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黒の皇后  作者: 小松しま
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 希望が目覚めたのは、寝台の中だった。

 傍らにはいつもの女官がおり、医者らしき初老の紳士が沈痛の面持ちで見下ろしている。

「……あ……」

 何か既視感がある。ややもせずに、希望は、故郷の主治医の姿を連想したのだと理解した。

(そっか……。黒川先生と同じ……)

 黒川とは、産婦人科の権威たる医師で、「特別な肉体」である希望が、その成長の日々に、大変世話になった人物だ。

 成人後も定期検診を欠かさず、実は、こちらに到来するほんの五日前にも検査をしてもらったばかりだった。

 顔立ちや背格好は全く似ていないのだが、医者ならではの独特の気配があるのだろう。

 それを察すると、希望の中で警戒が解けて行く。

 まだ呆然とした心地でいる希望に、その紳士は、思いがけない診断を告げたのだった。

 曰く、「懐妊」。

 その言葉を、希望は瞬時に呑み込むことが出来なかった。

 身に覚えは当然ある。

 けれど、子供は難しいと黒川医師から宣告を受けていた身だ。

 何の構えもなかった分、いきなりそれを受け入れるのは容易でない。

 ただ、納得出来る部分も、またあった。

 このしばらくの不調である。

 地下牢での虜囚生活の苛酷さが堪えたと思っていたのだが、妊娠初期にありがちな悪阻が原因なら、あの不快も簡単に説明出来た。



 医師の退出からしばらくもせず、何故かアルビオレが単身で現れた。

 本当に不思議なのだが、希望は、彼が一人でおとなってくれたことに安堵する。

 どうしてかわからないが、ほぼ同じ立場にあるだろうテレイシスよりも、彼と相対する方が、今の希望には気が楽でならないのだ。


「お二方が、真実の御夫妻であられたことに、正直な驚愕を隠せません」


 こう言った単刀直入な言葉にも、奇妙なほど気負いを覚えない。

「……犬に噛まれたようなものだと……、郷里では、望まない性交を強いられた被害者をそう慰める習慣があります。……僕もそう思って、……忘れることにしていましたから……」

 何をどう言って良いのかわからずに、ただ、そう呟く。

 泣きわめくべきか、嘆き悲しむべきか、それすら判然としない。

「……妃殿下にとって、不本意なものであったのですね?」

 アルビオレは、あくまでも淡々としたものだ。

(ああ……そうか……)

 希望は不意に得心した。

 同情や慰みを、多分、今は疎ましく思うのだろう。

 自分ですら整理の出来ない想いを、余人にあれこれ慰撫されたくなかった。

「……あれを、合意の上での行為と言うのには抵抗があります。けれど、結婚の誓いを交わし、夫婦となった以上は、義務になるのでしょうね。ですから、陛下を非難するつもりはありません」

 過去を振り返り、希望は自分に言い聞かせながら口にした。全くの本心だ。

 恨みすら、スウェイワナには抱いていない。

 仮にも夫婦だ。強姦は適応されないだろう。

 いや……そう考えるのは過ちかもしれない。

 けれど、今の希望にとって、取り上げるべき問題ですらなくなっていた。

「何が、陛下の逆鱗だったのか、実は未だに理解出来ないんです。……僕をお嫌いなのは、もうわかっていたので、必要な期間だけ、偽装結婚を演じて、国のために協力しようと……そう、持ちかけたのですが……」

 希望は、微笑もうとして失敗してしまう。

 混乱に突き落とされた心は、それでも、ただ一つの真実を突き付けた。

 そっ……と、腹部を撫でる。

 ここに、新たな生命が存在しているなど、信じられない。いや……信じて、いる。

 ただただ、神秘に驚嘆するばかりだ。

「不思議な気持ちです。……ここに、赤ちゃんがいるなんて……」

 今度こそ、彼は微笑した。

 胸の中に、黒川医師の言葉が甦る。

「……僕は、生殖力が極端に低くて……父親になることは難しく。そして、それ以上に母親になる可能性もほとんどないだろうと、主治医からも言われていたんです。……それが、たった一度の性交で……」

 一生を一人で生きようと決意させた診断はしかし、こうして思いがけない事実の前で意味を失ってしまう。

 感情がひどく高ぶって、涙が零れるが、それをアルビオレは見ないふりをしてくれる。

「不思議ですね……。辛いのか、嬉しいのか……よく、わかりません。ひどく驚いているのに……この子を、無事に産みたいって、強く願っているんです……」

 偽りのない、真実の想いだった。



 同時刻、王の執務室では、スウェイワナが驚愕を強いられていた。

 テルサがここをおとない、「大至急の、重大な報告がある」と常の慎み深さをかなぐり捨てる必死の懇願をして、政務中の彼に人払いをさせたのである。

 彼女が、公務の最中、このような強引な闖入をしたのは、勿論はじめてのことだ。

 よほどの緊急事態なのだろうと察したのはスウェイワナのみでなく側仕えの者たちもしかりで、王の信任厚い直属女官の嘆願に否を告げず部屋を後にした。

 そして、伝えられた報告は、王妃の懐妊だったのである。

 希望の部屋を伺い、得た情報だとのことだ。

 その表情は、喜びに輝いていた。

 言葉を失うスウェイワナの胸中をおもんばかりもせず、紅潮のテルサは、至福を告げる。

「ええ! そうです! 王妃さまは、不義の子を、宿されたのでございますわっ!」

 彼女は、二ヶ月前の夜の真実を知らない。

 仮祝言の後、新床で過ごす王妃に獄送りの沙汰を出し、そのまま王は我が元へ出向いてくれたと、経緯の一端を全てのこととして認識しているのである。

 事実、王が王妃と共に寝室で過ごした時間はほんの僅かなもの。

 普通であれば、交合を果たしたなどと、とても思えるものでないだろう。

 忌み嫌う「かんなぎ」に最後通牒をくれてやり、真実愛する女の元へ足を向けてくれたのだと、テルサがそう誤認するのも、無理はないどころか当然だ。

 そしてその後、幸福な夜を確かに過ごしたのだから!

「嬉しゅうございます。陛下っ。これで、これで、……何憚ることなく、王妃さまを離縁すること、叶いますのねっ!」

 故に、王妃が王の子を宿した可能性は皆無と思い込み、希望の密通を確信している。

 相手は、獄中面会に訪れた者なのか、あるいは牢番たちか。

 いずれにせよ、王妃としての名誉は完全に損なわれたと。

 前例もあり、不義密通を犯した者を離縁するのに、否を告げる者など、断じていない。

 神の教えに背き、不倫の実行者となって尚、真実愛する王のためなら……と、希う全てを押し殺して生きて来た彼女だが、ようやくこれまでの忍耐が報われると、幸福に涙するばかりだ。

 ……自らもまた同じ過ちを犯していると承知してはいるのだが……。

「…………」

 だが、スウェイワナは、そんなテルサにかける言葉もない。

「やっと……全ての偽りをを正すことが出来るのですね。ようやく……わたくしが名実共に陛下の妻に……。ああ、……嬉しゅう、ございますっ……」

 彼女の訴えは、断じて「身の程知らずの思い上がり」から発せられたものではない。

 何故なら、テルサは真実スウェイワナの伴侶であるからだ。

 長年の婚約者・イレーネに背かれたスウェイワナを、それこそ幼少時よりずっと恋い慕い続けた彼女は、怒り狂う王の前に我が身を投げ出し、懸命に憤怒を慰めた。

 それを愛しく思ったスウェイワナは、婚礼の誓いをローディアナ神へ捧げた上、夫婦の契りを交わしたのである。

 婚約が破られた直後にそれを公表するのは、外聞を憚るため、時宜を待って正式な披露目をするとの約束の果てにだ。

 実際、名門貴族の令嬢であるテルサなら、王妃に迎えるのに、何ら問題はない。

 ……なかった、はずだった。

 ようやく感情の平安を得たスウェイワナが、晴れやかな気持ちでイレーネの出立を見送ろうとし、まさかの事態になるまでは!

 ローディアナ神恩賜の王妃。

 新たな「かんなぎ」の降臨を、誰もが寿ぎ、婚姻を祝福する中、スウェイワナはそれに否を告げることなく重婚の罪を犯し、希望を王妃の座に据えた。

 よって、テルサは罪深き不倫の実行者たる「秘密の愛人」の汚名を被ることになったのである。

 無論、出立の儀式に参列した一人である彼女にも、あの仮祝言が、「その場の勢い」で果たされたものであると、理解出来ていた。

 ただ、あまりの衝撃に正常な思考回路を失い、傍観する以外の術を持たなかったのである。

 ようやく心が現実に帰った時、もはや全ては後の祭りとなっていた。

 王の苦しい胸の内をおもんばかり、「これは名目だけのことだ」と、必死に自分に言い聞かせ……苦しみに悶えるその夜、愛しいスウェイワナが我が元をおとなってくれた歓喜は、今も新しい。

 真実、王に愛されている伴侶は自分なのだ。

 全てが正されるその日まで、愛する人のために耐え忍んでみせる。

 テルサが、そう決意した瞬間だった。

 今、ようやく待望の「その時」が訪れてくれたのである。

 だが、無論のこと。希望が宿しているのは、不義の子などではない。

 密通の罪も犯してはいなかった。それを誰よりも、スウェイワナは、理解している。

 獄中にあっても、あの「かんなぎ」が清廉に過ごしたのは疑いようもない。

 仮にも神の寵児だ。

 そして、多くの者たちがそれを尊重し、敬愛を込めて、心から仕える存在である。

 どうして、不名誉な烙印など、押されようか?

 何より、王妃の側仕えと彼女たちから報告を受けているだろう重臣一同は、希望が初夜の床にて、純潔を失ったと知っているはずだ。

 いや、あれこれ並べ立てる必要など、ない。

 希望の宿した生命は、スウェイワナの血を確かに引き継ぐ存在だった。

 ただ一度。それだけで、新たな生命が生まれ落ちようとしているのである。

(こ……これが……ローディアナ神の定めた婚姻の……絆の強さだと言うのか……?)

 スウェイワナは、胸に滾って来る熱いものを覚えた。

(……これ、が……)

 神が授けた王妃である。

 神聖な力が働き、こうして二世が芽吹いた。

 何と言う神秘だろうか? 神への畏敬の念を新たに、「憎んでいる」はずの希望に対して、スウェイワナは、限りない慈しみを抱く。

(……余の……子供……。後継者が……)

 身勝手と言われても、この瞬間、彼の中にテルサへ対する愛情は欠片もなかった。

 今すぐにでも、希望の元へ駆け付けたいと希う。

「……陛下……。二重に、お喜び頂けるかと存じます」

 テルサは僅かに身を引いて、柔らかな笑みを浮かべた。

「……わたくし……ややが出来ましたの。……陛下の、お世継ぎが……」

 幸せ一杯の表情である。

スウェイワナは、絶句した。

 全身の血が下がって行くのを実感する。

 喜びどころでない。

 たまらない嫌悪が胸を満たした。

(なっ……)

 あれほど愛しいと思った女が、ひどく疎ましい。

「……まち、がい……ないのか?」

「はい。無論でございます……。ああ……。我らが神の、祝福にございましょう……」

 小刻みに震えるスウェイワナは、よろめいて一歩後退した。

「陛下?」

 歓喜の声を上げ、強く抱き締めてくれるとばかり思っていた伴侶の思いがけない反応に、テルサは首を傾げる。

 スウェイワナは、ようよう声を絞り出した。

「実家に……帰るが良い……」

「陛下?」

 何故、そのような沙汰を受けるのかと、テルサが不信を覚えて当然だろう。

 スウェイワナは、懸命に表情を繕った。

「い、今は……大事を取るのだ。そなたの身に、災いがあっては、取り返しがつかぬ」

 吐き出す言葉もまた、卑劣極まりないその場凌ぎのものである。

 テルサの身云々などでなく、今、スウェイワナが案じているのは、自らの体面でしかなかった。

「……」

 さすがにテルサも眉を寄せる。

 スウェイワナは必死だ。

「この期に及んで、婚儀の取りやめは出来ぬ。諸国より招いている賓客の手前もあろう。取り敢えず……式典を無事に済まさねば、国体が損なわれる」

 少しだけ落ち着きを取り戻した彼は、小賢しいまでの詭弁を弄する。

 確かに、大義名分ではあるが、その全ては我がためであって、国を重んじている訳では断じてなかった。

「なれど……」

 たまらない不安に、テルサは食い下がる。

 これまでと異なり、彼女はもう、一人の身体でないのだ。

 常に常に一歩引いていたテルサだが、母の自覚はその意志を強くさせる。

 生まれ落ちる我が子のためにも、彼女は身を立てる必要があるのだ。

 しかし、スウェイワナは、それを軽くいなしてしまう。

「そなたのことは、決して悪いようにはせぬ。……余のためと思って、今は堪えてくれ」

 巧妙にも彼は、自分を愛しているのなら……と、論旨をすり替えたのだ。

「……へ、いか……」

「頼む……」

 愛しい男のたっての願いに、テルサは否を告げられなかった。


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