の執事だけあって彼女の肩を持つのですね。けれど私は、もっと彼女に厳しく言うべきではないかと思いますよ。むしろ彼女のことを思うがゆえなのです。今厳しくしておかなければ、彼女は取り返しのつかない過ちを犯してしまうかもしれません」
それは、ロザリアの一度目の人生そのものだった。失態をさらし、笑われ、怒りに捕らわれたロザリアは悪行を重ね、ついにはその命を失った。
けれど、今度は違う――その気迫を、その変化を、ハスターは肌身に感じていた。少なくともこれまでのロザリアであれば、自分に罵詈雑言を浴びせるイリーナを瞬時に解雇させたことは明らかだった。
「……今のペースでも十分に変わっていけますよ。それよりも、ロザリアお嬢様ではなく、貴女の方がよほど罪深いと思いますが」
そう言われて、イリーナはきょとんと眼を見開いた。「罪深い……?」とつぶやきながら、答えを求めるようにハスターへと視線を向ける。
「貴女はお嬢様を出汁にして神と崇めるアイビー様と直接お話をなさったでしょう?それは神を俗世に染める、恥ずべき行為だったとは思いませんか?」
ハスターにそういわれた次の瞬間、イリーナの顔から血の気が失せた。脚から力が抜けて、イリーナはがっくりと床に座り込んだ。
「まさか、そんな……私が、神を貶めてしまったの……?」
「罪深いでしょう?お嬢様もですが、貴女も今一度言動を悔い改めるべきではないかと思いますが」
「いえ、でも、一ファンとしては神の目に自分が映るのは感涙ものであって、言葉を交わすことも決してダメというわけでは……」
「それでも、神と崇めるのでしたら相応の対応がありますよね?まさか、嫌われたくてあのようなことをしたと?」
「まさか!そんなわけがありません!」
「お嬢様の行為は褒められたものではありませんでしたが、あの時学園にて、アイビー様は仕事をなさっていました。そんな神の手を煩わせたことを反省しなければ、貴女はファンではなくアイビー様にとっての敵となりますよ?」
これだけ言えば十分だろうかと、ハスターは打ちひしがれるイリーナを見下ろしながら息を吐いた。
その瞬間、胸の中で渦巻く感情に気づいて、ハスターはくしゃりと顔をゆがめた。
歓喜や興奮。そんな感情が胸の中にあった。それはまるで、イリーナを絶望させたことを楽しんでいることを証明されたようで。
ハスターは逃げるようにその場を去り、それからロザリアとレイフォンを足腰が立たなくなるまで熱血指導したという。
その後、イリーナは意気消沈し、元の不安げな姿が見られるようになったという。