アリス
さっきまで目の前にいた少年も、懐かしい風景もすべて消え去ってしまっていた。
大雅からクエスト・クリアの言葉を聞いて、美加は喜んでいるのか泣きそうになっているのか、どちらともつかない笑顔を大雅に向ける。
「ずっと待っててくれたんですか?」
そう言って大雅の方へ行こうとした美加だったが、張りつめていた緊張の糸が切れたためか足がもつれてよろけてしまった。
――え?
転ぶ、と認識するよりも早く、美加の体は大雅の腕に支えられていた。
「大丈夫か、秋吉?」
気が付くと大雅の腕の中という状態に、美加は顔を赤らめてうなずくと大雅から慌てて体を離す。
――その時だった。
甲高い少女の笑い声が美加と大雅の耳に飛び込んできたのは。
「アリス!」
緊迫したような大雅の声が砂漠を渡る風に乗って響き渡った。
自分をかばうように前に立ちふさがっていた大雅の体越しに様子をうかがった美加は、少し離れた所に立っているひとりの少女の姿を見た途端、悲鳴を上げそうになり慌てて両手で自分の口をふさいだ。
「なぜお前がここに来た! ここには捨て札はないはずだ!」
「あぁら、ご挨拶。アタラクシアに来た新人さんにぃ、大雅がご執心だっていうから見に来たのに」
殺気立った大雅の声と裏腹に、少女は楽しくて仕方がないといった様子で笑みを絶やさない。
その愛らしい声が逆に美加の恐怖心を増幅させる。――目の前にいる少女の目的が自分だと知ったからだ。
口元に押し当てたままの両手をガクガクと震わせながら、美加はもう一度少女の姿を覗き見た。
鮮血のような鮮やかで艶めかしくさえもある深紅の色に全身を彩った少女が、美加を見てニコリと笑う。
前髪を切り揃えた腰までの長い髪、ストライプ柄のビスチェ、たっぷりとボリューム感のあるオーガンジーのスカート、レースのついたニーソックスに厚底のベルトシューズ。
そのすべてが少女が手にしている大鎌の餌食になった者の返り血を浴びて染め上げられたものではないかと思う程だった。
まるで死神が持つような、身の丈を遥かに超える大鎌の柄の先を砂に挿し、それに身を任せるようにしてアリスと呼ばれた少女は子猫のようなあくびをしてみせる。
紅く濡れた唇をとがらせるようにして、大雅の背後に隠れている美加を見るようにアリスは小首を傾げた。――震える美加の姿を捉えて、アリスは唇の両端をつりあげてニタリと笑った。
「いいわね、その怯えた顔。――ねぇ、いつか、殺させて、ね?」
「秋吉はパートナーとして来たんだ! 捨て札にはならないはずだ!」
アリスが柄を握り直し大鎌を頭上に振りかぶったのを見て、大雅は美加を腕で押しやって自分の背中に隠すようにしながら叫んだ。
そんな大雅に、アリスは憎らしげな表情で舌打ちしてみせる。
「チビ猫に頼まれて来たのよ。クエストの空間をデリートしろってね」
話し終えるのと同時に、アリスは構えていた大鎌の刃を渾身の力を込めて振り下ろした。――空間を切り裂く音と共に突風が巻き起こり砂塵が辺り一面を灰色に染める。
美加は風の音の中に遠ざかっていくアリスの笑い声を聞いたような気がした。
「――からかいに来やがったのか、あいつは」
憎々しげに言葉を吐き捨てるように大雅はそう言うと、ゆっくりと辺りの様子をうかがった。
砂嵐から目や鼻を守るために覆った手をのけると、そこは砂漠から一転して緑の生い茂るジャングルのような風景に変わっている。
アタラクシアに来てから、何度景色が変わっていったことだろう。――風景が変わるくらいでは美加は驚かなくなってきていた。
大雅がポケットから取り出した携帯を操作している隙に、美加は辺りの様子をうかがうような素振りで大雅に背を向け、首にかけた携帯を覗き込んだ。
瑛太:
クエスト、ひとつクリアだね
でも、さっきのアリスという女の子といい
油断は出来そうもない
――新しい情報が携帯に来ているかもしれないから
チェックしてみて
美加はうなずくとジーパンのポケットから旧携帯を取り出し待受け画面を開いてみる。
[チェシャ猫]からアイテムが届いています
[井口和也]から通信が届いています
「和也から?」
新着のメールがメールボックスに届いているというのを見て、美加は慌てて「通信」のキーを押していた。
『白うさぎ、みつけてくれてありがとう! あと2つで帰れるな。俺もがんばる、美加も頑張れ!』
相変わらずの短い文章に、美加はため息をつきながらもう一通のメールを開いてみる。
ミカ、クエストクリアおめでとう。
『白うさぎの名前』をアイテムボックスの貴重品の中に送ったよ
ブラウザをバックさせ、3の道具キーを押すと空っぽになっていたアイテムボックスの中に『!白うさぎの名前』が追加されていた。
『!』が貴重品のマークなのだろうか、と考え込む美加の脳裏にクエストで会った少年の姿が浮かんできた。
正人と名乗った不思議な少年……、あの子はアタラクシアとどんな関係があるんだろう?
考えても答えの出ない疑問を打ち払おうと美加が頭を振ったとき、大雅が美加の横に移動してきて言った。
「すぐ近くに俺のチームのコロニーがある。そこに移動しよう。秋吉には休憩が必要だ」
――少しずつ広がりを見せていくアタラクシアの世界。
すべてのピースが揃った時、それはどんな形になり、どんな終焉を迎えるのだろう?
とにかく、自分はアタラクシアからの脱出への道を一歩進んだのだ。
小さな希望が美加の胸の中に生れてきた。