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黒の皇后  作者: 小松しま
13/21

13

 救急車のサイレンが、今日もまた響き渡っている。

 救急指定の総合病院ともなれば、この音もすっかり日常のものだ。

 しかし、本日の未明に飛び込んで来た一組の患者には、「尋常ならない状況による傷病」の対応に慣れきっている職員たちも、首を傾げずにいられなかった。

 とにかく、ひどく奇妙な二人連れだったのだ。

 一方は、こちらの常連と言って良い患者であったための飛び込みである。

 救急車を呼ぶ暇も惜しいとばかりに、患者の兄が自家用車を運転し、同乗の妻が、病院に携帯電話で駆け込みの連絡をしてくれていたため、到着すると共に、受け入れ自体はスムーズに行われたのだが、一体どのような事情持ちなのかと、待ち構えていたスタッフ全員が呆気に取られた。

 だが、修羅場慣れしている面々は、即座にそれぞれが果たすべき役割に尽力する。


「黒川先生、今、御自宅を出られたそうです。大急ぎで向かってくださっています」


 患者の一方、叶希望の緊急手術を担当することになった妙齢の美女である当直医に、中年の女性看護師が駆け付けて告げる。

「そう……。良かったわ。処置の後で、診察して頂く必要があるかもしれないものね。主治医の顔を見れば、安心出来るでしょうし」

 早足で歩く清美・アフラノ・華王は、この六条学園大学医学部付属病院に所属する優秀な外科医だった。

 大輪の紅薔薇に例えられる美貌の主だが、その手技の見事さは、まだ若いにも関わらず生きた伝説と称されるほどだ。

 胸部に鋭利な刃物による切創を受けた患者の対応をするには、適任である。

 幸いにも重傷度は低いが、縫合の必要があるだろうと申し送りがされている状態だった。

「あのっ……それなんですが、先生っ」

 看護師は、歩き続ける女医の前に回り込んで、その歩みを止めさせる。

「患者さん……。意識がないんですが、ずっとお腹を庇っているんです」

「腹部を? 受傷は胸と聞いたけれど……。あっ!」

 出産経験のある看護師ならでは着眼なのかもしれない。

 華王医師は、「まさか……」と表情を強張らせた。

 だが、叶希望と言う患者の特殊な肉体を考えればあり得ない可能性では断じてない。



 果たして、看護師の慧眼は、生まれる前の小さな生命を一つ、この世に繋ぎ止めることに繋がったのである。




 夜明け前に、華王医師は両手にコーヒーカップを持って、産婦人科部長室で時を過ごす黒川医師の元を訪問した。

 未明の呼び出しに応じて駆け付けた初老の名医は、ひどく憔悴しきった顔で彼女を迎え、差し出されたコーヒーを喉に送る。

「何が何だか……。全く、訳がわからないよ……」

 親子ほど年の離れた女医に泣き言を零すのを躊躇さえ出来ない混乱にいる彼は、がっくりと肩を落とした。

「御家族が、付きっきりだそうですわね?」

 確認の意味で華王医師が尋ねれば、彼は頷く。

 取り敢えず処置の終わった叶希望は個室へ移され、搬送からずっと待機していた兄夫婦が今も枕元で付き添っている。

「真実くんたちにも、さっぱり事情がわからないらしい。……無理もないだろうがね……」

 希望の兄である真実とも、黒川医師は長い付き合いなのだ。

 呟く彼は、すっかり弱り切っている。

 叶兄弟と関わってもう四半世紀になるが、この状況をどう受け止めれば良いのだろうか?

「特別な肉体」を持って生まれた第二子を案じた両親が、「専門家」である黒川医師を頼って訪れたのは、希望の誕生直後のこと。

 その主治医となって以来、ずっとずっと、医者と患者と言う枠を越えた慈しみを以て、彼は希望と真実……後には、兄の伴侶となった朝子にも親戚のような形で接し続けていた。

 現在も希望は定期検診を欠かすことなく、つい五日前にも、直接の検査を終えたばかりだ。

 その時、彼の女性器は、間違いなく未通だった。

 だが、現時点で破瓜を乗り越え、妊娠八週目となっている。

 信じられないが、紛れもない事実だ。

 更に、僅か数日で身の丈と同じほどに髪が伸び、普通で考えられないぐらいに全身の筋肉が衰えているのは、一体どうした理由なのか?

 軽度の栄養失調まで煩っているらしい。

 無論、これまた先週には、なかった症状だ。

「ナースの話しでは、希望くんは、今朝から、行方がわからなくなっていたそうですわね」

 黒川医師の中の混乱を整理させるように、華王医師が話し出す。

「ああ……。だが、出掛けた様子はなかったそうだ。財布や携帯電話……。それどころか、靴に衣服さえ、何一つ、なくなっていたものがなかったと言うからね」

 叶夫妻の証言である。

 いきなり、部屋から消えたと、言う以外にない状況だったらしい。

 無論、職場にも出ておらず、夫妻はひどく案じて有休を取り、方々を探し回ったものの、発見に至らず夜を迎えた。

 仮にも成人男子(一応なりとも)である。

 取り敢えず一晩だけ様子を見て、それでも何の連絡もないようなら朝になるのを待って警察に届けると決めたと言う。

 だが、その夜……。

 日付も変わろうとしていた時に二階にある希望の部屋に大きな物音が起こり、兄夫婦が駆け付けてみれば、全身に火傷を負う白人男性と共に、負傷し血を流す当人が床に倒れていた。

 二人揃って裸体で。

 更に、希望は、驚くべき長髪となって。

 ……全く以て、訳がわからない。

 とにもかくにも車に飛び乗り、かかりつけである六条学園大学医学部付属病院を目指して、今に至っている訳である。

「警察に届けるにも、どのように報告すれば良いやら。……非常に面倒な一件ですわね」

 華王医師は、息を吐いた。

 その時、白衣のポケットの中の院内PHSが振動する。

 即座に通話ボタンを押せば、希望の連れ……と言って良いだろう……の白人男性が意識を取り戻し、暴れているとの連絡だった。



 黒川医師と共に急いで駆け付ければ、全身の約五分の一もの表面積に二度熱傷を煩うその患者は、訳のわからない叫びを発して、治療を担当した市原医師の拘束から逃れようと凄まじい抵抗をしていた。

 二名の看護師も必死に加勢しているが、患者の憤りは激しく、容易ならない様子が見てとれた。

 勤務医になりたてのまだ若く体力自慢の市原医師は懸命に羽交い締めにしているが、息を激しく切らせている。

 その頬は、殴られたらしく見事に腫れ上がっていた。

「セルシンを!」

 黒川医師がすぐ指示を出すが、とてもこの状態で静脈注射など出来るものでない。

 結局二人の他にも駆け付けて来た医師たちも加勢して、八人がかりで抑えつけて何とか患者を拘束したところで、ようやく投与に漕ぎ着けた。

 薬品に耐性がないのか、効果は恐ろしく早く現れて、患者はさして時間をかけずに自失状態となり、意識を手放した。

 患者を抱え込んでいた市原医師も、緊張が解けたために気が抜けたようで、一緒に崩れ落ち、尻餅を付いてしまう。

「あ、たたたっ……」

 当然の苦悶を、若い勤務医は漏らした。

「市原先生!」

 慌てて看護師たちが患者を引っ張り上げる。

「……大丈夫?」

 華王医師が腰を屈めて覗き込み、彼に手を差し出した。

「……じゃなくても、平気ですって言うしかありませんよね?」

 それを握り取って、市原医師は苦笑する。

 指導医ではないのだが、時折その代行を請け負ってくれた彼女に、この新人は全く頭が上がらないのだ。

「こりゃあ、手酷くやられたねえ……。治療した方が良さそうだ」

 立ち上がって頬に手を当てる市原医師の患部を見て、黒川医師も表情を歪める。

「面目ありません……」

 興奮状態の患者がいきなり暴れ出すのは珍しくないのだが、まさかこれほど激しい抵抗をすると思っていなかった。

 備えが甘かったと指摘でも受けたら、病院側が責めを負う可能性さえある一件である。

「ところで、この患者……。どこの言葉を使っていたのかな?」

 駆け付けた中堅の青年医が、冷静な疑問を口にした。

 患者・スウェイワナは、単語の羅列や、無意味な叫びでなく、かなり「意味のあるだろう言葉」を用いていた。

 一同の注目を浴びたのは、華王医師だ。

 彼女は幼少時から各地を転々としており、多くの言語を解する身なのである。

 しかし……。

「生憎ですが、私にもさっぱり」

 たった一言の単語さえ、聞き取ることは出来ていなかった。

「おや……。君でわからないとなると、これは厄介なことになるかもしれないね……」

 黒川医師の表情が歪む。

「心当たりに、助っ人を頼んでみますわ。警察に届けるにしても、事情がわからないことには、どうしようもありませんもの」

 確かにその通りだった。

「とにかく、身体拘束をするしかありませんわね」

 人権的見地から、患者の拘束が避けられるようになって久しいが、この場合はやむを得ないだろう。

 スウェイワナの攻撃は、あまりにも素人離れした、人体に対して最も効能の高い実戦的なものだったことを、この場にいる全員が理解出来ている。

 放置しておける訳もなかった。



 こうして院内の一部に投げかけられた謎と疑問は、取り敢えず先送りにされた。

 医師には警察への通報義務があるため、いつまでも保留状態に出来ないが、当事者の一方にて、それなりの事情を把握しているだろう希望の回復を待って、説明を求め、その上で判断を下すことになったのである。



 しかし、その希望は、懇々と眠り続け、朝になっても、目覚めなかった。

 よほど疲労が蓄積しているのだろうと言うのが、主治医である黒川医師の見解である。

 妊娠と切創のみならず、恐ろしいほどの衰弱ぶりなのだから、それも無理はない。

 点滴では、とても賄えない域である。


「目が覚めたら、少しずつで良いので、栄養価の高い食事をさせてやってください。朝子さんの手料理なら、どんな点滴よりも希望くんの心身に力を与えるはずですから」


 明け方に、黒川医師からそう告げられた朝子は、希望の好物を叶う限り作るために、後を夫に任せて、急いで帰宅した。

 大急ぎで弁当を設えて取って返して来たのは、まだ九時前のこと。

 それでもまだ、希望は眠り続けていた。



 一方、それとほぼ同じ時刻に、スウェイワナが拘束される病室を訪れる者がいた。

「こんな時間から、お呼び立てしてしまって申し訳ございません」

 病室の前で、華王医師は頭を下げた。

 呼び出された人物は、彼女と変わらない年頃の、見るからに切れ者と言った、スーツ姿のビジネスマンだ。

「いえ……。先生には、いつもお世話になっております。どうぞ、お気になさらずに」

 青年は、柔らかな笑みを浮かべて首を振る。

 そして、華王医師の後方に控える、頬に大きな湿布を貼る市原医師に軽く会釈をした。

 市原医師は、やや緊張した面持ちで一礼を返す。

「さて、私でお役に立てればよろしいのですが……」

 青年は華王医師に向き直る。

「御謙遜を。……けれど、今回ばかりは難しいかもしれませんわね」

 彼女はそう応じながら、扉を開いた。

 途端、意味不明の怒声が投げかけられる。

「きゃっ!」

 看護師たちは、竦み上がった。

 しかし、件のビジネスマンは怯みもせずに中に入り、何かを告げる。

 彼女たちの知らない言葉だ。

 患者は、全く動じない。

 青年は、更に言葉を発した。

 それを、延々繰り返す。

 時折、彼は無謀とも思える剛胆さで、患者の身体を手で探るまでしたが、それに華王医師も市原医師も、何の意見もしなかった。

「い、市原先生っ……」

「一体、何ですの?」

 看護師たちの怯えも無理はない。

 市原医師は苦笑した。

「あの方は、木暮さんと仰って……華王先生のお知り合いなんだよ。とても、優秀な方で、仕事柄、各地の……その、言葉に堪能でね」

 市原医師が言い淀んでしまったのには意味がある。

 その木暮が次から次へと発している言葉のほとんどが、紛争地域で用いられるものだからだ。一流企業に籍を置く敏腕秘書たる彼だが、一方でそうした分野に造詣深い専門家でもある。



 ややして、木暮氏は白旗を掲げる。

「木暮さん?」

「大変申し訳ございませんが、私ではお役に立てないようです」

 彼は患者から離れて、控えていた一同の元へ歩み寄る。

「……あなたでも、ご存じない言語を用いているのですね……」

 華王医師は、即座に現状を把握した。

 片言であれば、大抵のそれを理解出来る木暮氏でも把握していないとなれば、身元の特定は一層困難になるだろうと、この先の展開を案じたのだ。

「ですが、戦闘訓練を積んだ専門家であるのは間違いないようですね。ただ、銃に関しては素人でしょう」

 拘束されている状態であっても、その筋肉の構成状態や、確認した手の平の有り様で、彼はそれを看破した。

「まあ……」

 しかし、その分析は、一層の混乱を呼び覚ますものである。

 今時、どこの地域でも銃の扱いは必須だ。

 体術やナイフだけで渡って行ける戦場など、あるものでないだろう。

「竹刀だこは、かなり年期が入っていますよ。ただ、左の手の平にはほとんどないのが奇妙です。足の裏も、踏み込みが相当なのでしょうね。あそこまで皮膚が硬く厚くなっているのですから」

 このあたりの観察も鋭い限りだ。

「ええ。どこもかしこも鍛えてあるんですが、特に右の上腕二頭筋の発達具合が見事です。片手で重いものを振り回す習慣があるんでしょうかね。後、大腿二頭筋に大腿四頭筋! ジョッキーや競輪選手並みですよ。トライアスロンを趣味にしていて、他にも何か武道をしているのかと思ったのですが……」

 市原医師の見解もまた、間違っていない。

 だがそれは所詮、平和ぼけした日本人ならではの分析に過ぎなかった。


 

正午直前にようやく希望が目を覚まして、事態は収束に向かうこととなる。


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