15
それから約半年後、夏の名残の漂う夜に、希望はまたしても六条学園大学医学部付属病院に緊急搬送された。
出産の予定日までまだ間があったのだが、突然激痛に見舞われ、早急な処置が必要となったのだ。
付き添うのは、兄と同居人であるスウェイワナの二名。
たまたま朝子は、職場の研修旅行で海外に出ており、この場に駆け付けられなかった。
こうした状況で男は弱い。
冷静であろうと勤めつつも、どうしても狼狽してしまう唯一の肉親である兄は、診察をした黒川医師の薦めを受け入れて、陣痛促進剤の投与に放心のまま同意して、スウェイワナと共に時を待つこととなった。
分娩室の前で、男たちは、ひたすら無事を祈り続ける。
(我らが偉大なるローディアナ神よ……)
スウェイワナは、遠い故郷に恩恵を与えし至尊の存在に訴えた。
(どうか……御身の愛し子を守り賜え……)
彼の中に、希望と出会ってからの八ヶ月に及ぶ思い出が甦る。
その初期は、悔いしか残らないものだった。
「スウェイ……」
不意に、隣に腰掛ける真実から声をかけられる。現在、彼はスウェイワナにとって、家主であり、身元保証人でもある。
半年前の「あの後」、スウェイワナの身柄は、真実に預けられることになった。
希望の告げた一切は、あまりにも現実離れした物語りのようなものだったが、その場にいた誰一人として、疑う者はいなかった。
正に荒唐無稽としか言いようがなかったが、それでも他の仮説は生じなかった。
何より、希望があれこれ作り話しをするはずもないと、面々は得心したのである。
しかし、それを鵜呑みにして、全てを公にする無意味さもまた、理解出来ていたため、適切な対処を講じることになったのだ。
その時点で、希望はスウェイワナのことを、「恋愛関係にある訳ではないが、合意の上で性交をした相手であり、宿した子供の父親であることは間違いない。
そして、二ヶ月間の衣食住の世話を受けていた」と説明したのだ。
何一つ偽りのない事実の羅列である。
故に、真実はスウェイワナを大切な弟の恩人であると認識した。
よって、彼の身柄を引き受ける覚悟をしたのだ。
ただ、それには様々な障害が立ち塞がっていた。
何と言っても、そのような荒唐無稽な話しを公の機関に届ける訳にはいかない。
無論、整合性の取れた作り話しで誤魔化すのも罪になる。
よって医師たちの協力の元、警察には客観的な事実のみを一切の偽りなく供述し、当事者でなければ説明の付かない不可解な部分の全てを記憶にないと押し通したのだ。
実際のところ、お役所仕事としては、それで不都合もない。
ただ、事件性が案じられたのと、スウェイワナの身元が明らかでないことから密入国を疑われたのだが、これには華王医師と木暮氏が、密かに尽力してくれた。
彼らの伝手を駆使して、スウェイワナの経歴を偽造したのだ。
欧州の小国からの身寄りのない帰化人であり、記憶を失ったことによって、生まれ故郷の言葉すら忘れてしまったと、辻褄を合わせたのだ。
無論、そのような協力を無償で行ったのではなく、大変貴重で珍しい構成の肉体をしていると言うスウェイワナが、様々な実験に協力する他、血液や細胞組織のサンプルを提供することが条件となった。
新たな世界で生きる覚悟をしたスウェイワナはその申し出を受け入れ……今に至る。
希望の協力を得て、少しずつ言葉を覚え、病院側の検査や実験に協力し、懸命の努力を続けたのだ。その甲斐あって、三ヶ月を過ぎる頃から大分会話も出来るようになった。
元々大変頭脳明晰だったようで、最近など、少々発音に不自然な部分があっても、充分流暢なものだ。 とは言え、文字を読むのは容易でなく、勿論、様々な機器の操作もまだ習熟に遠い。
そのような身では就職もなかなか叶うものでなく、木暮氏の紹介を受け、とある工場で、週に三日のアルバイトをさせてもらっている。
業務内容は、廃棄するために回収した機械製品内にある基板の破壊。
捨てるためのものに、何をわざわざそのような……と、思われる仕事だろうが、「廃棄処分されたはずの日本製の基板」が、主に東南アジア方面にて新品再生されて用いられていることが業界で問題になり、それを阻止するための工程が必須となっているのだ。
特別な知識がなくとも指定の部位をハンマーで壊すぐらいなら、スウェイワナにも充分可能だった。
また、彼は腕力が大変優れている。
シルバー要員と呼ばれる年配の準社員たちと共に、その作業に従事するようになってから、スウェイワナの日本語も大変上達したので、そのあたりもありがたい限りだった。
また、思いがけずに交流を果たしたそれらの先人たちは、いずれもが卓越した知識と教養、何よりも人生経験に恵まれている。
得難い教えを、スウェイワナは受けるに至ったのだ。
一方の希望は、身体の大事を取ることもあって、司書を辞職し、今はパソコンを使った在宅勤務をこなしている。
そうして迎えた今日の日だった。
「何でしょうか? マサミさん」
スウェイと、叶夫妻は彼を呼ぶ。
幼少時に存命だった家族……つまりは先代国王と王妃だった両親や兄弟たちだが……に用いられて以来、聞かなくなって久しい愛称だ。
それで呼んでもらえるのは、スウェイワナにとって、家族として受け入れてもらえたような喜びがあった。
しかし、希望一人がスウェイワナと呼ぶ。
当初は陛下だったのだが、さすがにもうラジアナの王でなどでないため、止めて欲しいと懇願したのだ。
その後、兄夫婦が愛称を使っても、彼一人が崩すことなく、それでも敬称を付けずに呼び捨てするようになった。
複雑な心境の現われだろう。
一方のスウェイワナは、希望だけを呼び捨てに、兄夫婦をさん付けで称している。
少しずつけれど確実に自らの愚かさを思い知っている現れは口調にも素直に現れて、今の彼に、横柄さは欠片もない。
「今更かもしれないが……君に、教えてもらいたいことがあってね……」
「……?」
真実のそれは、随分勿体ぶった問いだ。
並んで腰掛けるスウェイワナは瞬いた。
「実は、君には言っていなかったんだが……今回の出産は……かなり、難しいものなんだよ」
「え?」
驚くスウェイワナに、真実は軽く肩を上下させる。
「ただでさえ、希望はあの身体だ。なのに、妊娠初期の間に……その、保護してくれていた君には、申し訳ないのだが、心身にかなりの負担を被ったせいで、胎児の発育にひどい乱れがあるそうだ。更に、あの負傷……。まともな産婦人科医なら、母胎……ああ、母親を守るために、子供を諦めるよう指導するレベルだったらしい」
彼の言葉に他意はない。かの地・ラジアナ王国が、現代の日本と比べて様々な分野で後れを取る地であるため、多くの面で行き届かないのを当然だと弁えた上のものだ。
「そう……ですか……」
スウェイワナには、他の言葉もない。
ラジアナの生活レベル云々でない負担を希望に強いていた覚えがあるだけに、たまらない呵責がある。
「だが、あの子は、何が何でも産むと言い張ってね……。実際、あの子の身体では、こんな奇跡的なことは、多分、一生の内にもうあると思えないぐらいの確率だ。ただ一度のチャンスに違いないのだから、どんな小さな可能性であっても、自分から捨てたくないのもわかる」
真実は、淡々と語る。
成長著しい思春期に、男女のどちらか、恋をする対象が出来ていたらまた事態は異なっていたのかもしれないが、希望は我が身の異端を弁え、強い警戒からまともな友人すら作らずにひっそりと日々を重ねていたため、結局、心身が最も変化する時期を、生殖器に影響を受けずに終えたのだった。
故に、男女どちらの因子も際立つことなく、このまま生涯を、父にも母にもならないで終えるだろうと達観していたのである。
だが、まさかの事態に陥った。
「……それでも、君との関係には、首を傾げないでいられないんだ」
真実は、冷静な分析を続けた。
「恋愛関係にある訳ではないが、合意の上で性交をした相手であり、宿した子供の父親であることは間違いない。そして、二ヶ月間の衣食住の世話を受けていた」
目覚めの日に、希望が告げた言葉である。
全く異なる別の世界へ単身赴き、頼る者のいない日々、保護を請け負ってくれた存在に、我が身を委ねるのを真実に理解出来ると言ったら嘘になるが、それでも想像の範疇内だ。
何より真実には、ラジアナ王国を満たしている「価値観」や「道徳観念」が把握出来ていないのだから、自分の物差しだけで全てを測ることが出来るはずもない。
そうわかっていても、容易に受け入れられる経緯でないのも事実だ。
「兄馬鹿と言われるだろうが、僕はあの子に、恋愛感情もない相手と、易々肉体関係を結ぶような教育をしてこなかったつもりだ。……ああ、君を責めているんじゃない。特別な事情だ。……代価として、そうした行為が取り引きの材料になることも理解しているよ」
顔色を失うスウェイワナに、彼は努めて柔らかな表情を見せる。
「……何より、君は、二ヶ月にも渡って、孤立無援で、何の頼りもない地にいた希望を守ってくれていたのだから」
この事実に対して、真実は心からの感謝を抱いている。
もし、スウェイワナの庇護を受けられずにいたら、いくら言葉に不自由がなくても、現地の人々と比べて遙かに体力の劣る……そして、横行する常識の弁えのない希望では、早々に行き倒れていたはずだと推理出来た。
「それに、この半年間の、誠意ある態度を見ていて、君が希望に……その、大変な愛情を持ちつつ、節度を保った姿勢でいてくれていることは、理解出来ている」
どのような経緯で愛情のない肉体関係を交わすに至ったかはさておき、成人の両者納得の上での行為であるなら、何ら問題ない。
更に現在、スウェイワナが希望を尊重しているのは事実である。
故に、真実としてもそれを非難する筋合いはない。
「……多分、希望も気持ちは同じなのだろう。そうでもない相手の子供を、産む覚悟は、易々出来ないだろうからね」
そう言いながら、真実は視線を彷徨わせる。
敬意、尊重……そんなものでなく、実際の愛情も持っているはずだと確信があった。
それこそ兄の欲目だけでなく、希望はそうした精神的な重みを大切にする人間だと理解出来ている。
そうでなければ、生まれて来る子供が哀れだとも考える人間だった。
「なのに……何故、君たちは結婚しないのか?」
「……それ、は……」
スウェイワナにとって、痛い問いだ。
しかし、彼に視線を止めた真実の瞳は、言い逃れを許さない。
実際、その疑問は尤もである。
スウェイワナは異邦人だ。
ここで希望と正式に結婚し、生まれて来る子供の父親となれば、様々な面で足元が固まる。
もはや、郷里に帰ることなど不可能だろうし、何より本人が希望と共に生きたいと願って、共に「世界」を越えたのだ。
希望は現段階で戸籍上の性別は男だが、こうした「特別な肉体」を有している上、主治医の口添え、何よりも妊娠・出産に至った事実から、女への変更は比較的容易だ。
よって、二人が夫婦になるのに障害もない。
子供のためにも、その道を選ぶのが自然だろう。
しかし、現実はそうでない。
「……希望は、今回の出産で、生命を落とすことすら覚悟している」
「!」
信じられない言葉に、スウェイワナは目を見開いた。たまらず腰を浮かしてしまう。
この出産が難しいものだと聞いたが、まさかそこまで危険があるとは思ってもいないかった。
真実は、静かな瞳で、彼の凝視に応じる。
「そして、そうなった際に後を頼むと、遺書も預かっているんだ」
「え……」
スウェイワナは瞬いた。
「い、……しょ……?」
「遺言、だよ。自分が死んだ後の指示を予め書いておく書類だ」
「なっ……」
無論、ラジアナ王国……更にはローディアナ大陸でも、そうした習慣はある。
けれど、よほど立場の重い者か、あるいは死期を悟った病人や出陣前の儀礼でしたためられる程度のものに過ぎない。
「生まれて来る子供を、僕たち夫婦の養子にしてほしいとね」
真実は、困り顔で告げた。
「……それを渡す際に、何があろうが、君には親権を与えてほしくないと、くどいほどに繰り返した」
「……」
スウェイワナは、握り込んだ拳を震わせる。
自らを頑なまでに排除しようとする希望の決意が、たまらなく胸に痛かった。
確かにスウェイワナは、彼の意志を踏みにじり、無理矢理その清廉な身を汚した。
暗く湿った地下牢に、二ヶ月もの間、収監した。
既に永遠を誓った伴侶がいながら、偽りの婚姻を交わした。
何一つ、許されて良いようなことでは、断じてない。
「希望も、もう成人している。いつまでも過干渉な兄夫婦に手取り足取りされる謂われがないのはわかっているつもりだ。だから、あちらに行っていた二ヶ月間のことは……あの子が自分から話す気になるまでは聞かないようにしようと決めていたが……」
ここで真実は息を吐く。
彼としても、大変なジレンマがあるのだ。
希望を成人した大人だと言いながら、それでも「あの子」呼ばわりをし、何かと気遣わずにいられないのも、自分の身勝手な考えだとわかってはいるのである。
「今、あの子が生死の瀬戸際に立っているかと思うと、たまらない不安に押し潰されそうなんだよ……」
早くに両親を亡くし、たった一人遺された希望を、真実は大切に大切に育てて来た。
朝子の協力を得て、叶う限りの愛情を注いで来た。
そ の「特別な肉体」を哀れんだからだけでなく、心底愛しい存在として!
今はこの場にいない朝子も、気持ちは同じはずだ。
いや……。
むしろ、ある意味で、その想いはより強いだろう。
彼ら夫婦にとって、希望はただの弟でなく、我が子に近しい大切な宝なのである。
「その苦しみを分かち合ってくれる朝子も、今はここにいない……。それを言い訳にするのも甘えた物言いだが……どうしてあの子は、生まれて来る子供から、君の存在を排除しようとしているのか……それが、案じられてならないんだよ。君がもし、その理由を知っているのなら、聞かせてもらえないだろうか?」
それは、甘えなどでは断じてない。スウェイワナは覚悟を決めて、しっかりと立ち上がった。
その瞬間、ずっとずっと断罪を待ちわびていたことに、彼はようやく気付く。
真実の前に回り込むと、スウェイワナは、恭しく跪いて項垂れた。




