二話『雲を突き抜ける大樹の下にて』
異世界の深く澄んだ青い空の中、俺は驚きと感動に浮かれていた。
「よっしゃあ、念願の異世界。……そう、俺の本当の冒険はここからだったんだ!」
視界に広がるこの不思議な世界が、とても輝いて見える。
これまでのモテなかった俺の人生も、きっとすべてこの異世界行きのためだったのだ。……俺はこの新天地で、あいつらに負けないくらいモテモテになってみせる! 見てろよ、親友達。お前達が羨ましがるくらい、素敵な彼女を作ってやるからな。
「……となれば、まずはどうやって地上まで無事に降りるかだな。あまりの高さにさっきからずっと落ち続けてはいるけど、この高さから落ちたら大怪我だけじゃ済まないぞ」
上空の冷たい空気が、甲高い風切り音を立てながら体を掠めていく。
比較になるものが雲と巨大すぎる大樹しかないので、いまいちどのくらいの高さにいるのか感覚が麻痺してしまうけれど、雲を突き抜ける程の大樹よりもずっと上にいるので、相当な高さから落ちているということは間違いないだろう。
……このまま落ちれば、ビルの屋上から落ちるよりも悲惨な結末が待っている。
「だけどまあ、問題ない。……こういう展開はよく知っている」
この程度の窮地では慌てたりしない。
これまでだって色々な困難に巻き込まれる度に、なんだかんだと乗り越えてきた。
学校の地下にある謎の遺跡を探索したり、教室に突然やって来たテロリストと戦ったり、亡国のお姫様を狙う悪の組織との抗争に巻き込まれたり、遊びに出掛けた先で立て籠もり事件を解決したり、……伊達に波乱万丈な人生は送っていないぜ。
「よくある展開からいって、……俺には何か不思議な力が与えられているはずだ」
そうでもなきゃ、無責任にこんなところに放り出したりはしないだろう。
つまりこれは、異世界らしさをアピールするための一種のデモンストレーション……みたいなものなのだろう。だからきっと、地上まで無事に降りられるように既に何らかの手が打ってあるか、それとも目覚めた力でこの窮地を乗り越える展開……のはず。
「よし、その力……今こそ目覚めるのだッ!」
バッと腕を伸ばして目を瞑り、頭の中に力の流れるイメージをする。
「………………………………………………あ、あれ?」
――が、何も起こらなかった。
……あれ、もしかして本当に無責任に放り出してた?
こういう時って異世界に連れてきてくれた親切な誰かが、最後まで見守っていてくれるものなんじゃなかったの? ……え、ひょっとして、『異世界には送り込んであげるから、後は自分達でどうにかしろ』って感じの放任主義な管理体制だったりするのか。
まだどうなるかわからないけど、……その可能性だって十分あるのか。
……ま、まあ色々な展開があるし、どうにかするために努力はしないといけないよね。
そうこうしている間にも、どんどんと地上は近づいて来ている。さっきまでずいぶんと長く感じていた空の旅も、どうやらもう少しで終わりがやって来るようだ。……おそらく、このままでは最悪の形でもって。……ってことになんか、なってたまるか!
せっかくの異世界なんだ、どうにか足掻いて生き抜いてみせなければ。
「ふ、服をパラシュート代わりにして減速を、…………だぁ、ちくしょう飛んでった!」
慌てて上着を脱いで袋状にしていると、風を孕んでどこかへ飛んでいってしまった。
ああ、もう。無理に脱がないで、ハングライダーみたいに広げて使えば良かった!
「ふんぬっ! …………駄目か」
少し試してはみたが、落ちながらズボンを脱ぐなんて器用なことは俺には出来そうになかった。下手に脱ごうとしてもズボンの裾が靴に引っかかってしまうのだ。かといって他に何か代わりにできそうな服はない。……くそ、この手はもう使えないか。
「いよっと。……これなら何とか」
今度はできるだけ体を大きく広げ、全身で風の抵抗を受けられるように体勢を変えた。体の周りで風が巻き、若干だが落ちる速さがいくらか遅くなったような気がする。よし、これでしばらくは時間が稼げるはずだ。……でも、急いで他の案を考えなければ。
「えっと、他には確か。……そうだ、地面に着く瞬間に転がるように受け身を取ることで落下の際のダメージが軽減できる、とかそんなことを誰かから聞いたような気がするぞ。受け身なんて体育の時にやった柔道くらいでしかやったことないけどな!」
武術の達人でもなきゃ、この高さでの受け身は無理だろう。
落ちる場所がせめて水場や木々のある所だったのなら、少しは落ちる際にクッションになってくれたかもしれないが、……残念ながら段々はっきりと見えてきた大樹の周りにはゴロゴロと転がる大きな岩と硬そうな乾いた地面しかなかった。
既に地面の様子が詳細にわかるまで近付いてきている。……地上はもう目と鼻の先だ。
もしかしたら地上まで無事に降りられるように何らかの手が打ってあるかもしれないが、……ここまで来たら自力で何とかするように腹をくくるしかない。できるかわからないが、一か八かの賭けをするよりも一か八かの努力をしておこう。
「ええい、もう。……やってやるよッ!」
後はもう覚悟を決めて、迫る地面を待ち構えた。
◆ ◆
「ヒュー……、ヒュー……」
それはとても綺麗な雪だった。
本当は、それらは雪だと言えるような代物などではなかったけれど。
……だけど俺には、大樹の枝の間からこぼれ落ちるように空から絶え間なく降り続けるその光の粒達は、それ以外には他に表しようのないくらい間違いなく、舞い落ちてくる雪そのものであるように見えた。
それは空から落ちる、赤々とした雪。
「ヒュー……、ゴ、ゴフッ……」
喉から溢れる息が随分と耳障りだ。
不思議と痛みはなかった。……ただ、ひたすら冷たかった。
……ああ、もしかしたらこの降り続ける赤い光の粒は、さっきこの空に舞った俺の血の赤なのかもしれない。今はもう鈍い錆色になってしまっているけど、さっき舞った血の色はこの雪のように綺麗な赤をしていた。……良かった。やっぱり俺の血は、黒でも青でもなく、しっかりと赤色をしているみたいだ。
「ゴ、ゴフッ……、ゴフッ……」
溜め息の代わりに口からはゴボゴボと血の泡が吹き出てくる。
おそらくは肋骨が折れて、肺か気管のどこかにでも突き刺さってしまったのだろう。喉の奥から逆流してきた血によって、口の中に血溜まりができてしまっている。……なんだかドロっとして、鉄臭くて嫌になる。このままでは自分の血で溺れてしまいそうだ。
折れたのは肋骨だけではない。
脚の骨から腕の骨に至るまで落下の衝撃に堪えられずにだいたいの大きな骨は折れ、裂けた白い骨が薔薇の棘のように体の外へと突き出してしまっている。……それなら地面に広がっている真っ赤な血溜まりは、さながら薔薇の花だろうか。
「ヒュー……、ヒュー……」
その赤い光の雪の降る中、彼女はその光の粒と共に舞っていた。
……その彼女の姿はとても高貴で綺麗で儚く、幻想的で魅力的で蠱惑的だった。
今まさにボロボロに崩れ去り、これからじきに消え去ろうとしている俺にとって、その彼女の姿は怪しく手招きをする悪魔にも微笑みながら迎えに来た天使のようにも見える。……どちらにせよ、死の間際に見るにはピッタリの姿だ。
「……××××××」
彼女が俺に話し掛けてきた。
……駄目だ、よく聞き取れない。彼女はなんて言ってくれたんだろう。
だけど聞き直したくても今更だ、もう俺には自分の吐く息や雪の降る音すら聴こえない。
両の目は既にさっき見た赤い雪を最後に、何も見えなくなってしまっている。……でも、まだ瞳の奥にあの綺麗な赤い光の粒がいくつも残ってるような気がしている。肌の感覚は、俺に始めからそんなものがあったのかも判らない程、何も感じられない。
でも、俺はまだ死んでいない。
それは臭いだけがはっきりとして、俺がまだ生きていると教えてくれているからだ。……今の俺に残っているのは、噎せ返るような鉄と死の臭いだけだ。けれどそれも一時の気紛れに過ぎず、しばらくすればその臭いすらも奪われて判らなくなってしまうだろう。
この先に続く確実な死が、俺を待っている。
『――《……》……』
そっと手を伸ばした。
今はもう目に見えない彼女に向かって手を伸ばし、無意識に何か呟いたような気がした。
……けれどそれを確かめることも出来ぬまま、意識は白い霞の中へと引き込まれていき、ついには完全に消え去ってしまった。
◆ ◆
「………………死んだかと思ったじゃないか」
何とか無事に生きていた。
……というか、俺はあんな状況でどうやって死なずに済んだんだ?
にわか仕込みの受け身ではあの高さからの着地の衝撃は殺すことはできなかったようで、全身の骨がバキバキに砕けて針山のように体中から飛び出していたはずだ。記憶は随分とおぼろげな感じではあるのだが、あの有様で生きているというのは可怪しい。
「……ということは、これは夢か」
なんてこった、よく考えればすぐに気が付きそうなものだ。
異世界にやって来るなんて夢みたいなことが、そうそう起こるはずがないじゃないか。雲を突き抜けるほどの巨大すぎる大樹? 空に浮かぶ赤と青の月? それこそ夢みたいな、というのならまさしく夢の出来事だったということなのだろう。
……ああ、恥ずかしい。あいつらの影響を受けすぎたな。
「………………」
ふと視線を感じて視線を上げると、どこか遠くを見つめる女性の顔があった。
……なんだろうか、初めて合うはずなのにどこかで見覚えがあるような気がする。……というか、今の状況はどうなっているのだろうか。後頭部に感じる柔らかな感触といい、この下から見上げるような視点といい。まさか、今のこの状況は――
「膝枕なんじゃないだろうかッ!」
ガバッと起き上がった。
「…………」
「…………ああ、どうもこんにちは」
……失敗しちまった。
どうして起き上がってしまったんだよ、俺はッ! ……ここは柔らかな太腿の感触を、思う存分堪能する場面じゃなかったのか。こんな折角やってきた素晴らしい機会をふいにしちまうなんて、俺はいったい何をやっちまってるんだよッ!
「………………××、」
そんな感じで自分の過ちに憤っていると、ガシッと両手で頭を捕まれ、
「…………へ?」
また柔らかな太腿の上へと頭を置き直された。……え、何この娘、天使なの?
太腿の上に頭を置かれたまま、彼女のことを少し観察する。
顔はかなり整っている。その顔は可愛いというよりは、綺麗な顔立ちだ。
……ただし、驚くほどに無表情。人形か何かを眺めているような気分になる。
それも愛玩するための『人形』ではなく、ショウウィンドウに飾られる『マネキン』のような無機質な人形だ。美人ではあるのだがどこか作り物めいた感じがする。
髪はさらりとした光沢のある長い髪。座っているので全体の長さはよくわからないが、毛先が地面に広がるくらいあるので立てば膝裏くらいまで届きそうだ。色は黒に見えるが、地面に広がる毛先は角度によってほんのりと赤黒いようにも見える。
服装は髪色と同じように真っ黒な礼服だ。飾り気がなくまるで喪服のようにも見える。唯一ある装飾は、彼女の胸元にある真っ赤な花くらいだろうか。……服の上から見る限り、体型にあまり目立った起伏はなく、良く言えば『スレンダー』、悪く言えば『スットン』といった感じだ。……いや、胸の大きさに貴賤はないのだけどね。
…………どうせ夢だろうし、折角だから胸の感触を確かめておこう。
「…………それでは、早速」
そろりそろりと腕を胸元へと伸ばしていく。……よし、あと少し。
「………………××、」
あと少しで柔らかい感触が、というところで顔面に肘鉄が落ちてきた。……痛い。
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