秋吉美加ってあんたか?
扉が目いっぱいに開かれたとき、暗闇の部屋の中の闇はすべて光に上書きされてしまった。
押し寄せる光の洪水に耐えられず、美加はキツく目を閉じる。
「痛っ!」
不意に両方の足の裏に感じた痛みに、美加は思わず声を出し、閉じていた目を開いた。
「――ここは……」
美加は目の前に広がる光景に絶句してしまった。
崩れ落ちたビル、足元に散乱する瓦礫、色を失った灰色の世界……。
素足の裏に感じる尖った瓦礫の感触、乾いた風に混じって何かが燻っているような匂いが美加の鼻腔を刺激する。
夢なら覚めて! と願った美加の心を木っ端みじんに打ち砕く程に、彼女の五感のすべてが、絶望に満ちたこの世界を現実のものと認識していた。
「秋吉美加ってあんたか?」
背後から聞こえてきた野太い声に、美加は驚いて振り返った。
「痛っっ!」
体を動かした拍子に、足の裏に瓦礫の角が食い込み美加は痛さの余りその場にうずくまってしまった。
「大丈夫か?」
短く刈り込んだ髪を金色に染めた見事な体躯の男が、くすんだ太陽を背にして美加を見下ろしていた。
黒のランニングシャツにトレーニングパンツ。上衣は袖の部分でウエストを縛り無造作に腰に巻いている。服装だけ見れば、何の変哲もない体育会系の若者のようだった。
しかし、顔や体の至る所に残る無数の傷痕が、彼が今までとてつもなく壮絶な日々を送ってきたことを物語っている。
突然現れた無頼漢のような男は、怯えたように自分を見ている美加を見て困ったように頭をかいて見せた。
「和也から聞いてないか? 俺のこと。あんたをサポートするように頼まれたんだが……」
男の口から和也の名前が出て、美加は思わず身を乗り出していた。
「和也を知ってるんですか?」
「ついさっきまで俺のチームにいたのさ」
そう言うと男は片膝をついて美加の前にかがみこんだ。
「あなたの……チーム?」
「あぁ。パートナーがサイトに入ったから自動脱会になっちまったけどな」
男が慣れた手つきで携帯を操作すると、鍵が現れた時と同じように空中にオレンジ色の光が現れる。
それが編上げのショートスタイルのブーツに変化すると、男は無造作に空中に浮いたそれを掴み美加に差し出した。
「ほら、これを履くといい」
「あ、ありがとう」
男からブーツを受け取った美加は、辺りを見渡し腰を下ろせそうな残骸を見つけると男に背を向け歩き出した。
男が携帯を操作している時に、美加は携帯の中の瑛太がメッセージを送っているのに気が付いていた。
まだ敵か味方かハッキリしていない男の前で瑛太と連絡を取り合うのをためらった美加は携帯を覗き見る機会をうかがっていたのだった。
瑛太:
和也から連絡が来ているかもしれない。メールボックスをチェックしてみて。――それと、僕のことは内緒にしておいた方がいいかもしれない。僕は虫と呼ばれていたし、このゲームの中では招かざる客のようだ。僕がいることで美加ちゃんが危ない目に会うのはイヤだからね。
美加は背後にいる男に気付かれぬ位に小さくうなずくと、崩れ落ちたブロック塀の上に腰を下ろし足の裏についた土を払ってブーツを履き始めた。
男は美加から少し離れた場所で腕を組んで立っていたが、美加がブーツを履き終わると大股で美加の側に歩み寄ってきた。
「俺は大雅だ。よろしくな」
がっしりと体格のいい男が、子供のような無邪気な笑顔で握手を求めてきたことに、美加は面くらいながらも右手を差し出した。
「秋吉美加です。こちらこそ、よろしくお願いします」
右も左もわからない世界に放り込まれた美加にとって、『案内役』といっていたチェシャ猫よりは目の前にいる大雅の方が遥かに頼りがいがあるように見えていた。
「――しかし、和也は一体何をしてここへ送られてきたんだ? あいつに聞いても身に覚えがないって言うばかりだし」
「え?」
意味がわからず、きょとんとした声を出してしまった美加を大雅は不思議そうな顔で見ている。
「秋吉も知らないのか? ――アタラクシアには、罪を犯した者しか送られてこない。和也も人に恨まれるようなことをしでかしてる筈なんだが……」
和也が何か悪い行いをしたということよりも、今の美加にとっては目の前にいる大雅が一体どんな罪を背負ってこのアタラクシアの住人になったかということの方が気になってしまっていた。
「――あなたは、一体何をして……?」
大雅は美加がその質問をするのを予期していたように静かに笑って言った。
「――俺は、人を殺した」
自分の告白に、眉を微かに動かしただけの美加を見て大雅は苦笑する。
「驚かないんだな」
その言葉で我に返ったように、美加は大雅から視線を外すとせわしなく瞬きをした。
「な――なんだか、さっきからびっくりすることばかりが起こって……。頭の中が麻痺しちゃってるみたい」
そんな美加の様子を見て、大雅は「ははっ」と軽く笑う。
「俺もここへ来たときはそんな感じだったよ。――でも、バトルが始まったら」
大雅の表情が一瞬で厳しいものに変わった。
「気を抜くな。――死ぬぞ」
鋭い眼光で射すくめられ、美加はブロック塀に置いておいた携帯の方へ手を伸ばす。
美加は今すぐにでも瑛太に助けを求めたかった。
実際、携帯の液晶には瑛太からのメッセージが表示され続けているのだが、美加は大雅から視線をそらすことが怖くて出来ないでいた。
「まぁ、そうならないように俺が来たんだからな。――安心しろ。和也と合流するまでは俺が秋吉を守る」
ニッと笑う大雅を見て、美加は半べそをかきながら引きつった笑顔でぎこちなくペコリと頭を下げた。
「携帯、チェックしてみたか? 和也から通信が来ているはずだぜ」
「あ、はい……」
大雅に言われ、美加はジーンズのポケットに入れたままだった旧携帯を取り出すとメールボックスを開いてみる。そんな美加の様子を大雅は不思議そうに見ていた。
「携帯、二つ持ってきたのか?」
「和也からのメールが、こっちの古い方の携帯にきたんです。サイトにアクセスしたとき、新しい携帯はポケットに入っていたので……」
「へぇ」
このアタラクシアでは携帯を複数持つのは珍しいことなのだろうか?と美加は不安にかられた。
しかし、大雅がそれ以上のことを聞いてくる様子もないようなので美加は安堵の息をつくと旧携帯に届いていた和也の通信を読みあげはじめた。瑛太にも内容を聞かせるためだ。
和也:
美加、来てくれてありがとう! 友達にボディガード頼んだ。大雅って奴。すっげー強いし、すっげー頼りになる
和也からの通信があまりにも短くぶっきらぼうなのに、美加の声音は正直に失望の念をあらわしてしまっていた。
「文字数の制限があるんだ。レベルが上がれば、もう少し長いのも送れるようになるんだが」
大雅の説明にうなずきながらも、美加は気分が晴れずにいた。
「秋吉がアタラクシアに入ったのを知って、和也はすごい喜んでたよ。早く会いたいって言ってた。――それと、こんなことに巻き込んでごめん、ってな」
言葉を探すようにしながら必死な様子でそういう大雅に、美加は照れたような、それでいてどことなく寂しげな笑顔を見せた。
――うぜーんだよ、お前。馬っ鹿じゃねーの?
――お前に気持ちなんか、これっぽっちも残ってねーって。
別れるときの和也の言葉を思い出すと、和也が自分に会いたいなんて言うとは思えない美加だった。
アタラクシアへ和也を助けるために来た自分へのご機嫌取りかもしれないとも美加は思った。
――どちらにしても、和也と早く合流してアタラクシアから脱出することを考えなくては。
改めて美加はそう決意すると、ブロック塀から腰を上げ大雅にしっかりとした口調でこう言った。
「最初のクエストの場所を教えてください」