三話『ようこそ、異世界へ』
「……そんなわけで、君はどちらさまでしょう?」
痛む顔をさすりながら彼女にそんなことを尋ねる。
今は木陰……と言っていいのだろうか、巨大な大樹の陰で二人向かい合っていた。
上を見上げてみれば雲を突き抜けてどこまでも高く大樹が聳えているし、枝葉の間から見える空には太陽と共に大きな赤と小さな青の二つの月が相変わらず浮かんでいた。……幸か不幸か、顔にめり込んだ彼女の鋭い肘鉄のおかげで、どうやらこれが妄想たっぷりのただの夢ではないということが明らかとなったのであった。
とりあえず改めて、めでたく異世界にやって来たということでいいのですかね?
「……××、××××」
「…………えっと、なんだって?」
彼女が何を言っているのか、まるで聞き取れない。
いや、これは聞き取れないというよりも。まるでどこか海外のニュース番組を二、三局くらいまとめて、それから早送りの逆再生にして聞かされているような妙な感じだ。……つまり彼女が何を言っているのか、俺にはちっとも理解できないわけだ。
彼女が話しているのが異世界の言葉だからなのか、それとも落下の衝撃で頭のどこかをやってしまったからなのか。異世界でも言葉には不自由しないだろうと勝手に勘違いしていたけど、どうやらそう簡単なものでもないようだった。……どちらにせよ、残念ながら今の俺には彼女の話す言葉を理解することはできそうにない。
「ごめんちょっと、何言ってるかわからないんだ」
「……××××、××」
「えっと、その……」
「……××、××××××、×××」
ダメだ。……そもそもこちらの言葉も彼女にしっかり伝わっているのだろうか?
ならいっそ、身振り手振りでやり取りをすれば。……いや、その方法だと詳しい内容を理解するのはちょっと難しいだろうか。同じ地球の中でさえ、一度海外に出てしまえば普段使っている言葉は途端に伝わらなくなってしまう。それなら異なる世界であるここで、果たしてまともにコミュニケーションなど取れるのだろうか?
「……まあ、それでもいいか」
だけどまあ、……大丈夫だろう。今のところは多少不便ではあるけど、仕方ない。
素人目にも彼女からは、いわゆる敵意とか害意とか、はたまた殺意とかいった剣呑な雰囲気は感じられない。これでも『愛の伝道師』や『恋愛マスター』を自称で語っている以上、人の好意にはかなり敏感ではあるのだが、同時にそういった暗い感情にも結構敏感なのだ。……そして何より俺は、昔から人を見る目にはかなり自信がある。
「それじゃあ、ちゃんと伝わっていないのかもしれないけど。……俺の名前は十森友也。呼び方は『ともや』でも『ともとも』でも、君の好きな呼び方で読んでもらっていいよ。えっと、それで君の名前は……。とりあえずよくわからないから、一先ずは『メメ』って呼ばせてもらうことにするよ。それじゃあよろしく、メメ」
そう言って俺は、『メメ』に向かって手を差し出す。
言葉がちゃんと伝わらず、色々と細かい内容までわからなかったとしても問題はない。彼女のちょっとした仕草の違いから、『何を伝えたいのか』という乙女の機微を読み取ることなど、恋愛マスターである俺には造作もないことだ。……だから大丈夫なはず。
「…………××」
彼女は少し戸惑った様子でゆっくりと差し出した手を握り返してくれた。
握手の文化がなかったらどうしようかと思ったけど、とりあえずコミュニケーションをとることはできそうだ。……親友の一人が爽やかな笑顔と共にやっていた仕草なんだけど、これって実際にやるとなるとかなり緊張するものなのね。いや、本当に尊敬するわ。
「目が覚めたらいきなりの膝枕で少し驚いたけど、俺の看病でもしてくれていたのかな? ……えっと、さっきはいきなりメメの胸を触ろうとしてゴメン。夢なのかと思って、折角だからこれは触っておかなきゃと思って、……つい」
「…………×××」
ここは下手に誤魔化さず、正直に謝っておいた。
こういう時には『下手に誤魔化さずに正直に謝った方が良い』と、今まであいつらにはアドバイスをしてきたけど、自分でやるとかなり気不味いな。……チラッと彼女の表情を伺ってみれば先程までと変わらず無表情のままでいるけれど、どうやら怒っている様子はなさそうだ。怒っては、……いないんだよね?
……怒っていないということで話を進めよう。
「ねえ、メメ。ここは一体どこなの? ……って、聞いても駄目か。えっとそれじゃあ、この近くで誰か人の住んでいる場所を知っていたら案内してくれないかな?」
「……××、××××」
メメは少し空をじっと見詰めた後、乾いた地平線を指差して歩き出した。
「その先に人が? ……ついて来いってことかな」
立ち上がり、ズボンに付いた汚れを少し払う。
一歩足を踏み出してみるが、凝り固まってしまった体から少しパキパキと関節の鳴る音がするくらいで、やっぱり体は健康そのものだった。服を少し捲って確かめてみても、そこには傷跡どころか痣や擦り傷一つすらありはしなかった。
振り返らずに歩き続ける彼女の背中を追い、俺も後ろをついていく。
「……やっぱり、あれは夢だったのか?」
朧気に俺の脳裏に浮かぶのは、砕けて飛び出した白い骨と舞い落ちてくる赤い雪の記憶。……この世界へと来たことは夢ではなかったわけだけど、目覚める間際に見たあの悲惨な出来事は果たしてただの夢だったのだろうか。
◆ ◆
「……×、××」
メメについてしばらく歩いて行くと、そこには時代錯誤な感じの古めかしい格好をした現地人らしき人物がいた。……しかし時代錯誤とは言うけれど、この世界の基準でいえば俺のこの学生服の方がよっぽど時代錯誤で妙な衣装なのかもしれない。
とにかく第一村人を発見、……ただしモンスターに襲われている瀕死の状態で。
「おいおい、なんで可愛らしい兎にそんな凶悪な角なんて生えてんだよ。俺は『兎に角』って、そういうつもりで言ったんじゃねえんだよ。……兎だったら人間なんて襲ってるんじゃなくて、大人しくその辺の草でも食ってろよッ!」
口元を赤く濡らした三、四匹の兎が倒れた村人の近くに群がっている。
考えるより先に体が先に動いてしまった。気付けば咄嗟に近くに落ちていた太めの木の枝を手に取り、がむしゃらに振り回しながら群がる兎達の中へと突っ込んで行っていた。……これまで何度も修羅場は潜ってきたけど、荒事はそんなに得意じゃないんだよな。
兎達は突然の襲撃に驚いたのか、すぐに散り散りになって逃げていった。
「ちょっと、大丈夫ですか?」
兎達が近くの岩陰に隠れていくのを横目に見ながら、村人の側に駆け寄る。
これで村人が女の子だったのなら素晴らしい出会い方だったんだろうけど、残念ながら倒れていたのはか弱い村娘ではなくただの怪我をした青年だった。……まあ、人命救助に性別は関係ないんだけど一応モチベーションの問題としてね。
「き、君は……、うぐッ!」
村人は起き上がろうとするが、腹部の傷口を押さえながら辛そうに呻いた。
「まだ起き上がっちゃ駄目です。じっとしてください」
意識は思ったよりもはっきりしているようだが、どうやら腹部の傷はかなり深いようだ。脚部にも深い傷を追っている。抑えた手からこぼれる血が止まる様子はなく、じわじわと血溜まりが地面に広がっている。……早く止血しないと手遅れになってしまう。
「えっと、こんな時どうすれば。……せめて応急処置だけでもしておかないと」
服を切り裂いて包帯を作ろうと上着に手をかけたが、その時ふと気がついた。
……そういえば、ちょっと待てよ。ここって確か、見上げれば空には赤と青の二つの月が浮かんでいて、角の生えた兎がいるような異世界なんだよな? だったらもしかして、こういう異世界ならではのアレがあったりするんじゃないか?
上着にかけた手を止め、苦しそうに腹部を押さえる村人に話し掛けた。
「……何か傷に効く薬は持ってないですか?」
「ああ、……回復薬が、鞄の中に。……鞄、はそこにある」
……よし、ビンゴだ。
そう言われて辺りをよく見回してみると、少し離れた場所にズタ袋のような古びた鞄が転がっていた。中を開けてみると雑多に詰められた旅の道具類の間に、それらしき不思議な色をした液体の入れられた硝子瓶を見つけた。……これだろうか?
「これですか?」
「そう、だ。……ありがとう」
村人に瓶を手渡すと、彼は震える手で蓋を開けて傷口に中の液体を振り掛けた。
「…………ぐッ!」
一瞬きつく顔を歪めたが、その効果はすぐに現れた。
大きく裂けていた傷が見る間に塞がっていき、完治とまではいかないが治りかけ程度にまで回復してしまった。……おお、さすが異世界だ。ダメ元でないか聞いてみたんだけど、本当にポーションって存在しているんだな。
「……ありがとう、助かったよ。君は命の恩人だ」
あれからしばらく時間が経ち、どうやら村人は体を起こして会話のできるくらいにまで回復したようだ。……顔はまだ若干土気色じみているが、そこに死相は浮き出ていない。さすがはファンタジー、ポーションの効き目ってやっぱり凄いのね。
……というか、異世界なのに彼とは普通に会話することができるのね。
「………………」
それなら、どうしてメメの言葉は理解できないんだろうか?
だとすれば俺が彼女の言葉が理解できないのには、他に何か別の理由があるんじゃないだろうか。……もしかしたらそれが、彼女のことを知る手がかりになるのかもしれない。
「どうしましたか?」
「いや、命の恩人なんて大袈裟ですよ。……俺のしたことなんて、落ちていた鞄の中からポーションを出したっていうだけです。あの兎達だって思わず追い払ったっていうだけで、そんな助けたって言う程のことなんてしていないですよ」
いかんいかん。思わず思考に没頭して目の前の彼のことを忘れかけてしまっていた。
お礼なんてサラッと流してほしい。命の恩人だなんて大袈裟なことを言っているけれど、感謝されるようなことはあまりできていない。……助かったのだからもういいだろう。
「謙遜なんてしないでくれ。……もし君があの場にいなかったら、今頃僕はあの兎達に食われてあっさり死んでしまっていただろう。君はまさしく僕の命の恩人だよ」
だが彼は、そう随分と熱の籠もった言葉で返してくる。
そりゃまあ、思い返してみれば確かに彼にとって命の恩人と呼べなくもないのだけれど、俺からしてみれば、『いつも通りにやってのけた』と言うだけだったのだ。……いかんな。あいつらの騒動にいつも巻き込まれて修羅場慣れし過ぎてしまっているせいで、どうやら『いつも通り』の感覚がおかしくなってきているみたいだ。
ここは大人しく恩を売っておいて、彼に何かと協力してもらった方がいいな。
「それじゃあ、ここは『命の恩人』っていうことで一つ。……折角だからそいつお返しに、色々と助けてもらえると嬉しいかな。というわけで、とりあえずは今夜の美味しい夕食と、ゆっくり休める寝床とかでどうでしょうか?」
「君は、随分と変わっているな。……いいだろう、村まで案内するよ」
休みなので更新してしまったよ