18
誕生した子供は、可愛らしい女の子である。
家族全員の愛情を受けて成長するだろう娘には、未来と名付けられた。伯父夫妻が、あれこれ考えて与えた名前である。
その退院は、母と同日に許された。
叶邸では、新たな家族を迎えた晩餐を行い、楽しい夕べを過ごした後、まだ無理の出来ない希望を案じて、早々にお開きにする。
彼は未来を抱いて、すぐさま自室に引き上げたのだが、その際にスウェイワナをいざなった。
娘の父親たる彼は、母の胸から用意されたベビーベッドへと場所を移す未来を、愛おしげに見詰める。
「……大切な、話しがあります……」
「ノゾミ……」
向き直った彼がひどく真剣な表情をしているのに、スウェイワナも気持ちを引き締めた。
促しに応じて、共にベッドに並んで腰掛ける。
その瞳は、互いを見合ったままだ。
「……生死の境にあった時……あなたの祈りを……ずっと聞いていました。僕を、助けてくれと……。生命と引き替えにしても構わないから……どうか……と……」
「……ノゾミ……」
スウェイワナは、驚いて目を見張る。
その表情から多くを読み取って、希望は微笑を浮かべた。
「恐らく、ローディアナ神が聞かせてくださったのだと思います。それに……僕は、とても力付けられました……」
思い込みでなく、実際にスウェイワナがそのように祈っていてくれたと知って、素直な喜びが彼の胸を満たす。
そしてそれに後押しされて、自らの胸の内を明かす決心が、ようやく固まった。
「……どうしてなのか、なかなか口に出来ずにいたのですが……その……今更ですが、僕は、スウェイ……。あなたを愛しています」
愛しい男を真っ直ぐに見詰め、希望はそう告白する。ス
ウェイと、彼を呼んだのも、またはじめてのことだ。
「ノゾミ!」
スウェイワナは、目を見開いた。
「多分……きっと……はじめて出会ったあの時から……ずっと……」
懐かしいあの日が、甦る。
彼と共にこの先を生きるのだと高揚した覚悟は、未だ色褪せていなかった。
それを思うに、羞じらいと言うよりは、どのような表情を作って良いのか考えあぐねて、希望は俯いて視線を彷徨わせてしまう。
「私も……あなたを、心から愛しています!」
スウェイワナは、心から訴えた。
「知って、います……」
顔を上げて、希望は応じる。
「……でも、あなたには、奥さんと子供がいます」
「……っ」
紛れもない、それは事実だ。
返す言葉もなく、スウェイワナは消沈した。
「つまり……僕は、あなたの伴侶には、なれないのです……。このままでは……」
真理である。
「……ノゾミっ」
スウェイワナは何かを言いかけ……しかし、口を結んだ。
「テルサさん……。あの方には、本当に申し訳ないと思っています。けれど、もう……自分の心を偽りたくありません」
希望は、淡々と語る。
「死を覚悟した時、心の奥底から強く願う……本当の希みを、僕は自覚してしまいました。あなたを愛していて……あなたが欲しい……。偽りのない、本心です」
既に意識すら失っていたあの苦難の時、希望が欲したのは、愛しい男の存在だけだった。
彼の労りと、必死の請願を心に感じ、それにどれほど力付けられただろう。
彼岸を見た多くの者が生還の際に思うことだろうが、それまで後生大事に抱えていた「価値観」すら変わってしまう強い衝撃だった。
「それは、私にとっても同じこと。テルサには、いくら詫びても許されないでしょうが、彼女を愛しいと思う気持ちは、この心の中に欠片もないのです……。ただただ、あなただけを、私も愛しています」
残酷なのか、冷酷なのか、本当に申し訳ないとスウェイワナは真実を吐露する。
「……スウェイ……」
希望に、それへ意見することは出来ない。
胸の痛みを甘く感じるほど、その言葉を、嬉しいと思ってしまうのだから……。
故に、しっかりと「決意」を告げた。
「……帰りましょう。ラジアナへ」
「ノゾミ?」
あまりに意外な言葉に、スウェイワナは瞬いた。
希望は頷いて、更に告げる。
「啓示を、受けたのです。僕たち三人一緒なら、再び、かの地へ渡ることが可能だと」
たちまち、スウェイワナの表情が輝いた。
偽りない心で、生まれ故郷を恋しく思うのは、当たり前だ。
まして、自分自身を見失いかけている状態であれば尚更に。
「本当にっ……。で、ですが、あなたは……」
本音は嬉しい。
だが、かの地は、希望にとって、幸福な記憶など欠片もない場所に相違ない。
スウェイワナの最優先は、愛しい希望と共にあることだ。その上でこの先の人生は意味を持つと、理解出来ている。
希望は、そんな彼の葛藤を理解して、柔らかく微笑した。
「一度は、恋情に傷付いて、全てを投げ出してしまいました。けれど、あなたの愛情があるのなら、もう……逃げません。僕は、再び与えられた役目を、叶う限り……果たしたい」
かつての日……。
ローディアナ神の召喚を受けた時の決意が、彼の中に甦る。自らの持つ全ての知識を駆使して、苦しむ人々に光明を与えたい……そう希った想いは偽りでない。
「ノゾミっ」
堪えきれない歓喜が、スウェイワナの表情を彩った。
「そして……勝手は承知していますが、あなたには、テルサさんとの関係に、終止符を打って欲しいんです。そうしなければ、僕たちの間は、何もはじまりません」
希望は、母となった強さを身に纏い、「人の道」を説く。
おきれいなだけの正論でしかないかもしれない。
けれど、これもまた希望の本質なのだ。
生真面目で、融通の利かない、いっそ愚かなまでの彼自身が、中途半端な現状に甘んじるのを拒んでいる。
偽りを正し、誰の前でも卑屈にならずに済むようありたい。
そう願ってやまないのである。
「……彼女の許しが得られたら、僕は、……改めて、あなたの伴侶になりたい。けれど……どうしても許されないのなら、決して不倫をせず、あくまでも友人として協力する……。そうしようと、決めたのです」
希望は、言い切った。
全ては、正式な妻であるテルサの意向次第だと。
「そんなっ……」
スウェイワナは軽い混乱に見舞われる。
愛しい希望に、そのような苦しみを強いるのは、断じて本意でないのだ。
「これが、僕のけじめです。あなたのけじめも、どうか、見せてください」
しかし、希望の意志は固い。
「……わかりました……」
やむなく、スウェイワナも覚悟をした。
「私はあなたを、必ずや正式な伴侶に迎えてみせます。誠心誠意の謝罪と説得をすれば、テルサも許してくれるはずです。彼女は、聡明な素晴らしい女性なのです。道を誤らせてしまったのは、全て、私の不徳……。何より、愛情のない婚姻を無理に保つ虚しさを理解出来ない人ではありません」
優しい幼なじみの姿が、彼の胸の中に甦る。
本当に本当に、彼女には惨い仕打ちをしてしまった。
更に申し訳ないことに、欠片の愛情もこの胸には既になく、あるのはただ後悔と憐憫……そして、贖罪の念だけなのである。
「テルサさんには、出来る限りの配慮をして差し上げてください。勝手な提案ですが……、彼女には、王妃の称号を維持してもらっても構わないと思います」
希望は、そう提案した。
「実際、この世界でもそうした例はあるのです。有名な皇帝が、政略の必要性と直系の後継者を欲したことから、それまで連れ添った……もう妊娠が難しい年齢となっていた伴侶を離縁する時に、そうした手続きが取られました」
フランス初代皇帝ナポレオンと、その最初の妻ジョゼフィーヌの例を引き合いに出す。
彼女は、その後生涯に渡って、皇后の称号を安堵された。
また、時代は遡るが同国のルイ十二世の最初の妻であり、先代国王シャルル八世の姉であるジャンヌ王女もまた、夫の事情によって離婚を強いられた悲劇の王妃だが、彼女はベリー公妃(あるいはベリー女公爵)を慰留され、更には没後、列聖されたことで知られる。
ベリー公爵は、フランス王室で権威の高い儀礼称号である。
王の近親から、一代限り授与される特別なものだ。
フランスでは、女児の王位継承をサリカ法典なる明文で禁じているため、世継ぎなく崩御した先代国王の跡を、姉王女の夫である傍系のルイ十二世(五代前のシャルル五世の曾孫に当たる)が受け継ぐことになった。
けれど、その際に問題となったのは、シャルル八世の未亡人アンヌである。
アンヌの有していたブルターニュ地方を失っては、国が揺るぐ事態となるため、王の伴侶として、引き続き彼女の身柄を抑える必要があったのだ。
よって、ルイ十二世は、妻を離縁してその座にアンヌを迎えようとし、この結婚がジャンヌの亡父(先々代国王ルイ十一世)による無理強いであり、洗礼者が同一(ルイ十二世もジャンヌも、ルイ十一世を宗教上の父としている)の場合、近親扱いになると言いがかりめいた理屈によって、結婚を無効とするべきと、裁判を起こしている。
無論、ジャンヌに非は一切なかった。
であっても、政治的な背景から、国民の大いなる同情を寄せられつつ、ジャンヌは正妃の座から身を引くに至ったのである。
その後、彼女は元王妃として人々の敬愛を受け、信仰に生きた。
男の身勝手で妻の座を追われる高貴な立場の婦人へは、相応の配慮が必要となるのだ。
「また、つい最近でも、ある国の皇太子が離婚した後も、元のお妃さまにプリンセスの称号を用いることを許しています」
記憶に新しい英国での世紀の大離婚である。
哀れにも元妃は余生を過ごすことなく早世してしまった。
そして、遺された皇太子は再婚したものの、新たな伴侶にプリンセスの称号を贈ることは見送られたのだ。
更に、即位後も王妃でなく、「王の伴侶」と称されることが、既に決定事項となっている。
「……それが、叶うものなら……」
生憎、ラジアナにそのような前例はない。
大陸全土の歴史までをスウェイワナは把握出来ていないが、離婚した王族がいなかった訳でないので、記録を調べ、最上の尊重をする旨を確約した。
希望は、安堵の胸を撫で下ろす。
そして、すぐにもう一つの決意を延べた。
「僕は、その後……王妃として戴冠しません」
「ノゾミ?」
何を言い出すのかと、スウェイワナは訝る。
「王の、私的な伴侶として……助手に徹しさせてください」
それこそ、現英国皇太子の伴侶がこの先に辿るだろうとの生き方に近しい。
「そうした例も……あるのですか?」
「ええ」
太陽王と名高いルイ十四世が実際に行っていることである。
ルイ十四世は、庶子たちの養育係を勤めたマントノン侯爵未亡人(あるいはマントノン女公爵。夫と死別した後に叙爵された)を王の愛人である公妾にしようとしたが、信仰心厚い彼女は不道徳な関係を受け入れなかった。
そのため、王妃の戴冠はせず、それでも正式な夫人……つまりは、それこそ「王の伴侶」として後妻になったと言う例があったのだ。
スペイン王女であった先の王妃は既に亡かったものの、生まれで劣るマントノン侯爵未亡人ではその後釜となるのに身分的に釣り合いが取れなかった事実に加えて、直系の王位継承者が確定していたことも理由の一つだ。
その後、彼女は、王の秘書的な役割を果たす傍ら、助言者として見事な手腕を発揮し、優れた人柄もあって、廷臣たちの信望を集めたと伝わる。
そのような事例を知らないスウェイワナとしては釈然としないが、きっぱりと言い切られては、否を告げることも難しい。
希望の中にある逡巡を理解出来ない訳でないのだ。
テルサを追いやり、自分がその座に納まるのに抵抗を感じて当然だろう。
「……わかりました。あなたの提案は全てが神の示唆。臣下たちも否は唱えないでしょう」
けれど、スウェイワナとしては、自らの過ち故に愛する希望に不遇を強いるのを、耐え難く思った。
「ただ……叶うものなら、私は、あなたに正式な妃として隣に立ってほしい……」
こう願うのは、当然だろう。
しかし、叶わないのは、彼自身の愚かしさへの罰以外の何物でもない。
希望は、哀しい笑みを見せた。
愛しい者の自責を辛くは思うが、全ての責任はスウェイワナにあるのだ。
ここは、何の慰めも意味などない。それでも希望は、彼の過ちを共に背負う覚悟をした。
……それだけで、良い……。
「……あの、それと……。今すぐではなく、もう少し、時間をください」
少し言い淀んでから、希望は告げる。
「僕の身体も万全ではありませんし、……何より、未来に叶う限りの予防接種をさせたいのです。……やはり、ラジアナでは、医療面で心配があって……」
「当然です」
申し訳ないが、ラジアナの医療を、とても信頼出来なかった。
そんな希望の憂慮はスウェイワナにも理解出来るため、即答する。
そして、神はそれをも配慮の上、一旦彼を故郷に帰したのではないかと、考えた。
この国の医学を以てしても、希望の出産は容易ならなかったのだ。
ラジアナにあってはおそらく、母子共々生命を落としていたに相違ない。
それでなくとも「かんなぎ」の出産は難しいものとされ、多くの先達がそれによって神に召されている。
「まだまだ、未来にはこまめな診察が必要です。僕も……勿論……」
投薬で賄う多くをかの地に求めるのは不可能なのだから、希望が我が子と我が身を案じるのは無理もない。
また、母乳が期待出来ない現状、粉ミルクに多くを委ねることしかり。
乳母と言う制度があっても、やはり標準的な生活をしている日本人として、抵抗を感じてしまうのである。
「マサミさんや、アサコさんの、お許しも……得たいと思います」
「……」
スウェイワナの非常に常識的な、そして、恩義を大切にする考えを好ましく思い、希望はうっすらと微笑する。
情けない話し、かつての希望に、それだけの配慮はなかった。
勝手なことだったと、今も反省している。
とは言え、断わりを入れたところで、どのような結果があっただろうか?
何にせよ、決別を告げれば、兄夫婦は、さぞ感情を波立たせるだろう。
きっと哀しませてしまう。
それでも……もう、決めたのだ。
「全てが終わったら……今度こそ、偽りのない真実の心で、……あなたを、伴侶として迎えさせてください」
スウェイワナは、誠意ある求愛をする。
「ええ……。愛しています……スウェイ……」
希望は、満面の笑みで応じた。
「……ノゾミ……」
「その日を……楽しみに、待っています……」
二人は、しっかりと抱き締め合った……。




