クエスト1へようこそ!
途端に、辺りの景色が一変した。
視線を落としていた美加は、足元に広がる灰色の砂が一瞬の後に見慣れたアスファルトの色に変わったのを見て驚いて顔を上げる。
「――え?」
美加は携帯を持った腕を力なく下ろし、周囲を見渡した。
信じられない光景が広がっていた。――いや、ここに来るまでに経験したたことを考えれば、それはごく普通の当り前の景色なのだが。
「帰って……これたの?」
美加は震える声で呟いた。――その自信のない声音は迷いからではなく、自分自身に警戒を呼び起させるためのものだということを美加は悟っていた。
美加の目の前に広がる風景は、美加の故郷のそれだった。
毎日みんなと通った通学路、お婆さんがいつも店先で番をしているタバコ屋さん、店の入り口の前でいつも猫が昼寝をしていた床屋さん……。すべてが美加の生まれ故郷のものだった。――それが静寂と静止に支配されたものでなければ。
道を歩く人も、通りを走る車も、空を飛ぶ鳥さえも、すべてが静止している。
住宅街の路地に立ち尽くしてしまった美加の視線の先には、小学生位の男の子たちが自転車をこいだ姿勢のままで凍りついたように動かなくなっていた。
帰省する度に心を落ち着かせてくれた風景が、不気味で恐ろしいものに変わりうるという事実に美加は一歩も踏み出すことが出来ずにいた。
「――クエスト1へようこそ、ミカ」
クスクスとからかうような笑いを含んだ声が美加の頭上から降り注ぎ、美加は弾かれたように声のする方を見上げた。
住宅街の角地に生えている常緑樹の枝の上に寝そべったチェシャ猫が、片手で頬杖をついた姿勢でニヤニヤと美加を見下ろしている。
「これはどういうこと? なぜみんな止まっているの?」
「間違いさがしだからさ」
美加の必死な問いかけに、チェシャ猫は涼しげな顔で答える。
「間違い……さがし?」
「そう」
チェシャ猫は上着のポケットから取り出した紅いりんごを、腰の辺りにゴシゴシとこすりつけてからガブリと齧りつく。
歯を立てられた果実の甘酸っぱい香りは、美加の場所まで届いていた。
「この箱庭の中に、ひとつだけ間違いが存在するんだ。和也とミカのどちらかが、そこに隠れている白うさぎを探し出せばクエストクリア」
チェシャ猫の口から和也の名前が出たので、美加は思わず樹木の側まで駆け寄ってしまう。
「和也……和也もこの中にいるの?」
美加の必死な形相に、チェシャ猫は肩をすくめ大袈裟にため息をつきながらこう言った。
「ミカ、なんど言ったらわかるの?ボクはこの世界を案内するのが役目。攻略本じゃないんだから」
口の端を釣り上げて笑うチェシャ猫を見て、美加の腕に瞬時に鳥肌が立つ。
チェシャ猫の気分ひとつで、自分も瑛太のように携帯に閉じ込められてしまうかもしれない。――そう考えると、美加は恐ろしくて声を出すことが出来なくなってしまっていた。
「いいコだね、ミカ」
青ざめた顔で怯えている美加の様子に、チェシャ猫は満足そうにニタリと笑う。
「それじゃあ、クエスト2でまた会おうね」
ケラケラという笑い声だけを残して、樹上のチェシャ猫の姿は煙のように消えてしまった。
美加はチェシャ猫が『箱庭』と呼んだ風景に改めて視線を巡らせ、再び時間が止まったような世界に戻ったことを痛いほどに実感していた。
「あ……瑛太くんっ」
美加は慌てた様子で首から下げた携帯を手にし、液晶画面を覗き込んだ。
予想もしなかったクエストの世界とチェシャ猫の出現に、美加は携帯の中の瑛太の無事を確かめるのをすっかり忘れてしまっていたのだ。
瑛太:
クエストに入ったようだね、美加ちゃん
あの男は、クエストではバトルはないって言っていたけど用心して行こう
液晶の中に瑛太の姿を確認し、美加は安心のあまりその場にへなへなと座り込んでしまった。
ずっとこらえてた涙が溢れそうになるのを、美加は懸命におさえる。目を閉じて自分自身を励ますように一度頷いてから再び液晶をのぞきこんだ。
「瑛太くん、あのね、この場所って仙台の私の家の近くなの。どうしてアタラクシアの中に、こんな所があるんだろう? それに、みんな動きが止まったままだし……、私、怖いよ……」
言葉の途中でも、美加は自分の身の安全を確かめるように視線を左右に振っていた。
瑛太:
美加ちゃんの家の……?
「チェシャ猫は白うさぎをさがせって言ってたけど、こんな広い所でどうやってさがしたらいいか……」
瑛太は拳を口許に持っていき、少し考えこんでいるようだった。
瑛太:
チェシャ猫は、ここを『箱庭』と言っていたよね? もしかしたら、ここはそう広くはない場所かもしれない
「そ、そうなのかな? でも、ずっと遠くの景色まで見えてるし……」
美加は立ち上がって視線を右から左へと流していく。
動いている筈のものが静止しているということを覗けば、美加が住み慣れた懐かしい土地の様子でしかなかった。
「和也! いるなら返事をして! 和也!」
和也も同時にクエストを進行しているとしたら、この場所のどこかにいるかもしれないと、美加は声の限りに叫んでみた。
――と、同時に美加はある奇妙なことに気付いた。まるで地下にある駐車場の中にでもいるかのように、声が反響して聞こえてきたのだ。
「瑛太くん、ここ、何だかおかしい。声が……」
瑛太もそれに気が付いたようで、すでにメッセージが帯の中に記されていた。
瑛太:
美加ちゃん、近くに小石はある?
それをどこでもいいから思い切り投げてみて
瑛太に言われ、美加は樹の周りを見渡し手頃な小石を拾い上げた。
思い切り投げろと言われても、さすがに建物などに向かって投げるのにはためらいがあったので、美加は路地が長く伸びている場所へと移動する。
路地の向こうにも住宅街は広がっていたが、どんなに力を入れて投げてみても、そこまで石を飛ばすことは無理な位の距離があったからだ。
出来る限りの力をこめて、美加は小石を投げた。
――カツッ
無音の世界に、一瞬小さな音が響き渡る。
目の前で起きた信じられない光景に、美加は呆けたように立ち尽くしてしまっていた。
自分の投げた小石が、ほんの数m先で見えない何かに弾かれ地面に落ちてしまっていたからだ。
美加は恐る恐る、落ちた小石の手前まで進むと、ゆっくりと右腕を上げ前方へ伸ばす。
指先が震えているのが見えた。透明な壁の向こうから、突然腕が伸びてきて自分を引きずり込むのではないだろうかと考えると、前へ伸ばす手とは逆に上体が自然と後ろへ反ってしまう。
指先に軽い抵抗を感じ、美加は微かに腕を引いた後に今度は手のひらを広げて前方に差し出してみる。
――ぴたり、
と、美加の手のひらに何かが吸いつくような感触が伝わった。
咄嗟に上げた左の手のひらも、同じ感触を感じている。――冷たさも温かさも感じない……、まるで空気がそのまま一枚の壁になっているようだと美加は思った。
透明な壁の表面を滑らせ目の前で両手の親指が触れ合う位置まで移動させると、今度はそのままでゆっくりと腰をかがめていく。――その壁は地面まで続いていた。
「瑛太くん、見えない壁がある。下から続いて……、上はどこまで高さがあるかはわからないけど……」
瑛太:
壁は横にどの位伸びている?
調べてみてくれるかい?
美加は下唇をぎゅっと噛んで2,3度うなずいてみせてから、左手の指先を壁伝いにして歩きはじめる。
右側に伸びた路地に沿って壁は続いているようだった。路地の真ん中を歩くようにして、ゆっくりと美加は足を進めていく。
瑛太:
何か変わったものは見える?
チェシャ猫は、間違いさがしだと言っていた。
見覚えがないものがあったなら、それが白うさぎに関係あると思うんだ
瑛太の指示に美加は路地の両側に立ち並ぶ家々を眺めながら歩いていたが、いくら住み慣れた場所だと言っても一軒一軒の細かい部分まで覚えているはずもない。
見るものすべてがどこかに間違いがあるようで、美加は頭の芯をキリキリと締め付けられるような気分になっていた。
十字路へさしかかると、美加の指先は前方からも障壁を感じ空中で止まってしまった。
ちょうどそこが角だったらしく、壁は道を右折するように続いている。
慎重に歩いていた美加の足取りが速くなったのを感じたのか、瑛太が美加に話しかけてきていた。
瑛太:
何か見つけた?
美加は足を止め、壁の向こう側を食い入るように見ている。
瑛太:
美加ちゃん?
瑛太が携帯の中からもどかしげに呼んでいるのに気付かず、美加の目は吸いつけられてしまったように目の前に広がる景色に釘づけになっていた。
「――違う……」
そんな声が美加の口からこぼれ落ちるように洩れる。
「どうしよう……、どうしよう。これじゃ、違い過ぎてわからない」
壁に手をついたまま地面の上に崩れ落ちてしまった美加を見て、瑛太は美加の名前を呼び続けていたが、美加は相変わらず壁の向こうに心を奪われたままだった。
「――お父さぁん……」
うつむいた美加の目から涙がこぼれるのを見た瑛太は、美加が落ち着きを取り戻して自分の方を見てくれるのを待つことしか出来ないでいた。
しばらくして、美加は涙をぬぐい、鼻をすすった後に大きくひとつ息を吐いてからゆっくりと立ち上がった。
瑛太:
美加ちゃん、大丈夫かい?
落ち着いた?
赤い目で携帯を覗き込んできた美加に、瑛太は心配そうに声をかける。
「――うん、ごめんね。あんまりびっくりしちゃったから……」
瑛太:
何があったんだい?
……違いすぎる、って言ってたけれど
美加は再び壁の向こうに目をやって、寂しさと悲しさが入り混じったような表情で呟くように言った。
「ここ……、『今』じゃないの。私たちがいた世界と時間が違う」
瑛太:
どういうこと?
美加の言葉を理解出来ないというように、瑛太は眉をしかめてみせた。
美加は右手の人差し指で、壁の向こう側の静止した風景を指さして言う。
「――あそこに、お父さんがいるもん」