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黒の皇后  作者: 小松しま
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 自分の存在があるために、辛い想いをする別の人間がいたなどと、希望は、考えもしなかったのだ。

 この二ヶ月間。テルサは、どれほど嘆き苦しんだのだろうか? この身に受けた傷は、その報いのように思えなくもない。

「あ、あ、あっ……」

 流れ出した血を見て正気に戻ったのだろう。

 テルサは剣を取り落として、そのまま身体の安定を失ってしまう。

(……大丈夫、だから……)

 テルサを責めることなど、きっと誰にも出来はしない。

 彼女にそう言ってやりたくとも、希望にはままならない。

「ノゾミさまっ!」

 アルビオレの胸から離れて、テレイシスが駆け寄ってくれる。

 しっかりと手を取られれば、熱が和らぐような気がした。

 それを受け入れられる心の余裕がないだけかもしれないが、不思議なことに、痛みは最初から全く感じていない。


「王妃さまっ!」

「王妃さまっ!」


 周囲の声が、うるさいほどだ。


「鎮まれいっ!」


 またしてもアルビオレがそれを制してくれた。

「典医を呼べ!」

 実に冷静な采配をして、彼は周囲に目を配っているらしい。

 朦朧とする希望に、確認出来た訳ではないのだが……。


「王妃っ! 王妃っ!」


 スウェイワナの声がする。縋るような、贖罪するような響きだ。

 けれど、希望の心は動かない。

「帰りたい……家に、帰りたい」

 夫であるはずの男に抱かれたまま、彼はそう口にする。

 何と言う情けなさだろうか?

 全てを捨て、この身を新たな故郷に捧げようとした決意は、あまりに脆いものだったのだ。

 自嘲に苛まれる心に、降臨直後のスウェイワナとの出会いが甦る。


──僕はこれから、この人と共に、生きるんだ……──


 そう認識した瞬間、胸を満たした甘いものがあった。

 それを、懐かしく思う。

(ああ……そうだ……)

 ようやくの、実感だった。

 希望は、あの時、彼を愛し始めていたのである。

 何も知らないまま、

 愛など必要ないと口にし、

 けれど……ずっと……、

 深い、深い、心の奥底で……

 スウェイワナを……愛して、いたのだ……。

(ああ……)

 今更、どうしようもない悔恨だった。

 その時。

 同じではないが、限りなく近しい苦悩を、スウェイワナもまた、味わっていた。

 希望が全てを捨てて、ここへたった一人で出向いてくれたことにようやく気付いたのだ。

 彼の存在を、心の中から追い出そうとして全力で努めていた二ヶ月間が思い出される。

 それは即ち、愛情の裏返しではなかったのかと。

 「かんなぎ」であるイレーネの仕打ちを恨むばかり、意固地になって全てから背を向けていたスウェイワナだが、思い返すまでもなく、希望には何の罪もない。

 なかったのに……!


「帰して差し上げます!」


 テレイシスが、魂を込めて叫ぶ。

 「水晶の御使い」の称号を持つ彼ならば、あるいは、それも可能なのかもしれない。

「……ティレイ……」

 希望は、その言葉に表情を和らげる。

 懐かしい故郷が、愛しい家族の姿が、彼の心の中で像を結んだ。

(そう……か……)

 希望は今、神の存在をたまらなく身近に感じた。

 実在するのかどうかなど、定かでない。

 理解出来なくて良い。

 けれど、あの「意志」は、今一度選択の機会を、希望に用意していてくれたのだろう。

 この地に足を降ろした後、帰郷を望むか否か、見極めようとしていたのだろう。

 国の改革は、どのような仕打ちを受けても尚、ラジアナのために尽くす覚悟がなければ、到底果たせない「役目」である。

 そこで挫折するような者を、この地にとどめても仕方ないと……。

 そうした場合、帰参が叶うように、神はこのテレイシスを配してくれたに違いない。

 希望には、もう気力がなかった。

 願うのはただ、優しい兄と義姉の温もりに包まれ、慰撫されたいと言うそれだけだ。

「イレーネさま。力を貸してください」

 希望の様子に了承を見て取ったテレイシスは、今一人の同胞であるイレーネに協力を呼び掛ける。

 訳のわからない状態でいる少女はしかし、さしたる躊躇もなく了承した。

 テレイシスは、周囲を見渡して告げる。

「もう、この国にノゾミさまがいらっしゃる必要はありません。郷里にお帰り頂きます」

 厳かこの上ない宣言である。あの優しく純朴で朗らかな彼とは思えないような神聖な気配が漂っていた。

 だからこそ、テレイシスは「水晶の御使い」なのかもしれない。

 居並ぶ面々の中、彼の夫であるアルビオレが、早々に片膝を着き、恭順を示す。

 触発された人々も、慌ててそれに従った。

 だが、スウェイワナに動きはない。

 彼は、希望を抱き締めたまま、ただただ息を詰まらせるばかりだ。

「……王妃を……帰、す……?」

 信じられない言葉を、無為に繰り返す。

「な、ならぬ……。そのような、こと……」

「あ、ああっ……! あっ!」

 混乱の中で見付けたたった一つの意志を口にするが、直後、希望が苦痛の叫びをあげた。

 腹部に、凄まじい収斂が起こったのだ。

 たまらず両手で庇うが、術など何もない。

「まさかっ! 御子がっ!」

 賢しいアルビオレが、すぐに察する。

 希望は苦しい息の下で、痙攣に呻いた。

 アルビオレは、スウェイワナを睨み付ける。

「この国の現状の医学で、妃殿下も御子も、双方を救うのは難しいが、大層文明の発達したお国なれば、可能やもしれぬのだぞ!」

 現状把握も、分析も、彼は見事この上ない。

 さすがにスウェイワナも、それに否を告げることは出来なかった。

 詳しい報告など受けなくても、王妃が遙かに進んだ社会から下向した身であるぐらいは、簡単に理解出来るのである。

 希望の郷里なら、彼も腹の子も、救う手立てが十分、十二分にあるだろうと。

 この地では、到底叶わなくとも!

 僅かな間に、希望は凄まじい勢いで汗をかき、呼吸を荒げる。

「ティレイ! 時間の猶予がない!」

「うん!」

 アルビオレの言外の指示に応じて、テレイシスは忘我のスウェイワナから希望を奪い取ると、そのまま彼を丁寧な動きで地に横たえて自らは立ち上がった。

 ゆっくりと空気を持ち上げるかのように両手をひらめかせる。

 神の威光。それ以外の何物でもない神聖な気配が、彼を取り巻いた。

 傍らに移動したイレーネも、両手を組んで一心に祈り出す。

 三人の「かんなぎ」の周囲に、目に見えない、けれど清らかで尊い領域が生じた。

 それを、立ち上がったアルビオレが、後衛の形で警護する。

 立ち尽くすスウェイワナには、術もない。

 数すら定かでない人間がひしめいているにも関わらず、広場は静まりかえっていた。

 衆目の中、テレイシスとイレーネは、ひたすら神への訴えを続ける。

 人々の不安が頂点に至ろうとしたその時、天へ掲げたテレイシスの両手の間に、光りの粒が生じた。

 それは少しずつ、けれど確実に大きく成長し、やがて、人一人を包むに余りあるまでの広さを有するようになる。

(あ、……れ、は……)

 凝視のスウェイワナは、喉を鳴らした。

 希望が、この地へ降臨した際に生じた光りと同じものだと、察したのだ。

 テレイシスは、ゆっくりと手を下ろす。

 そのいざないに応じて、光球も大地へ、そこへ横たわる希望の元へと移動した。

 希望の全身が、光りに包まれる。

 ここに至ってようやく、人々はどよめいた。

 その瞬間、


「あっ!」


 それを叫んだのは、誰なのか、定かでない。

 誰一人反応さえ出来ない刹那の瞬間に、スウェイワナは希望目がけて飛びかかったのだ。

 この瞬間、彼の中には、王としての義務も責任も、何もなかった。

 あったのは、愛しい者を失いたくないと言う、純粋な渇望だけだ。

 光球は、スウェイワナを拒んで、激しい火花を散らす。肉が焦げ、彼は絶叫した。

 それでも、スウェイワナは希望を手放さず、全ての力で愛しい者を抱き締める。

 ただ一人の、伴侶を!

 居並ぶ面々の驚愕の声も、かつて愛した……愛しいと思ったはずの女の悲鳴すら、スウェイワナの耳には届かなかった。

 恐ろしい苦痛に苛まれ、温もりに感じる希望の存在に縋り付く。


 それが、彼にとって故郷「ラジアナ王国」との別れになったのだった……。


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