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黒の皇后  作者: 小松しま
17/21

17

 しばしの沈黙の後、市原医師が訪れる。

 事態を聞き付けて、様子見に来てくれたようだ。

 彼は、三本の缶コーヒーを抱えていた。

「おやおや……。堂に入った中世の騎士ぶりですねえ」

 彼はいつものおおらかさで、重苦しい空気を払拭すべく軽口を叩く。

 比喩でも何でもなく、スウェイワナがそれそのものであることを理解しているからこそ、市原医師は敢えて冗談として言葉にしたのである。

「いかがですか?」

 そして彼は、屈託のない人好きのする笑顔で、跪いたままのスウェイワナにコーヒーを差し出した。

「ありがとうございます」

 スウェイワナは、立ち上がると礼を言って、真実の分も一緒に受け取る。

 この地に到来した日……ひどい乱暴を働いてしまった彼は、そのままスウェイワナの火傷が治るまで、主治医を務めてくれた。

 その後も、実験やサンプルの提出で病院を訪れるたび、担当である華王医師の助手として顔を合わせている。

 年もほぼ同じぐらいとあって、今では随分と打ち解けていた。

「……随分、時間がかかりますねぇ……」

 立ったまま、市原医師は、自分の缶コーヒーのプルトップを開く。

 その目は、扉を見詰めていた。

「……はい……」

 同意する以外なく、スウェイワナは、一本を義兄に渡して自分のそれを両手で包み込む。

 まだ、充分温もりを残していた。

 暑い盛りに、いつでも冷たい飲み物を口に出来る贅沢にすっかり慣れてしまったスウェイワナなので、季節柄、クールのそれでないことに少し意外に感じてしまう。

 だが、心を落ち着けるためには、熱い飲み物が特効薬となると教えられたのを思い出して得心した。

 コーヒーもこの地で覚えた味の一つである。

 最初は苦いばかりでひどく苦手に思ったが、今ではすっかり気に入りとなっていた。

「……まあ、御心配でしょうが、黒川先生は、大変な名医でいらっしゃいます。最善を尽くしてくださいますよ」

 家族の緊張を解きほぐすように、市原医師は力付ける。

「……心強いです……」

 スウェイワナは、軽く頷いた。

 それに、市原医師は苦笑する。

「こんな言い方もナンでしょうけれど、叶さんは、とても幸運な患者さんだと思いますよ。日本中の妊婦さんたちが、安全なお産をするために、大変な御苦労をなさっている中、最高峰の名医がついているんですから」

 軽口に紛らわせる、重い話題だ。

 スウェイワナは瞬いてしまう。

「そうなんですか?」

 彼は、この病院以外の医療施設を知らない。

 それでも、ローディアナ大陸では考えられない素晴らしさに感嘆している身だ。

 けれど、目に見えるものが全てでなく、ここが特別なだけで平均点は遙か下回ると言うのだろうか?

「……ええ。……と言うか、産婦人科だけではありませんね。今、ありとあらゆる場面で医者不足が叫ばれています」

 市原医師は、コーヒーを一口喉に送り込んでから、仰々しく肩を竦ませて応える。

「その中でも、最も注目を浴びているのが、産婦人科なんですよ」

「これほど医学が発展していて……とても、不思議に思います」

 スウェイワナにとっては、あまりにも意外な言葉だ。

「発達しているから、なのかもしれませんねぇ……」

 市原医師は、コーヒーの缶を手慰みにする。

「医者にかかれば、全てが完治するって思い込み……とても恐ろしいと思いませんか?」

 それこそ、医師が言うようなことではあるまい。

 だが、真理であるぐらい、スウェイワナにもわかる。

 と、傍らで真実がプルトップを開いた。

「実際には、どんなにどんなに頑張っても、救えない命があるんです。私たち医者も、全力を尽くしているのですが……。各々の力量と言うのか、得意分野と言うのかは……どうしてもありますし……」

「飛躍的に医学は進歩していますが、地域ごとのばらつきがあることが指摘されるようになって随分になりますね」

 心の中で一件に区切りを付けた真実もまた、コーヒーを喉に送ってから、話題に加わる。

 彼は、そうした社会問題に強い関心を持つ一人なのだ。

「ええ……」

 市原医師は、困り顔で同意した。

 今は、大学の制度も昔と異なり、以前のような地域格差を抑えた医療レベルが果たされなくなって久しい。

 上層部の判断による、平均した采配が下されなくなったことで、各医師が、それぞれ自分の希望する地域や病院を自由に選ぶようになれば、それこそより良い条件を求めて、不均衡が生じて来るのは仕方なかった。

 そのしわ寄せを、現在、国民が被っているのである。

「そう言ったレベルのばらつきだけでなく……また、とても申し訳ないのですが、医療ミスが無にならないことも、どうしようもないんですよ。人が人である限り……ね」

「それは……確かに……」

 市原医師の言いたいことは、スウェイワナにも、勿論理解出来る。

 人は、過ちを犯すものなのだ。

 どれほど慎重を期しても、絶対はあり得ない。

「また、本当に……医者の力の及ばない状態なのだと、……御家族も、心構えをする時間があれば、どうにか受け入れて下さる場合もあります。けれど、お産だけは、理屈で納得出来ない場合が多いんです」

 市原医師は、再びコーヒーを煽る。

「授かった子は、五体満足で生まれて当たり前。母親も問題ないと、もう決め付けているんですね」

 おめでたと言うぐらいのそれは、決定事項とされているが、無論、とんでもない誤解であり、生命の誕生に対する傲慢だ。

 スウェイワナの生まれ育った世界では、身籠もった子が無事に生まれる保証などあるはずもなかったし、成人に至るのは更に難しかった。

 特に、「かんなぎ」は生命力が弱いとされており、誕生してもその大半は、幼い時分に天へ召されるものである。

 実際、スウェイワナの父の代にも、何人かの「かんなぎ」は誕生したが、その全てが早くに身罷った。

 更に、国王夫妻の間に生まれた子供たちも、スウェイワナ一人が成人したのみで、残る兄弟の全員が流行病で儚くなっている。

 幼い子供だけでなく、両親さえ同様だった。

「勿論、医者だって、頑張りますよ。でも、九十九人を無事に出産させても、たった一人が叶わなければ、残された御遺族の恨みがぶつけられるんです」

 飲みきった缶を握り込んで、市原医師は、苦悩を訴える。

「医師の責任である場合もあれば、そうでない場合も同じように……」

 訴えられる頻度は、産婦人科医が一番多いのだと、彼は困り顔で告げた。

「だから、その危険性が最も大きい産婦人科になり手が、今、激減しているんです」

「都内ですら、出産難民……なんて、状況に陥っていると聞きますからね」

 真実も、重々しく相槌を打つ。

「ええ。それでなくとも、出産はほとんどの場合、時を選んでくれません。急変も、とても多いんですよ。私も、研修のローティションで回ったことがありますが、身体が持たないと実感しました」

 医師も人間だ。

 多くの患者を抱え、それにかかり切りになれば、おのずと限界に至ってしまう。

 「その瞬間」を目の当たりにし、産婦人科医の道を断念する若者は数多いと告げる、現場を乗り越えた者ならではの言葉は重い。

「まあ……私の場合は、最初から外科志望だったので、そうした挫折を味わった訳ではありませんが、産婦人科を目指す同期たちは、随分苦しい判断を強いられていましたね」

 産婦人科不足が叫ばれて久しく、周囲の期待に応えるべく尽力して来た研修医たちだが、現実のあまりの苛酷さに道を違えるのは、本人にとっても断腸の思いなのだ。

「一般の人間からすれば、ドクターなんてエリートもエリート……。羨望の対象なのに、内情は、大変なんでしょうね……」

 真実は、痛ましげに目を細める。

 市原医師は、肩を竦ませた。

「それでも、一人でも多くの生命を助けたいと、私たちは毎日戦っています。最高の生き甲斐ですよ」

 言い切る彼の表情は強い自負に輝いていた。

 それを見て、スウェイワナは打ちのめされる。

(私は……何のために、生きていると言えるのだろうか?)

 王として、彼の人生はあった。

 それ以外の道など、考えもしなかった。

 かと言って、王であることに、どれだけの覚悟を持っていただろうか?

 背負っているはずの責任の重さを認識もせず、ただ権威だけにしがみついていたのではないか?

 と、そこで市原医師が小さく身じろぐ。

 彼は、白衣のポケットから院内PHSを取り出した。コールがあったようだ。

「はい、市原です。…………ええ。わかりました……。B室ですね? すぐ向かいます」

 二人への目礼の後、真剣な面持ちで会話を終えると、彼は向き直る。

「お呼びがかかりました。失礼します」

 市原医師はそう言って一礼した。

「急患ですか?」

「ええ、交通事故のようです」

 立ち上がった真実の問いに答えながらも、踵を返す。

「また大変な……。どうか頑張ってください」

 姿勢を正しての言葉だ。

 スウェイワナもそれに倣った。

「それは、患者さんへの言葉ですよ」

 市原医師は、ウィンクをする。

「お伝えしておきますね」

 後はもう、振り返りもしなかった。

 真実と共に見送るスウェイワナには、言葉もない。

 このささいなやりとりから、市原医師のプロフェッショナルとしてのあり方が垣間見られる。

 常套句であるはずのエールすら彼は自らに受け入れないのだ。

 あくまでも尽力するのは患者であり、医師は表立たずそれに手を貸す存在だと、そう認識出来ているのだろう。

 特別な技能を持ちながら、驕り高ぶることなく真摯に患者と向き直るその姿の美しさに、スウェイワナは圧倒される。

「私は……自分が恥ずかしい……」

 考えるより先に、そう口にしてしまった。

 一拍を経て、真実が応じる。

「それがわかるようになって……幸せじゃないか?」

「……っ」

 まさか義兄がそのような労りを与えてくれるとは思わず、スウェイワナは喉を鳴らす。

「……はい……」

 涙ぐんで、しまった。

(ああ……赦されたのだ……)

 慈悲深い諭しに、彼は、心から感謝する。

 真実だけでない。

 希望も……そして朝子すら、スウェイワナの過ちを、受け入れ……そして、人としてそれを悔いることを信じて……今日を、待っていてくれたのだと知る。



 彼らのかたじけないまでの配慮に恥じない生き方を、今度こそしてみせるとスウェイワナは誓った。




 それからしばらくして、出産そのものが果たされた。

 大変な未熟児であってもどうにか延命措置が叶う状態で、生まれた子供は即座にNICUと呼ばれる新生児用の集中治療室へと移送される。

 そちらでは既にベテランの小児科医以下のスタッフが、準備万端を整えて待ち構えていてくれたのだ。

 だが、残された希望の方は、予測されていたが、危篤状態に陥った。

 極端なまでの血圧の低下は、既に限界に至っているそうだ。

 黒川医師たちが懸命の努力をしてくれているが、覚悟をするようにと、真実とスウェイワナは、言い渡される。

 意識もない状態で、希望は丸一昼夜、生死の境を彷徨うこととなった。



 一睡もせずに、スウェイワナはそれに付き添い続ける。

 臨終の可能性が高くなった時点で、身内の入室が許されたのだ。


(神よ! どうかっ……どうか、ノゾミを救いたまえ! この生命を差し上げますっ! どうかっ!)


 希望の髪は、帰還直後に、以前そうだったと言う形で、すっかり短く切り揃えられた。

 スウェイワナも、今ではこちらの方を馴染みに思っているほどだ。

 ただ、時折、降臨の際の目映い美しさを思い出す日があるが……。

 希望の力無い冷たい手を両手で握り締め、スウェイワナはひたすら祈り続ける。



 スタッフたちの尽力と、その願いが天に聞き届けられたのか、奇跡的に希望は危機を脱した。

 目覚めた彼は、ずっと手を握り締めてくれていたスウェイワナと目を合わせる。

 言葉もなく、二人はただ互いを凝視し……涙したのだった。



 彼らの瞳の中には、それぞれの決意があった。




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